〔書記朗讀〕
第七百三十条 第四百十六条ノ規定ハ不法行為ニ因ル損害ノ賠償ニ之ヲ準用ス
被害者ニ過失アリタルトキハ裁判所ハ損害賠償ノ額ヲ定ムルニ付キ之ヲ斟酌スルコトヲ得
(参照)四一七、オーストリア民法一三二五、オランダ民法一四〇六乃至一四〇八、スイス債務法五一、モンテネグロ財産法五七一、ベルギー民法草案一一二八、プロイセン一般ラント法一部六章一一二乃至一一四、ザクセン民法一四八九乃至一四九二、一四九七、一五〇一、バイエルン民法草案二編九四五乃至九四七 Fordham v. L. B. & S. C. R. Co., L. R., 4C. p.719., Tuff v. Waman, 27L. J., C. P. 322.
穂積陳重君
本条は損害賠償金の額及び損害賠償を致しますることに関する規定であります。義務不履行の場合に於て既に説明致して置きました如く、まず一般の場合に当てまするには、金銭が一番損害賠償には便利でありまするから、それ故に不法行為の場合に於てもやはりこの規定は当たるのがもとより当然のことと思います。第二項の規定は、恰度四百十七条の場合に相当致します。債務の不履行に関しまして、債権者の方に過失があったときに於ては、それが為めにもちろん不履行者がその責を免がれるということは出来ない。免れませぬ以上は、既に四百十五条に債務不履行の場合に於ける損害賠償の標準が示しでありますから、裁判所はその標準通りに通常生ずべき損害賠償を出させる。特別の場合は是々の損害賠償をさせるということに為らなければならぬと思います。債務不履行の場合にはこの明文がありますから、四百十五条の標準か裁判官が認めるに依って動かすことが出来るという、斯ういう規定がアノ場合には必要に為ったのであります。この不法行為の場合に於きましても、その道理は同じことであろうと思います。唯だこの被害者の方に過失があった、それで過失はあったけれども権利の侵害もあるし、権利の侵害に因って生じた損害もたしかに断定が出来る。是だけ是だけというものが、たしかに侵害の額ということが証明することが出来る場合に於て、本案の如き規定がありませぬときに於ては、裁判所はやはり七百十九条の規定に依りまして、その現に生じただけの損害をやらなければ往かぬという解釈が出て来はしますまいか。権利の侵害に因って生じた損害を賠償する責に任ずとあります。権利の侵害は証明された、それより生じた損害は、例えば立派に一万円ならば一万円ということが証明せられる。それでこの七百十九条ばかりであるというと、この過失を斟酌するという点があたかも無きか如く見えます。それは不法行為に因る損害賠償に付いては、別して不都合のことでありますから、それ故にかなり不法行為の場合に於ては、裁判官の斟酌の範囲を広くする方が宜しいと思います。それで別してこの場合に於ては、是だけは斟酌することを得るということを明かに言うて置いた方が宜しいと考えました。もっともこの第二項に付いては吾々の中にも議論がありまして、修正説として少数説が出る訳に為って居りますが、起草委員多数が之を置きましたのは、そういう風の理由から之を置いたのであります。
梅謙次郎君
ちょっと私が申しますが、之に付いては兼ねて修正説を出して居りますからその説明を致します。この第一項の方は、是で至極結構で吾々は皆同意でありましたが、第二項に付いては、ただ今穂積君から御報告があった通り、吾々の議がまとまらぬで、遂に修正意見を出すのやむを得ざる次第に為りました。それはつまり、私のはこの第二項を削って置く方が宜かろうという考であります。ただ今穂積君から御説明がありましたが、つまりこの規定は不履行に因る損害賠償に関する第四百十七条と権衡を得せしめんが為めに設けてある規定であります。この第四百十七条は私もアノままで宜かろうと思います。而してこの処には何せそれでは類似したる七百三十条の二項の規定が要らぬかというと、私の考えまする所では不履行の場合の賠償の義務と、それからこの不法行為の場合の賠償の義務とは性質が多少違う。大きい意味から言うと、やはり不履行の場合も債務者に不法行為があるということが言えぬこともありませぬが、アソコでは債務者が過失、普通の意味を以てする所の過失というものは無くても、やはり賠償の責任があります。例えば期限に至って、代替物であります、期限に至って代替物を探したけれども、どうも恰度生憎とその時に切れ目であった。それも履行の際になって探したのならばともかくでありますが、履行の二、三日前に為って探して見たけれども、恰度切れ目であった。東京ならば東京に無かった。遠国に往けば宜いが東京になかった。それが為めに履行が遅れた。斯ういう場合でもその債務者はその責を負わなければならぬ。その事は四百十四条に依って極明瞭であります。その事は疑を容れぬと思います。又そうなくではならぬ。この様な場合に於ては普通債務者に過失ありとは言えませぬ。けれども極或る間接の姿から言うと、初め債務を負うて何月何日に履行をすると言うた以上は、余程その前から準備をして置かなければならぬ。二、三日前から準備をするのは既に過失と言うかも知れませぬが、それを過失と言っては往かぬ。不法行為の場合は、そんな義務はありませぬ。而してちょっとした過失を皆この中に網羅するということでは無論ない。普通の注意をすれば、それで不法行為の場合になりませぬ。