議長(箕作麟祥君)
それでは会議を開きます。前会に七百二十七条が起草委員の説明があったままで散会になりましたから、今日は引続き御発言になりまして宜しうございます。
穂積陳重君
その議事に御掛りになる前に、この前文章を作って来る様にという御注文がありましたから、それをちょっと提出致したうございます。七百二十五条の土地の工作物の瑕疵から生じます損害に付いては、占有者がまず第一に損害賠償の責に任ずる、しかし占有者がその損害の発生を防止するに充分の注意をしたときは所有者がその責に任ずる、という主義だけが規定になりました。その文章は次会に拵へて来いということであります。試に斯の如く附加えようと思います。第一項の移りに但書を加えまして、「但占有者ガ損害ノ発生ヲ防止スルニ必要ナル注意ヲ為シタルトキハソノ損害ハ所有者之ヲ賠償スルコトヲ要ス」と到しまして、第三項の「占有者ハ」という字の下に「又ハ所有者」ということに改めたい。
穂積八束君
是れは過失なきときは違うのでありますか。
穂積陳重君
それは違います積りであります。占有者に過失のないときは、今までの所では占有者は、貸家の例で重もに議論が出たことでありますが、例えば賃借人の如き余程大破に及んで屋根の瓦が落ちそうなとか壁が壊れるとか塀が毀れたとかいうときは遅滞なく地主家主に通知しますれば、それで占有者は過失がない。本案の如くなりますれば、先ず落ちそうであればつっかい棒をして置いて通知をするということになるのでありますから、元の一番損害の発生のことで直接の関係のある者が第一に責任を持つという趣意は本案で引繰返したのではない。ただ過失なきときはと言いますれば、例えばその工作物の設置に付いて不完全なことがあって、その保存修繕等に付いて、例えばそれを借りて居ります者が借りて居りますだけ是まで法律で命ぜられて居ることだけすれば、まず過失ないということになる。そうすれば、とにかく斯の如き工作物を持って居った者が直接に危ういものは保持する注意をしなければならぬということでありますから、この方が占有者の義務が余程重い。この前磯部君の御発議もやはりこの意味てあったように解して居ります。
議長(箕作麟祥君)
それでは、ただ今の修正は別に御発議がなければ修正の通りに決しまして、七百二十七条に移ります。
横田国臣君
この七百二十七条に付いて御尋ねを致したい。是れは余程憲法の書き方に似て居る。余程私は之に疑の点がある。「数人カ共同ノ不法行為ニ因リテ」というこの「共同」ということはどれだけの意義を之に持たせるか。それでこの第二項に「共同行為者中ノ孰レカソノ損害ヲ加エタルカヲ知ルコト能ハサルトキ亦同シ」とある。この共同行為者とある以上は共同にしたのだから、無論前に籠りそうなものでありますが、前のとは違って、思わないことをしたので、例えば人を殴りに往った、そうしてそれを殺したというような場合でも這入るのでありますか。それから之に付いてもなお御尋ねしたいのは、民法上のことと刑法上の事と少し違うと思う。それは教唆者及び幇助者という者がある。この中に共謀者という者がある。無論教唆者も幇助者も共謀者も同じで宜いが、例えば教唆者でも幇助者でもない、共謀するということがある。それは民法上では入るべきものであろうと思います。がしかし刑法上では入らぬことと思う。この事だけを御尋ねします。
穂積陳重君
共同の不法行為と申しますことは、数人が或る行為を為しまして、而してその行為の目的と致します所又その結果は一つの権利侵害でありまして、その侵害というものも之に依て生じました場合を見て居る積りであります。この第二項の共同行為者という場合ももとより、第一項の中に籠ります積りでありますが、第二項は御質問の中に籠って居った意味とは少し違う積りであります。即ち数人が共謀を致しまして、予め共謀するのもその時の勢いでも宜しうございますが、同一の事を為して人を殴ろうとかいうその処為に付いて、或人の杖とか或人の拳とかいうものが被害者の頭に当る。それが為めに被害者その他に損害を加えるということになる。現にそこを襲いました者は分かって居るが、誰が打ったということは分らぬ。そうすると或る者は既遂犯となり、或る者は未だその目的を達さぬということになる。刑法では斯ういうことはもちろん出来ないと思いますが、その損害を加えた者は誰やら分らぬでも、皆一緒に連帯責任を負わせるという意味の積りであります。第二項は・・・・・。