それ故に不履行の場合には、つまり過失はなくても債務者に責任のある場合があります。本条の場合には少しでも過失がないというと賠償の責が生ぜぬということが、余程事情が違う所であります。それ故にこの不履行の場合には、若しも債権者の過失が一部分たりとも助けたならば、やはり債権者にその不履行の損害の一部でも責を負わせるのが当然であります。もっとも不履行の場合も本条の場合も同じでありますが、現に損害の中で是だけの損害は債権者の過失より生じた、是だけの損害は債務者の過失より生じたということが分れば、それは明文が無くても、それは自ら原因結果の原則として、それは債務の方に於てその一部分は払わぬで宜しい。それは、一部分は債務者の不履行から生じたとは言えませぬ。又は債務者の不履行から生じたと言えても、それは債権者自身から生じたことで招いたのであるというて、或は明文はなくてもその場合には債権者が損害の一部を負担しなければならぬということに為るかも知れぬ。例えば履行を債務者の方で幾分か遅れて居る。その遅れて居る上に、その債権者の所為で履行のなお出来ぬように一層遅らせるようにしたならば、既に遅れて居れば債務者の過失でそれだけに付いての責はありますが、債権者の所為に因って一層遅れたということであれば、その後とに生ずる分が債務者が責を負う理由はないということは言うまでもないことと思います。今一歩進んで丸で不履行が債権者の方から生じた場合は幾らもあります。例えば、債権者か転居をして置きなから債務者に知らせぬ、債務者の方で相当の注意をして調べてもその行先きが分らぬというようなことがあります。そういう場合は不履行というものが債権者の方で生じたのでありますから、債務者はそれらに付いては丸で責はないと思います。その場合は無論責務者は無責任でなければならぬ。それらの場合は二つの点に付いては明文は要らぬかも知れませぬが、第四百十四条に広く債務者がその債務の本旨に従って履行をせぬときは賠償の責があると書てありますから、その場合に於てもやはり四百十七条の規定が必要に為って来ます。従って賠償の責任計りでなく、損害賠償の額に付いても裁判所で以て斟酌することが必要ということを明文を以て規定する必要があります。本条の場合はそれとは変って、即ち加害者の方の故意又は過失に因って他人の権利を侵害したという事実は証明せられて居ります。それ故に、その過失又は故意よりして生じたということの証明の出来る損害、それよりして生じた損害を賠償せしめるということが出来るということでありますれば、たとい債権者にも過失があったと云っても、そういう事を斟酌するに及びませぬ。その損害というものは、債務者の過失又は故意より他人の権利を侵したという不法行為より生じたということが、既に証明があります。先刻申上げました、債権者の過失に因って全く損害が生じた、債務者の過失に因って生じたのでないという証明がありますれば、無論本条の規定が無くてもそれは当然七百十九条が嵌まりませぬ。従って本条には、責任の有無とか何んとか極めてないのは全くそれが為めであります。それと同様で損害の一部分は債権者から起ったので、その過失に因って生じた債権者の受けた損害はそれより多い。その多いのはやはり債権者自身の過失で生じたということを証明せられたならば、それは明文が無くてもその債権者の過失より生じた損害は自から負担しなければならぬということは言うを俟ちませぬ。しかしながらその場合に付いて疑があるということならば、明文を置くということは蛇足とは思いますが、害の無いことだから私は反対はしませぬ。それならば「損害ノ一部カ被害者ノ過失ニ因リテ生ジタトキハ裁判所ハソノ額ヲ定ムルニ付キ之ヲ斟酌スルコトヲ要ス」、斯ういうことにすれば反対はしませぬ。蛇足とは思いますが、然るに本条の如く広くして「斟酌スルコトヲ得」と為って居るというと、文字の上から見ると損害に関係のない過失があっても、やはり之が適用せらるるようなものの如く見えます。極端の例を申しますれば、盗坊に物を盗まれた、それは店先きに放って置いて番をせぬで居った。被害者の大変な過失で以て持って往かれたのだから、裁判所は斟酌しなければならぬ、或は構わぬというようなことに為りますが、無論正当の解釈はこんな風に第二項を解釈してはなりませぬが、文字から見ればそういうことに見えます。稍々疑のある場合を申しますれば、例えば、この往来の劇しい車などの繁く通る処に、小さな子供などを遊ばせるのは極めて大きな過失であります。所が遊ばしてそれを車が挽き殺したとか、又は大きな怪我をさせたとか、その怪我をしたということが車夫の方で過失があったということは分ります。とにかくその過失から生じたということは分かって居りますが、けれども元々そういう処に遊ばして置くのは親の過失でありますから、そういうときに親が損害賠償の請求をしたときは、やはり斟酌するというのでありますから、損害は千円であるが過失があるから五百円にするということは無論言えると思います。それは如何でございましょうか、今の場合の如き随分大きい過失でありますから疑が起りましょうが、幾ら向うが、そういう処に遊ばして置くのが悪るいと云っても、車夫がどういうものか注意しても避けられぬであったということを証明すれば格別、そうでない車夫の方でとにかく過失があった、小さい声でも掛ければ宜いに小さい声も掛けなかったということが証明されますれば、親が半分だけ負うということはどうも酷であります。