横田国臣君
それは人々の解釈上になりますか知りませぬが、それならば第一項の方に籠って仕舞う。刑法にも籠る。自分で往って一緒に人を殺す、或は棒を持って打った奴もあるし、足を切った奴もある。手を切った奴もある。刑法で明文があって、それを分つというならば格別でありますが、自分が共謀して共謀のことを遂げたのであるから同じである。皆未遂犯にならなければならぬ。無論民事でもそうなければならぬ。私はそれならば余程解釈を違えて居ったのであります。ただ前口から共謀ということが殺すというのである。打に往った所が誰か知らぬ殺したというときは、誰れが殺したか分らぬからそれは問題になると思いますが、皆が共謀して同一の力が籠ったものと見ますが、しかしながらそうは見なければそれまででありますが、今第三に御尋ねしたいのは、自分が一緒にしたように是れは見える。しかし往かぬ奴がある。みんな今夜往って殺して金を取ってくるから待って居れと言って留守をして居る奴がある。それは連帯をさせぬというのでありますか。
穂積陳重君
この第二項のことは色々になりましょうと思います。私の御答えが、或はよく通じなかったかも知れませぬが、この共同行為という中に一人が番をして居って、それから一人が手を下す、そういう風なのは御説の通り、私は初めから共謀してやったので、第一項に加わって仕舞う積りであります。ただ第二項は、そういう関係もない皆が起って、例えば或る事に激して皆が打てやるというような風の時に当りましょうと思います。共同行為に依て他人に損害を加えるということは、直接に例えば、頭を打ったとか直接にその家を壊わしたとか、皆が一同に手を下したとかいうことに当るのではない。それ故に、共謀の場合は第一項に当ると申したのであります。誰が打ったか分らぬ、そこを五人も六人も襲ったというのが第二項に当る積りであります。それから第三の御質問に移ります。自分はその事に関係しない、しかしながら後で自分がその物を取って来いとか、それからその利益だけを受ける。そういうようなことは、事実で本当にその行為を為した一部分になるときとならないときとがあろうと思います。後からその品物を隠してやりました、後からその人を匿もうてやりましたというような風なのは、是れでは第三項の幇助という。その事柄を為し遂げるのを幇助したということには這入らぬのであるますから、通常這入らぬ。それは本案には入れてない。それを入れてある国もあります。後からその不法行為をかばわんとした者はやはり共同行為者と看做すとか、例えばザクセンなどにその条文があります。しかしそれまでをこの処を入れる積りでは、実はなかったのであります。
横田国臣君
是は、私は決してそれに付いて異議はありませぬ。幇助者という中に今の、後から隠れてやった、この而後の幇助者として論ずる国もあれば論じない国もあるから、それは弁じませぬ。がただ、しかしながら共同というのを二項の共同と一項の共同とは違う。一項の共同は合意があって、二項の共同は合意がないという御説であるが、どうも文字上では判然し兼ねようと思います。それで若し合意がないということになったならば、私は二項は余程の無理であろうと思います。ただ同時にやったということに解するのである共同という意味からして、分り兼ねるようになります。
穂積陳重君
共同は、一項は合意がある、二項は合意がないということで使うたのではない。一番初めに説明しました如く、共同の不法行為と言えば、とにかく大勢が或る事を為した、しかしその結果というものは、即ち七百十九条に当る。皆が故意か又は過失がある。或る場合に於ては共謀もありましょう。又或る場合に於ては過失もありましょう。即ち大勢が同時に起った、しかしその権利侵害の行為というものは皆一緒に集まって出来た。一人々々の行為はある、一人々々の意思はある、権利侵害は一つ事柄になる。それで共同不法行為という、その行為の結果が他人の権利侵害ということに至った。そこで第一項の場合は、おまえは留守をして居れ、私が往って打つというような場合も、もちろん這入る。第一項は共謀の場合は、という意味ではなかったのであります。
磯部四郎君
ちょっと同じ質問になりましょうと思いますが、私も共同行為者という者は第一項と同じことになりはしないかと思います。是れは、私は斯ういう意味に解して居った。数人の行為者中いづれがその損害を加えたることを知ること能わざるとき又同じ、というように読んで居りました。自分が予め謀った、通謀したということもなく、何か事が起って一時にバットとして人を打った。その時にどちらが打ったか分らぬというときには、二項を以て論ずるということに読んで居った。そうすればどうしても、この共同という文字が可笑しくはないか。共同行為者ということになると、とにかく予め合同して居ったようにしか読めぬのでありますから、相成る可くは、何処は数人同時に合意したる者とか何んとかいう意味になれば大いに分り易くなると思う。とにかく共同行為者というと、予め意思の通謀があった人だけにしか見えぬようであります。それで私の伺うのは、私のような意味で数人が同時に同一の意思で為した、それは誰れが為したか分らぬというのは、この条に這入らぬのであるか。若しそれならば、何とか修正説を提出したい考えであります。
穂積陳重君
同じ意味の積りであります。共同行為者と云えば、共同の意思も同じであるということに読めぬこともありますまい。数人同時にそうして同一に不法行為を同じ者に向って為す、ということを言い現わすことは難しいと思います。
議長(箕作麟祥君)
共同行為という文字が重いか分らぬ。
穂積陳重君
第二項の場合は重いか分らぬ。しかし磯部君の如く数人同一の行為でもいかぬ。
梅謙次郎君
何か是れよりももっと明瞭な文字が見出されますれば、私共早速賛成しますが、如何にもただ今横田さん或は磯部さんの御疑いになるような嫌いは無論あると思います。避けられるなら避けたいと思いますが、しかしながら斯ういう風に読めぬこともない。共同と言えば共に同じくでありますから、同時に同じ行為を為した。その同じという幅は、ただ一つ手を打つときが同じか、是れも打ちあれも打つというのが同じか、そこは見様でありますが、あれを殴ってやろうという約束をしなくても、そこへ往って甲も打ち乙も打ちついに死んだ。どれが打ったので死んだのか分らぬ。この場合に共同行為者、共に同じく為したる行為ということになろう。所が前の方は、数人の行為が侵害の原因であったということが説明せられた場合に、それはどういう場合かと言いますれば、人間を打ったときでもそんな風に見られないこともありませぬが、物を壊わしたような場合に最も起ると思う。みんなが打ったから物を壊わした。この場合は何々の物を壊わしたという行為は、とにかく五人ならば五人の者にあるということは明かであります。この場合は明かに七百二十七条の第二項の前段に当ると思う。後段はそうでない。打っても一向きずの付かなかった人もある。ただ壊わした人もある。或は人間であれば最も明瞭でありますが、ただ打って痛かったというならば、損害賠償の原因になりますまいが、その中打って生命に関わるような怪我をさせぬというときは、損害の責に任ずるということになる。しかしなお共同という文字が、今の意味を一層明かにする文字があれば結構であります。
土方寧君
二項の場合に於ては、本来教唆者も幇助者も共同行為者とは言えぬのでありますか。
穂積陳重君
そういう積りであります。どうしても性質上は言えない。教唆者又は幇助者は直接に関わった者とは言えないから、刑法でも之を従犯として居ると思います。しかしながら不法行為者でないとは初めから言えない。第二項は、共同行為者として責任を負わせる。全体の責任を負わせるということで之を置いたのである。
横田国臣君
是れは少し刑法に関係があろうと思いますから、一つ御参考の為めに申上げたい。この殴打の如きというものは、土台その目的が殴打ということであるから、その結果に至って死に致す意志がないのであるから、その場合は随分疑があります。この通常の共同行為者、例えば私が人を罵った、脇の人も罵った、という場合に連帯ということになるかどうか。犯罪でも若し合意がなく、ただ別々にやった。合意がない以上は別々にやるより外ない。殴打罪の如きは、最も之に適切と思う。その他の場合を一緒にやる、例えば私の所に一人の盗人が来て金を取って往く、それから又後で取って往く。それを連帯して負うというのは余程ひどいであろうと思う。前の場合は無論共謀さえあって、真の共犯というものなら私は異論はない。その代り、たとい一人で取ろうとも一人で殺そうとも一緒に殺しに往って加勢をした、必ず殺すということを自分でしなくても是れは合意である。それで二項の方は、場合に依ては是れは適当の者か知らぬが、殴打罪の如きは宜いが他の犯罪に付いてはどういう風に解釈するか余程苦しむ。外の犯罪で合意がなくてやるという場合は・・・・・・、合意があれば無論第二項に籠って仕舞う。