毎度新聞で見ますアレが一々当人に過失があるからというので、皆その一部分は本人が負担しなければならぬということであっては、どうも損害賠償の原理に戻ると思います。そういうことに為ると始終被害者の過失というものを見て、加害者が避けることが出来ます。裁判官もそれに依って幾分か斟酌することに為っては甚だ不都合と思いますからして、若し損害の一部が被害者の過失からして生じたということで、そういうことがハッキリ証明することが出来れば、裁判官がそういう場合は明文が無くても斟酌するであろうと思います。そうでない原因結果の関係は、損害が不法行為にある以上は、それだけのものは必ず被害者の方に賠償をしなければならぬ。若しそうでないということであれば、損害賠償は純然たる損害賠償でなくして、刑罰的のものであります。既に前会までに吾々の中からも説明しました如く、又不履行に因る損害賠償の処でも吾々から説明しました如く、本案に於ては賠償というものはいささかたりとも刑罰的の性質を帯びぬものである。従って既成法典などで、善意と悪意とを区別して賠償の額の多少を極めて居るのは往かぬということで廃して居る位であります。然るにこの処に来て、いささか刑罰的の性質を持って債権者の方に過失があるときは債権者の方の賠償額を斟酌するということに極めるのは、不当のことと思います。今外国の例で私が調べた所では、スイス債務法と「モンテネグロ」の財産法とに多少是と類似のものを見ます。他には見えませぬ。もっともバイエルンの方は、手許に無いのでありますから調べぬでありました。イギリスの方も調べぬでありました。スイス債務法で見ると、之は責任の有無に付いて斟酌するということに為って居ります。それ故に或はその意味たるや、過失がありさえすれば斟酌するというのでなくして、債権者の過失よりして損害の一部が生じたというときはそれを斟酌するという精神であるかも知れませぬ。五十一条の二項であります。スイス債務であります。斯う書いてあります(この処スイス債務法の原文を朗読す)。若し被害者の責に帰すべき過失があった場合には、裁判所は割合に応じて賠償額を減じ又は全く賠償を与えざることを得る、斯ういう風に為って居ります。之は唯だ過失さえあれば減ずるという意味であるか、過失さえあればたとい原因結果の関係が不法行為と損害賠償の間にあっても賠償を払わぬで宜しいということであるか、ヨモヤそうではなかろうと思います。「モンテネグロ」はどう書いてあるかならば、「その損害の一部が被害者の過失に因りて生じたるときは」と書いてあります。それならば明文は要りませぬ。そういうことに付いて若し疑が生ずるならば、先刻も申しました如き明文が置かれても私は決して反対でありませぬ。スイス債務法も同じことだろうと思います。損害の一部が債務者の過失に因って生じたならば云々。五十一条の二項であります。どうも書きようがそういうように見えます。「モンテネグロ」の方は極明瞭であります。そう云うことに為って居りますが、全く本案の通りの例は私は見ませぬ。それで実は本案の方であっても、解釈上は随分私の意味のように解せられぬこともありませぬが、文字が如何にも広いから、そういうように解することも無理でありますから、それで願くばこの二項は削って貰うか、左もなければ「モンテネグロ」の如く、先刻申したような文章に改めて戴きたいと思います。
土方寧君
ただ今の梅君の御意見は、理論は何時もの通り立派に通って居りますが、しかしこの二項の場合には実際どうでございましょうか。私はこの原案の通りでもなお不足と思います。債務の不履行に付いて、七百十九条と同様の解釈は今梅君のように十分為らぬかも知れませぬが、私の考えた所では、スイスの債務法のように損害の額のみならず責任の有無に付いて斟酌することを要す、被害者に過失のあったときには「得」でなく「要る」でなければ往かぬと思います。又それが実際に当ると思います。それで欧米の方はよく知りませぬからスイス債務法の通りということには言い兼ねますが、精神はその通りに解した。過失ということが一つの事実であります。乙に過失があったのも事実であります。その結果に依って乙なる者が害を被ったということも事実であります。その二つの事の原因結果の関係が明かであって双方も争わぬ。たとい争っても裁判所で決することが出来るということならば宜しいが、実際はそうでない。或る人が損害を被った、その損害は過失が原因であるかどうかということは実は難しい問題であると思います。梅君が言われるように、或る人に過失があって他の人が損害を被っても、その人にも過失があった、被害者にも過失があった、被害者に少しも過失かなかったならば、一方の方に過失があっても決して損害は生じなかったろう。甲に過失があった。乙が損害を蒙った。乙にも過失があった。けれども乙の過失がないときは決して損害は生じなかったろうというような事が明かに為ったならば、注文を置かなくても過失という結果から、その結果甲に損害賠償の責は無いということに為る。甲の過失のみでは何も生じない。それに加えるに乙の過失があったから損害が生じたということが明かに証明せられたならば、無論甲は責任が無いということに為ります。