穂積陳重君
財産に対してもある。随分田舎などで金持の家を壊わすというような、あんなことに往々大勢でやるということが殴打以外にもありはしますまいか。
横田国臣君
それはなるほど一緒に往って壊わすというようなことがありましょうが、その時分は合意のあった者、即ち共犯と見て宜かろう。それだから合意もなく共犯にならない場合に、皆この処を見なければなるまい。殴打の如きは故意でその結果は何が出るか分らぬが、初めは殴打しかない。それだから今の刑法には殴打罪は殊更に妙な箇条が挙って居りますが、それは私は好きではない。
磯部四郎君
ちょっと斯ういう風になったらどうか。「同時ニ合意者数人アリテソノ中孰レカ損害ヲ加エタルカヲ知ルコト能ハサルトキモ亦同シ」となったらどうか。
梅謙次郎君
それなら斯うなってはどうか。同時に不法行為を為したる者の中孰れがその損害を加えたるかを知ること能はざるとき、となってはどうか。
高木豊三君
七百二十七条の第一項には、横田君の御説明を聞くと共謀したようなものを極めたようなことでありますが、そうでありますか。
穂積陳重君
それには限らない。共謀をすれば無論初めの方に這入ります。
穂積陳重君
第二項の場合は、同時に起った場合が這入る。それから、初めにみんなが一度に或る事に激して打ったとか壊わしたとかいうときは、一項の方に這入る
高木豊三君
なるほど刑法の理屈などに是が差響くものとして御解釈になると、色々通謀とか共謀とかいうことが必要でありましょうが、しかしこの民法の方の損害賠償の点に付いては、そういう必要はないと思う。つまり一つの不法行為というものをやって、それに依て損害を生じたもの、即ち横田君の言われた、刑法の殴打罪には特別の刑を極めて結果に依て刑の軽重を定むることになって居る。つまり人が生きるとか死ぬとかいう、いわゆる刑法上の責任でなくして、ただ結果である。この原則で往くと損害賠償はやはり皆が負わなければならぬ。その通りでこの条は無論宜かろうと思います。刑法に関係を持つという説がありましたが、私はむしろこのまま少しも差支がないと思う。
富井政章君
私の考えも諸君の御考えと同じことであると思いますが、なお念の為めに確かめて置きます。第一項の末段の場合を、同時に為したものと極めて仕舞っても全く疑は消えて仕舞はしない。その訳は、例えば横田君の説明の如く、私は家に酒を買って待って居る。待って居ってもその議に預った以上はやはり第一項の上段に当嵌まる。そうすれば今度は甲乙二人が共謀して丙を打ちに往こうというときは、たといその中の甲だけが打ったにした所が、この第一項の末段が適用されるのでなくして、やはり上段が適用されるのであろうと思う。そうでなければ、先の酒を買って家に待って居る者と権衡が取れぬと思う。その場合はやはり有形の結果の方から見たのでない。単に行為というものを有形の結果から見たのである。一緒にやった、その中の誰がやったということを問わないというのも、やはり初めの中に這入って仕舞う。そうすれば第二項の方は、例えば酒の席に聘ばれた者が、一時に腹で己れも殴ってやろう己れも殴ってやろう、誰が殴ったか分らぬという場合に適用される。同時にというと、もやはり通謀して甲乙の二人が入って、そうして実際甲だけが打ったというように適用が読める。ただ文章の上では、同時にというだけでは果して私の解して居るような意味が諸君の意味であれば、或は今一層明瞭な言葉に改めた方が善くはないか。それとも私の考えが間違って居るならば、御正しを願います。
長谷川喬君
私は全く原案を賛成します。私の解釈は間違って居ったか知らぬが、そう難しくないと思う。第一項の所は、是れは自分が同一の不法行為をした場合である。そうして損害も同じことをした場合である。それから第二項の後段の方は、打つことは打った、しかしながら打つということは既に不法行為である、それは共同じで打った、しかしきずを附けた者は誰れか分らぬ。そのきずに付いてはやはり連帯して負わなでればならぬということであるから、共同行為者ということにすれば差支ないと思う。同一というと後から打つ前から打つ、その打つという原因が違って居るように思うから、私は共同ということが必要と思う。
土方寧君
今、長谷川君の本条の解釈でありますが、その解釈にすると、共同行為者は第一項の上段に這入るか知れませぬが、そうすれば二項の「教唆者及ビ幇助者ハ之ヲ共同行為者ト看做ス」いう方は尚更這入らなければならぬと思います。一項の上段は数人共謀した者もありましょうが、各手を下して害を加えた。それが共同行為者一項の末段の方は、是は皆同じ場所、同じ時に、同じ行為をした、しかしその中で害を加えた者は誰れであるか不明である。即ちその時手を出した者は皆同じ責任がある。それも共同行為と見るというので、それは性質から言えば、教唆者幇助者と同じである。その人の所為は共同行為者でないが、共同行為者と同じ責任のある者と看做すというのであるから、第二項を教唆者幇助者共謀者と三つにしたらどうか。
長谷川喬君
本条の一項の解釈に付いて、富井君の言われるには、窃盗なら窃盗をして来いというので、酒を買って待って居るのは教唆ではない。ただ相談に預ったのである。それは第一項に籠るという御説でありましたが、私は一項に籠らぬ。共同の不法行為と云えば、自から為した行為でそれで末項に謂う教唆者幇助者にならなければ、連帯の責を負わぬことと思う。
富井政章君
大変な実質問題になって来た。若しこの第一項では、長谷川君の言われるように単純なる共謀者、即ち議には預った、即ち何誰某を斯うしろという議には預ったが、手を下すときには居なかったというときは、丸で無責任で宜しいと言っては大変困る。第一項がそういう風に読めるならば、疑を解く為めに、土方君の言うように第二項に共謀者の三字を入れたが宜いと思う。私は、実質上は手を下さずとも議に預ったならば責任がなくてはならぬと思う。若し是れでそう読めなければ、土方君の言うように教唆者若くは幇助者共謀者は之を共同行為者と看做すという事にしたが宜い。
長谷川喬君
そうすると、刑法との関係はどうなりますか。
富井政章君
刑法の共犯という意味は、私は有形の方から見た意味である。しかしこの処の共犯は、有形無形広く這入ると見て居る。しかしそう取れなければ直しても宜い。
高木豊三君
私は富井君と正反対で、刑法では教唆者という者はたとい犯罪の行為に加功せずと雖も正犯を以て論ずるということで、人を殺した者も教唆した者も同じに論ずることに原則はなって居るが、民法では行為に加わった者でなければ論じない。若しそれが原因となって私訴を起すというときは、無論共犯者も下手人も同一の連帯の義務を負うけれども、ただ民法上の損害賠償を受くるときは誰某に教唆されてやりましたと云っても、その教唆された奴は民法上では構わぬ。
長谷川喬君
二項に教唆者ということがあるからして、この教唆という定義から下さなければならぬが、まず刑法に言う教唆というものなら宜いが、然るに横田さんの言われたのでは刑法の教唆者ではない。窃盗をして来よう、それなら酒を買って待って居ようという教唆者でない。酒を買って待って居ようというのも、それも一項中に含むというなら悪るい。教唆者ならば末項に含むという積りであります。ただ刑事上では相談しただけでは罪にならぬ。教唆者とか従犯とかいうことにならなければ罪とならぬというのに、民法ではその者にも責を負わすように聞えますから、それでは解釈が違う。
富井政章君
議に預って酒を買って待って居る者は、刑法であろうが民法であろうが教唆者とは見ないということは分かって居ります。けれども刑法ではその者を共犯と見做す。民法では連帯者として共に議に預ったのであるから、教唆者と同じ責任があるというのである。しかし教唆者と共同行為者と同じことにするのは、実は不権衡極わまったことと思う。
長谷川喬君
私は不権衡であるまいと思う。たとい窃盗をしよう、窃盗をしようと決議しましても行はない内は害はない。行った者は誰かと言えば今の例で言えば二人てあって、その行った者それからそれを行はしむるに至った者は共に責任を負わせて宜い。しかし窃盗をしてくるから酒を買って待って居るという者まで、連帯の責を負わせるのはどうかと思う。
富井政章君
それは行うという字の解釈次第で、長谷川君は行うというのは有形上手を下すというの意味で御論じになるが、私の考えでは、行うというのは刑法であろうが民法であろうが一つの意思を事実に現わすというのであって、それには有形の原案と無形の原案とある。手を下すという者もある。又残る者もある。それであるから純粋の議論から言えば、立派な共同行為者である。けれども刑法などもそういう風に見て居らぬ。一般の説がそうであるが疑わしいから、念の為めに斯う書いたのであるが、行為というのは単に有形の事実だけでない。