それが今言うように事実を仮定して見るというと明瞭になるが、実際原告の地位に在って請求するときはどちらも、相手の被告人の方にも過失があった、それが為めに損害を生じた、被告人の地位に立つ者も過失があったが原告の方にも過失があったから損害を生じたという事実問題、斯ういう事実の生じたときは双方の過失と、ここに損害を蒙ったという結果、この原因結果の関係に付いては事実問題に移るのでありますから、一方の当事者の言う所の事を以て直ちに決することは出来ませぬ。裁判があって始めて分ります。裁判の途行きでは或る場合には責任がなかった、或る場合には責任があった、被害者の方にも過失があった、それが為めに余計生じたからというので斟酌をしなければならぬと思います。どうも原告の地位に立って訴を起した被害者の方にも過失があったという場合に、その過失があったというが為めに損害を生じたということは、それは事実問題でありますから、その事実問題は裁判の結果で分ります。その裁判が無い中に分るということは余程難しい。それでこの二項の規則は、債務の不履行の場合と同じように為らなければならぬと思います。私の考ではイギリスの方でもそうであると思います。甲に過失があった。乙が損害を蒙った。この場合にどうであるか。或は乙の方にも過失があった、それにも拘わらず乙に過失が無くても損害を生じたということならばともかく、甲に過失があるか乙に過失が無いというとその損害は生じなかったということが証拠立てられるならば、不法行為の性質からそれは出来ぬ。それは事実を調べてから後決する。それを決する前には標準と為るものは、四百十七条のように定めて、一つその結果と見るべきものかどうか。損害は亦一つの事実でありますから、それを連続して進行して往くべきものであるか、更に損害の額のみならず責任の有無も這入らなければならぬと思います。私の考ではイギリスの方はそうであると思います。スイス債務法は今梅君から言われましたが、意味は皆欧米法と多分同じと思います。それで私はこの七百三十条の一項を改める。之には四百十六条を準用するとありますが、この四百十七条もやはり準用するということに改めたい。そうして二項は削りたいと思います。
議長(箕作麟祥君)
「第四百十六条及ビ第四百十七条ノ規定ハ」と為りますか。
横田国臣君
私は以前承った所では梅サンのような御説で、一旦裁判というものはどちらかに責を帰さなければならぬ。双方ということは善くないということを以前は承って居りました。そういうものかと思って居りました。しかしながら、どうも事実に徹して見ると、どうしてもそうでない。それは人力車というものは闇夜でも構わぬが、提灯は点ぼさなければならぬ。どちらも提灯を点ぼさぬで暗闇みに突つ懸った。この場合に於て過失というものは双方にあって同じことである。それでこの場合と、どちらも用心をしたが突つ懸ったという場合と二つありますが、之は私は必ず区別があるものであろうと思います。それでどちらにも過失が無くして突つ懸った場合は、たとい損害があっても、どちらも償わぬということに為ろうと思います。それからどちらにも過失かあったという場合には、その過失というものは過失者双方で分担するということが当り前と思います。之は、イギリスはその通りにして居るということを、私は之は法律を見たのでも何んでもないけれども、たしかの所から証せられて知って居ります。それで決して嘘ではない。その処で、この処で「斟酌スルコトヲ得」と起草者が書かれたのは必ずしも、して宜いしなくても宜いという意味で書かれたのでなくして、「斟酌スルコトヲ要ス」という御積りで書かれたと思います。それで例えば、船が互に衝突をしたということはどちらも過失が無くして衝突をしたというときには、たといどちらが多く損害を被って居っても償わぬ。その代りどちらにも過失があったというときには、その過失の高を双方で分担するという方が至当であろうと思います。それで何れにも過失が無かったという場合に、是非一方に過失を償わなければならぬということは、私は甚だ之は難しい事と思います。どちらも火を消したという場合に、裁判官はどちらかに定めなければならぬということにした所が、それは考え出せぬと思います。その事実からして、どうも私はこの方か善くはないかと思います。而も私は実例に依って益々この感覚を起したのであります。
富井政章君
ただ今土方君から出された案であります。即ち四百十六条と四百十七条も準用するということは、この案を定めるときにそうしたらどうかということを私から言ったこともあります。それで私はそうなった所が苦しくありませぬ。しかし、そうしなかった訳は何れ穂積君からも述べられましょうが、斯ういう理由てあったと思います。一つは準用が余り遠う過ぎる。「債務ノ不履行ニ関シ債権者」ということが加わるから、少しこの処へ準用するのは途が遠う過ぎるというのであります。もう一つは、責任の有無の方をこの処に唄うというと、少し丁寧過ぎて少し重複に為りはしないかという疑があります。その訳は責任がなくて宜しいという方と、重大な過失が被害者にあれば七百十九条のいわゆる「過失ニ因リテ他人ノ権利ヲ侵害シタル」ということは言えなく為ります。それでありますから、この責任の方は言わいでも宜しいという、斯ういう事であったと思います。唯それだけの事であります。他の点に付いては、賛成者があったときにでも復た述べさせて貰うかも知れませぬ。
土方寧君
横田君が、イギリスでは双方に分担させるというのは、海上の船の・・・・・。
土方寧君