長谷川喬君
そうすれば、富井君は刑法と同じものだと言われるが、そうすると酒を買って家に待って居る者も窃盗の一人と言われるのでありますか。
富井政章君
それは刑法と反対になると言ったのであります。
梅謙次郎君
私はこの箇条はそんなに難しくない積りでありますが、大変やかましくなりました。刑法は私は不案内でありますから、刑法の解釈としては誤って居るか知りませぬが、刑法で罰して居ることも民法では論じないということは珍らしからぬことでありますから、この規定と刑法と同じになって居らぬでも差支えないと思います。実は私は、二項は要らぬという考えであったので、今富井君が言われた如く共同の行為を単純に見ることは出来ぬ。第一の人が手を下して、第二の人第三の人は手を下さずとも、つまり三人で一つの行為をしたものと見れば、二項はなくても宜いという積りでありますが、追々諸君の御議論を聞くと、特に刑法上で別のものになって居るし、疑いのあることであるから、むしろ明文を掲げて置くが宜いと思いますから、とにかく疑いのなくなるのは賛成でありますから同意したので、その位でありますから共謀者は無論連帯責任を負わさなくてはならぬという考えである。教唆者と共謀者という者は、なるほど場合に依ては教唆者の方が罪が重いかも知れぬが、多くの場合は共謀者の方が罪が重い。前にちょっと窃盗強盗の例が出ましたが、例えば私と他の或者と両人で長谷川君の所に往って泥坊をしようと言った。しかし両人往ってはごとごとするから君往け、僕は跡に待って酒を買って居る。そうしてあなたの所から取って来た物は山分けにする。それは共謀である。若し一項の方にそれが這入らぬというならば、富井君の言われる通り土方君の説の如く、共謀者の三字を入れても宜いが、実質上それが改まることを望みませぬ。
長谷川喬君
梅君の御解釈に依ると、教唆者という者も共謀者というものも共に事を為した者であると言われたが、私もそれは同意である。しかしながらこの処に末項を掲げてあると、第一項に言う所の者は実行したる者と解釈したから、今の説は通らぬ。若し今の説のようであると、どうかしないと私の解釈が相当と思う。若し一項が実行であると末項は入らぬということになろうと思う。それから、第二は私が先に言うた通りの次第であるから、共謀者にも責を負わせるというのは重過ながらやはり原案のままで宜しいと思う。
富井政章君
文章は後でどうにでもなる。実質を先きに極めなければいかぬ。共謀の議に預ったら、手を下した者も下さぬ者も罰するが善いかどうかということを極めたが宜い。
土方寧君
手を下さぬて共謀の議に預った者は、やはり共謀者として罰するが善いと思う。それで共謀者というのを二項に附加える説を出して見ます。
穂積陳重君
私は、共謀者ということが這入るに付いては実質上反対ではありませぬが、その共謀者にして、いやしくもその行為に着手しましたとか或は番をして居るとかその他犯罪を為すに便利ならしむる行為をすれば、共謀に違いない。それから共謀者は大概の場合は幇助者になりは致しますまいが、一緒にそういうことをするならば----議に預るというならば、共謀者に這入る。その目的を掲示し或はその目的を便ならしむる為めに探索をする、或はそれが為めに器具を供するとか種々様々のもので大概の場合は幇助者に這入り得ると思います。がしかし共謀者という字を入れた所が格別異論はないが、その場合は第二項の幇助者という中に籠って居る。
富井政章君
為念の為めに確かめ置きたい。この甲乙の間は斯ういうことが極まって居るという事を、横合から聞いて知って居る。そうして酒を買って待って居るというのは共謀者というのではない。若しそう言えるなら、おかみさんも子供も共謀者である。
長谷川喬君
今穂積君の言われたことは、或は教唆者になるか幇助者になるかであると思う。然るに教唆者にもならぬ幇助者にもならぬ、即ち酒を買って待って居る、それをば連帯の責を負わせるというのは私は酷に過ぎると思う。それが宜いというならば私は不権衡と思う。なるほど先刻横田君に対する答弁に依ると、幇助者という中には事後の従犯は這入らぬ。或国にはそれも含んて居るというが、そうすると犯罪を容易ならしむることをしたのは構わぬ。しかし酒を買って待って居った、ただ相談したというその者をば連帯の責を負わせるというのは、どうも権衡上から言っても善くないから、それを含ませるならば、而後の従犯も含ませなければなかぬ。