外の場合には、現に双方過失があった場合に損害を生じた被告の過失のみでは損害を生ぜぬであったろうという場合には、原告が負けと私は聞て居る。銘々過失があっても原告の方、即ち被告者の方にも過失かあった、避け得る余地があった、それに避けなかったということで被害者の方にも過失があったということを見る場合もございます。それは加害者の侵害を避けることか出来ぬということであったならば、賠償の責任があるということに為って居るように思います。双方共に過失がなかった場合と同じように見る場合もあります。その損害は自ら招く損害というより仕方ない。
土方寧君
双方過失があったときは双方共に責任がない。それは不幸である。富井君の今の準用が遠お過ぎるということは、なるほどそうでありますが、それはこの処を書き直おしても宜しいが責任の有無の事を書ては如何にも面白くないということは、理論は先刻梅君が言われた。それでありますから何んとも言いませぬが、被害者にも過失がある、被害者に過失がなかったらば生じないであったろうということが証明せらるるのは、裁判が進行して後に始めて分る。裁判官が責任の有無まで極めなければならぬ。その極める標準にまず一つしなければならぬ。そうして果して加害者に責任があるということに極った以上は、額ということになります。まず第一に責任の有無の事を決しなければならぬ。その責任を決するには七百十九条は如何にも漠然に書てありますから、その責任の事を標準としなければならぬということを唄って置くことが必要と思います。
長谷川喬君
私は、土方君の四百十七条を加えるということには賛成であります。今富井君の御説明に拠って見ても、元来是に付いての御弁明に拠って見ても、やはり責任の有無を斟酌するということは当然であると思います。何ぜならば、この二項の趣意というものは畢竟便利主義で置かれたものと思います。若し文字の示す如くに読んだならば、梅君の言われた如く甚だ不法の事に為ると思います。一方は一つも害を受けて居らぬ。然に害を受けたか如く差引をさせるのは不当である。梅君が言われた通りに為ると思います。しかしながら、私は実際の適用上に於ては決して不都合は無いと思います。甲が一つ打った。その打たれた乙が更に甲を打ったという、斯ういう場合であります。そうすると、甲に罵ったとか一つ打ったとかいう過失がありますから、その過失に対しては乙が請求する権利があります。しかしながら、乙が多く打たれたものであるから、乙が訴を起して来た場合には甲は訴を起さぬでも、やはり差引することか出来る。斯ういう事に為るのであると思います。そうして看たならば、双方打ったのが均しい場合ならば、やはり責任が無いという結果を生ずるであろうと思います。そうして看れば、損害が相均しいときにはどちらにも責がないということも出来て来ようと思いますからして、既に本条第二項で斟酌を許したならば、その額に付いて斟酌を許したならば、その責任の有無に付いても斟酌を許すが至当であると思います。それでありますから、義務不履行の場合と本条の場合と区別する必要はなかろうと思います。それからついでに伺いますが、その点は甚だ恐れ入りますが、前の題号を議するときに出た問題でありますが、その時は余り直接でなかったから聴き漏らしましたが、それは四百十五条でありますが、この条は損害賠償の額を定める標準でありますが、之をこの処に適用をせぬのはどういう訳でございましょうか。極簡単に御説明を願います。
穂積陳重君
ただ今の御質問の点は先刻も申して置きましたが、斯ういう理由に帰するのであります。債務不履行に因って生すべき損害というものは、もちろん双方が初めから存して居る事実に依って見込み得べきものである。之はその当事者という者がこの事をしなければ、この債務というものを履行をしなければ、是だけの損害があるべきものであるという、その最も確かな範囲に付いて覚悟があるべきである。それ故に第一項と第二項との精神には違うのでなくして、それでその条にも申して置きました通り、予見し又は予見することを得べかりしということで、第一項の精神に依って特別の事情から見ても宜しい。元と当事者がその債権債務の範囲を定めたものでありますから、それでそれより生すべき損害の範囲というものも予め見込み得べきものであります。その見込み得べきものは、通常生ずべきものは予見して居らなければならぬ。斯ういう事であります。不法行為の方では、如斯権利の侵害を為せばどれだけの損害を生ずるかということは被害者に於てはもとより、初めから予見するというような、被害者に於て予見して居る場合と予見しない場合又は予見して居る積りでもその人か種々の関係を持って居ったり色々のことで予見の出来ぬこともあります。例えば人を殺すということに付いて、通常生すべき損害、斯ういうものはどれ位のものか、法律ではちっとも分らぬ。その場合、場合に依って変わる。畢竟元とか不正のものである以上はその損害と、その不正行為とその損害というものとの間の原因結果の関係が証明せられさえすれば、その原因を致した者がその結果を補うということは当然ということで如斯極まりを付けました。制限を附さなかったということを説明致しましたのであります。それから御修正の方の土方君の御説が成立ちましたが、その実質に於て私共敢て反対はしませぬが、しかしながら富井君の言われた通り、この原告即ち被害者と称しまする者に過失がある。その過失とというものがその損害の原因に為ったならば、之はもちろん被告がしたのでないということが言えます。全く自分が車の為めに傷けられたが、それは自分から車に奔り懸ったということであるとか、或はイギリスなどでよく出まする鉄道の戸を閉てるときに自分の方からうっかり手を出したとかいうようなことは、他人が故意又は過失に因ってやったのでなく自ら損害を醸したというような場合が多くあります。イギリスの「・・・・・・」というのは理論に於ては正しいと思います。それで加害者自分でしたことでない、却て向うがしたというような場合には、決して這入らぬという積りであります。又「被害者ニ過失アリタルトキ」というのは全く、長谷川君の解釈せられた如く吾々は見て居るのでありませぬ。向うも負うた、こっちも負うた、そうするとお互に負うたということで差引く、そういう意味ではありませぬ。私はそういうことでは大変不理屈に為ると思います。向うにもこっちにも不法行為があったから、それ故に向うの不法行為も無く為るということで相殺するような事は何んだか不理屈と思います。斯ういう場合であります。例えば、非常に罵詈したから打つに至ったというときに、その罵ったというのと差引をするのでない。その打つに至ったという事が、その原因が、罵るということが、必ず打つという結果は生じませぬが、その打たれるというには過失がある。それから人通りの多い道て飲んだくれて躍り廻わる。そうして車に乗り懸けられ、それは躍るということが車に乗り懸けられるという原因ではない。しかしながら、過失があったから丸で傷けられたという場合とは違う。そうすればその損害の額を極めるに付いては、それだけのことは自分にも過失があった。自分の生じた結果を・・・・・、公平であるということで不法行為と不法行為と算盤で差引をするということではない。その過失が不法行為に為ることがあります。
梅謙次郎君
私のに賛成がありませぬで土方君のに賛成がありましたが、それに付いてただ今穂積君の御説明もありましたが、私は若し長谷川君のように四百十七条が解せらるるならば、之を準用すると為っても宜しいのであります。何ぜならば、長谷川君の御論に拠って想像すると、原因はとにかく過失が原因であった。しかしながら、その過失よりして甲と乙との二つの損害が生じた。その損害は互いの間に生じたので一人が害を受けたのでない。その間に差引をするのは、之は一つの便方でありますが、そういうことならば無論必要があるかどうかは別問題でありますが、無論害の無い規定であります。所がこの四百十七条は、今穂積君が弁せられた如く、決してそういう意味でない。不履行より生ずる損害は、無論債務者に生ずる損害でない。債権者のみに生ずる損害であります。その債権者に生じた損害の中で、或は債権者自ら招いた損害もあります。それは無論差引く。それは何ぜかというと、実は四百十七条は丸でもう理論上はそう為らないではならぬので、即ち原因結果の関係がないからであります。しかのみならず、四百十七条は広く書てありますから、先刻私が申しました一つの例の如く、損害が債権者の過失で生じたという場合でなくしても、債権者の過失に因って助けたという事実が確かということならば斟酌される。それは不履行の場合は特別の理由があってそう為って居ると私は信ずる。この処でも若しこの二項を削って、単に四百十七条を準用するということになると、決して長谷川君の言われるようなことには為らぬと思います。今のような場合で、やはり被害者は二人あって加害者も二人ある。この場合に於ては、穂積君の言われたように各々が自分の過失に因って損害を招いて居ります。アナタの仰せに拠ると一番初めの者が罵った、それから打った。それから復った者が打ち返えされるということでありますから、互に招て居ります。そういう場合は適用はありますが、その適用たるや相殺ということでなくして、損害賠償の判決が二つ下ると思います。判決が二つ下った以上は、その下ったときにいよいよ執行というときに為って、或は相殺するかも知れませぬ。けれども決して裁判所で相殺するということはありませぬ。その場合は何れに為った所が宜しいと思いますが、そういう場合になくして被害者は飽くまでも一人であるが、その者はとにかく加害者の過失に因って損害を生じたということが証明せられる。損害の全部が過失から生じたということが証明せられる。しかしながら、向うが過失をやった事柄に付いて被害者の方にも多少過失があったという場合、その被害者の過失というものが損害の原因でなくしても、やはり斟酌して幾らか賠償額を減らすということが、どうも四百十七条をそのまま準用しても又今のように書てあっても、今の通り出て来る。それを私は嫌うのであります。
土方寧君