富井政章君
甲乙丙の三人が共に丁なる者を殺そうではないかということを企て議を決したという場合は、どれも教唆者でもなし幇助者でもない。その中の甲乙二人が手を下しに往った。丙はやはり共謀者である。何ぜならば教唆者というのは器具を供したとか有形上無形上その事を為すに預ったのでない。ただその事の成就をたやすくしたというのである。
梅謙次郎君
私は一つ伺いたいことがある。先刻から例に出て居りますから御答えを願いたいのは、私が或者と相談して長谷川君の所に往って泥坊をしよう、しかし両人往くに及ばぬから一人で往って、持って来た者は山分けにしようと言って、私は家に酒を買って待って居る。そうして持って来た物を山分けにしたという。斯ういう事実のあった場合には、長谷川君は七百二十七条を適用せぬが宜いという御考えであるか。私の考えでは初めから泥坊をしようという相談をして、一人が手を下した、がしかしその結果は二人で分ったならば、私はこれを一の行為と見る方が穏当であると思う。富井君の言われた如く、それは全く幇助者でもなく教唆者でもない共同行為者と見る。その場合に事後従犯の者と同じにしては可笑しい。罪の程度からは同じかも知らぬが、事柄は違うので事後行為者はその行為を為すときにはその意思が加わって居らぬ。先刻の例で言えば一人の意思でばかりやったのではない。私の意思もやはり籠って居る。後から助けるのはそうでない。行為をするときは全く単純てあった。後から或る不法なることをするに人が加わった。その不法なることを後からすることに付いては十分責任があって宜いが、前にあったことをそれが済んだ後に責任があるということはない。それ故に二つの問に区別があると思う。ただ不法に人の物を取ったという場合に、取りに往った者は一人てあったが、後から山分けした。初めから強て預ったものではないが、後でその人の取って来た物の所有権を半分づつ分けるということは、共同行為者と見做して、やはり七百二十七条が這入ると思う。取って来ることは共同てなかったが、その取って来た物を二人て分けることは共同行為と見ることが出来ると思う。
土方寧君
つまり長谷川君の御考えでは、七百二十七条の第一項の中には共謀者が這入って居らぬ、又這入って居ないが適当だというのが論拠である。又起草者の御考えでは共謀者は無論一項に這入る。無論罰すべき者だということで私も罰すべき者であるということは同意する。多くは幇助者か教唆者になりましょうが、共謀者として責任を負わせるには、二項に共謀者ということが加わらなければいかぬ。もっとも行為ということの学理上の見解からして、二項の教唆者共謀者ということは要らぬということならば、二項を削ったが宜い。あって見ると、共謀者ということを加えなければどうも可笑しい。二項があって教唆者幇助者は本来共同行為者でないけれども、法律でそう見るということになると、共謀者の場合に疑いが生ずるから共謀者も加える方が宜い。むしろ之を除いて仕舞うが宜いという説が出るか知らぬが、それは余り学理の高尚に失した者であって、打合せて家に引込んで居る、酒を買って待って居るという意思を発表したら、それは共同行為であるということが言えぬことはありますまいが、少し学理に偏して居って、通常言う共同行為でないと思う。本来共同行為というものは、普通の意味に取って置いて、そうして二項の方に共謀者という者を置くが宜いと思います。
長谷川喬君
私に対して梅君から御問いがありましたから御答え致します。横田君の出された例で、二人で窃盗をしようという相談をした、しかし二人の人は入用でないから私は往かないという場合に、その者が第二項に含むや否や、私は含まぬと思います。何ぜならば、それはただ相談をしただけであります。もっともそれは事実問題でありますが、いやしくも教唆の事実が一つもないと見たならば、それに共同の責を負わすべきものでない。しかし取って来た財産で贓物の山分けをした。それは刑法で謂う事後の従犯たる責はあるでありましょう。そこで先に言う通り、この幇助者という中には事後の従犯も入れなければならぬと思う。梅君は事後の従犯は一向前の行為に関係がないと言われるが、例えば或人が是れから往って泥坊をして来るから買って貰いたいというので、盗んで来て或者に売る。それは全く教唆者でもなければ幇助者でもない。そうして事実から論すると買おうというものがあったなら、罪を犯すには甚だ便利になった。若しそれをも共に本条の責を負わすというならば宜いが、ただ相談したということがあるだけで以て、それに責を負わせるということがあると、相談は意言だけのことを罰するということになって不都合と思う。共謀という文字があるから云々ということを土方君が言われましたが、なるほど刑法上でも共謀だけで罪を為すことがあるのはもちろんの事である。