私の案に賛成者がありましたが、大変に大きく見えますが形ちは、しかしながら長谷川君も穂積君の言われた如く、原案と実質はそう変わりませぬ。そうして見ると、どうも斯ういう風に損害賠償の額だけに付いて斟酌することを得るということにして置くよりは、やはり責任の有無も斟酌をしなければならぬからして、やはりその事も唄って置くことが必要と思います。過失があっても損害のないこともある。それは裁判が多少進行して後の話しであります。先刻も申しました如く、損害のことも一つの事実であります。損害があっても誰にも過失の無いことがあります。誰れかと言った所が、つまり裁判所に往ってからでなければ分らぬ。それで過失ということが、過失者が既に責任があるという法律上の意味を持つべきものでない。事実を言い顕わすものであります。そうすると被害者が原告に為って損害を蒙ったと訴える、そうすると加害者たる被告人が私にも過失かあったが向うにも過失があったという双方申立がある。どちらの過失が原因であったか又は双方の過失が原因であったかというような、その原因関係を定めるに付いては裁判所で今申した通り、その責任の有無を定めなければならぬと思います。どうも過失ということが他の事実を言い顕わす如く、損害も亦事実を言い顕わす言葉であるということに見るのが適当と思います。それで私は四百十七条を準用するということは、斯ういう事に為ると思います。第一に、甲に過失があって乙が損害を蒙った。原因結果の関係は丸で甲に過失がある。乙が損害を受けた。その乙が訴を起したときに、その被告の位地に在る者に過失があったというけれども、原告たる者にも過失があった。その過失と相合して損害を受けた。原告に過失が無いときには損害は生じなかったということが証明せらるることならば、それは原因で無い。外のものが加ったのであるから、それはもとより無責任ということに為ります。そういうときには双方に過失があった。原告にも過失があったということで責任の有無を定める。若し原告の方で過失がなくして被告人の方で過失があった場合には、原因結果が証明せられたと見る。しかしながら、原告人に過失があった為めに損害が多く為った。二つ合して損害が殖えたということが証明せられるならば、その額を斟酌することに為ります。それは、責任の有無を定めることは裁判所で決するときに定めるのでありますから、それで斟酌すべきことを前に出して置く。理論で言えば、今言った場合は七百十四条の適用で明かであると言うが、それは少し理屈に偏し過ぎたようであります。
梅謙次郎君
先刻来、土方君からこの箇条を、まだ裁判官が事実を調べぬ中に斟酌するように御弁じに為りますが、それは多分御言い損いと思って居りましたが、今喋々と御弁じてありましたが、それは途方杜徹もないことであります。それはこの条計りでない。この場合でも事実を調べてからでなければならぬ。事実を調べるに付いて方法はどうかということは、民事訴訟法にはありますが、民法にはそういう規定はありませぬ。それ故無論不法行為と前の場合には、不履行とそれから損害というものの間の原因結果の関係がある。而して、その原因結果の関係というものが明かに証明されて証拠が挙ったときに始めて、この規定が適用せられる。それは疑を容れませぬ。それで今土方君の言われたようなことならば、之は丸で削って置いた方が宜しいと思います。土方君のように、債権者の過失であるから無責任であるとか、畢竟調べて見れば一方も過失がある。それが為めに損害が殖えたというようなときは、その一部分を負担するとか、その時は金額に付いて斟酌をするというようなことであれば、削って置く方が宜しい。若し明文が要るということならば、「損害ノ全部又ハ一部カ被害者ノ過失ニ因リテ生シタルトキハ裁判所ハソノ損害賠償ノ額ヲ斟酌スルコトヲ得」ということにすれば宜しい。そういう事に為れば宜しいが、之を置くというとそういう事には解されぬ。原因結果の関係は分かって居る。そうして損害というものは債権者の過失から生じたのでなくして、債務者の過失から生じた。加害者の過失から生じたということが証明せられて居るに拘わらず、債権者に少しの過失があるということを口実として、幾らか賠償の額を減少をする、斯ういうことに為ります。それは幾らか御覚悟を為さらなければならぬ。それで横田君が先刻言われた如く、暗闇みに双方突き当ったというようなときは、それはどちらの過失で出来たということは証明が出来ぬであります。その場合には誰某の過失で是だけの損害が生じました、斯ういうことの証明が出来ぬから丸で責任が無いということに為るから、その場合には如何にも土方君の御論はそう為ります。そうすると土方君の御論と私の論と同様に為りはしますまいが、それならば削って置いた方が宜しいと思います。
土方寧君
不法行為かどうかということを裁判所で決する前に斟酌するという・・・・・、それは或る事実に付いて争が起る。その事実に付いて責任があるか無いかということに付いて、法律がハッキリ極めたのでない。その事情を斟酌せよということで、この法律が斟酌することを得るとある。それで四百十七条もそうであります。債務不履行の場合も、その有無を斟酌する。斟酌するのは、責任の有無を斟酌するということは、言葉の上でありますが、責任のあるべきものとする。責任がある無いということを、事実から起る所の結果を、斟酌をする。その標準なるものが極らぬからして、裁判官が調べる中に付いて、その責任の有無に付いて決するのでありますから、それでこの条でも事実が確定して仕舞って居り、結果も確定して居るというとき計りでないと思います。事実が確定して居る。その事実は法律上どういう結果に為るかということに付いて事実が確定しても、法律上ではそれだけでは効用を為さぬ。斯ういう事実もある。それを綜合して見れば、責任が有るべきものか無いものかという点を斟酌することは、事実が確定して居る場合計りを言うのでないと思います。
横田国臣君
私は、この四百十七条を引くということはともかく、この処に別段に責任の事を書くのは、それは私は同じことに為ると思います。私は長谷川君の御説と少し違うのは、互に撃ち合ったというような場合は少し違う。それは撃ち合ったというときでも向うにも撃って来た。その原因は私が前に罵詈をしたという風の例はでなくして、斯ういう場合を言う。今ここに一つの損害がある。その損害に付いて双方がやった場合、例えばこの処に煙草盆がある。私と長谷川君とすもうでも取って壊わした。之が長谷川君の品物であった。その場合に長谷川君が私に損害を悉く出せと言うのは、如何にも無理であります。その時分には暗闇みでなくても現に明かであります。その場合に是非どちらかに過失を定めなければならぬ。どちらかにそれを定めるのは無理な話しである。事実ではそうであると思います。この処に裁判官が居られますが、それでこの「得」ということはどうでも宜しい。それで是でも宜しい。
長谷川喬君
ちょっと弁して置きますが、横田君が今申されたような例は、前に決したような共同不法行為の場合であると思います。私と横田君とすもうを取って壊われた。一部は私が不法行為者に為り、一部は私が被害者に為る。それは決したことであります。
議長(箕作麟祥君)
決を採りましょう。そうすると梅君の御説には賛成が無いようでありますが。
土方寧君
私の案は、四百十七条も四百十六条と同じく準用が出来るようにしたい。体裁が悪るいということでありますれば、その点だけは文章は書き替えても宜しい。
富井政章君
そういう漠然たることを止めて、一つが潰ぶれたら一つを出すということにしてはどうです。
議長(箕作麟祥君)
四百十七条と同じような意味を担ぎ出せば宜しいでございましょう。
横田国臣君
その意味では賛成をしない。唯だこの処に、前に書けば宜しい。
土方寧君
四百十七条も「斟酌スルコトヲ要ス」でございましょう。
梅謙次郎君
之は、文字だけのことは吾々三人相談をしましたから、皆責任があります。之は斯ういう積りで「得」ということにしました。四百十七条の方は、初めから極ハッキリして居ります。「債務ノ不履行ニ関シ債権者ニ過失アリタルトキハ裁判所ハ損害賠償ノ責任及ヒソノ金額ヲ定ムルニ付キ之ヲ斟酌ス」、この場合は当然斟酌すべきものでありますから「斟酌ス」と書きました。所がコチラは、初めは「被害者ニ過失アリタルトキハ・・・・・」。それでは困るから、その場合には裁判所の見込で、被害者の過失に因って、損害を生じたことの助けに為ったというものと、それは斟酌をすれば宜しいというので、之は裁判所の権利にしたのであります。
議長(箕作麟祥君)
土方君の案は「第四百十六条及ヒ第四百十七条ノ規定ハ」云々ということにして、二項を削るという御説でありますか。
梅謙次郎君
私はもう一つ出します。「損害ノ全部又ハ一部カ被害者ノ過失ニ因リテ生シタルトキハ裁判所ハ之ヲ斟酌スルコトヲ要ス」。
梅謙次郎君
「損害賠償ノ責任及ヒ基金額ヲ定ムルニ付キ」でも宜しい。
土方寧君
それでは、私は更に案を出します。二項を改めて「被害者ニ過失アリタルトキハ裁判所ハ損害賠償ノ責任及ヒソノ金額ヲ定ムルニ付キ之ヲ斟酌スルコトヲ得」。
議長(箕作麟祥君)
長谷川君は、それに賛成でありますか。
議長(箕作麟祥君)
それでは、ただ今の土方君の御説に賛成の方の起立を請います。
起立者 少数
梅謙次郎君
私のに御賛成を願います。今のよりは少は宜しい。「損害ノ全部又ハ一部カ被害者ノ過失ニ因リテ生シタルトキハ裁判所ハソノ責任及ヒ金額ニ付キ之ヲ斟酌スルコトヲ要ス」というのであるから。
土方寧君
何れも通りませぬから、むしろ損害賠償の額だけ書て置くのは不都合でありますから、梅君の初めの御説の削除説に賛成をして置きます。
議長(箕作麟祥君)
梅さんの初めのは、二項だけ削除でありますか。
議長(箕作麟祥君)
それでは、梅君の御説の二項削除説に賛成の方の起立を請います。
起立者 少数
土方寧君
それでは、私はたとい通らぬでも宜しいと思いますから、議題に為ったということが記録に残るのでありますから出して置きます。「裁判所ハ損害賠償ノ責任及ヒ金額ニ付キ之ヲ斟酌スルコトヲ要ス」と致します。
議長(箕作麟祥君)
ただ今の土方君の修正に賛成の方の起立を請います。
議長(箕作麟祥君)
横田君は、賛成ではありませぬか。
議長(箕作麟祥君)
それでは、別になければ原案に決して次条に移りますが。
土方寧君
私は、大変大きな事でありますがちょっと一言したい。実は先刻ちょっと長谷川君から御質問に為った問題でありますが、七百十五条であります。あの条がやはり不法行為に適用が出来るものと信ずるのであります。それでこの処には四百十六条だけでありますが、それを「第四百十五条及ヒ第四百十六条ノ規定ハ」ということに改めたいのであります。理屈を言い出すと長く為りますから別に申しませぬが、どうも過失ということがあったにしても、その結果というものが証明せられるならば無限の責任があるということは、実に人の過失を見ることが全く酷に過ぎると思います。誰れか過失がある。その過失があるが為めに損害を生じたならば、どれだけの・・・・、それだけの注意をしなかったということならば、それだけの過失がありますから、十分責めることがありますが、しかしながらその結果は誰れが見ても分らぬ。その事に付いては言いたいが長く為りますから申しませぬが、七百十五条というものを入れたいと思います。
長谷川喬君
賛成したいが、反論が出ますから止めます。
議長(箕作麟祥君)
それでは賛成者がありませぬから成立ちませぬ。次に移ります。