横田国臣君
私は全くそれに付いては富井君を賛成するのである。合せて梅君を賛成するのであります。それで幇助者の中に共謀者が大概籠るということは決してない。共謀者と幇助者とは丸で違う。共謀者の中に幇助をする者がないとは言いませぬが、それで事後の幇助者という者を刑法で拵えようとも拵えまいともそれは同じことであります。如何となれば、ただ幇助者と言わんのみで、即ち贓物を分ったときは罰する。強窃盗の贓物たることを知って受けたる者は云々の箇条で罰する。斯ういう者は共同行為と看做すというが、私は至当と思う。又左もない通常の共謀のみは私はいけまいと思う。それは民法上でもいけまいと思う。民法上の論からして、あの人の物を取れ、宜かろうということで直ちに向うに損害が生ずるものとは私は思わぬ。それで私は実は、第二項はみんなが損害を加えて知れぬからして、みんなの全部に付いてやるということは私は宜いけれども、是が連帯になるということは実にひどいと思う。一体連帯ということは通謀があるから連帯になる。それは宜いけれども、通謀がなくして連帯になるということは私は少しく嫌いなのであります。誰がやったか分らぬから、それを各自に分担して百円の物なら十円分担するというのが至当の事である。で共謀者なくて連帯ということがくるということは、この二項は一体嫌いなのであります。それでどうも私は却て既成法典の方が宜いと思う。
梅謙次郎君
ただ今横田さんの御論がありましたが、別に案となって賛成があったのでもありませぬが、立ちましたついでにただ一言申して置きます。この一項の末段の場合であります。この場合に一部分づつ負担することというのは、それこそ理屈がないと思う。全部義務というならば理屈が立ちますが、連帯は既成法典には代理があるということでありますが、ボアソナード氏は通謗諜がなければ代理がないということで、それをいう為めにわざわざ一つは連帯、一つは代理として分けてある。連帯も本案では殆ど既成法典と違わぬ位効力が狭くなって居る。代理という観念は本案は取らぬ。そうすれば平均上、連帯にした方が宜い。些細の違いしかないのに、この場合に一方は全部と見る、一方は連帯と見るのは小刀細工であるから、両方とも連帯としたので、理屈から言えば本人の分らぬのに責任を負わせるのは間違って居るか知らぬが、斯うして置かぬと被害者は誠に迷惑である。それで便宜上被害者の為めに斯うしてある。それから又共謀者を入れることに付いては、今長谷川君が言われましたが、おまえが之を盗んて来れば買ってやろう、盗んて来るから買って呉れと言った、その場合に私が待て居る。一人が手を下した場合とは大変違う。初めの場合は、元々自分が泥坊をする意思がなければ又相手の者も一緒にその人と事を共にする意思はない。自分一人で泥坊をする意思がある。ただ後て買って呉れる。都合が宜いから予め話をしたので共謀ということではない。盗むという行為と贓品を買うという行為であって自ら区別がある。然るに他に罰条がないから、今の刑法で一緒にしたのは間違って居ると思う。しかし刑法で罰する罰せぬということは、純然たる理屈になるから止めますが、ただ意思だけで損害が生じなければ損害賠償の問題が起らぬ。その意思が発表してそこで損害賠償の問題が起る。無論私は共謀者という字が這入っても宜かろうと思う。就ては諸君の御考えで共謀者は純然たる共同行為者でないという御考えがありますなら、それも幾分か理屈がありますから、私はその説に賛成しても宜しうございます。
高木豊三君
私は第二項は削るが宜いと思う。富井君の言われる如きものは無論這入らぬという方が、民法としては至当と思う。いささかその理由を述べますが、先刻から皆さんの御論じになる所、又原案の主義に依りましても、始終刑法の主義と言って宜いか意味と言って宜いか、その主義を以て原案が出来た。なるほど第二項は、現にドイツの草案にもこの通り当るようであります。是れはどういうことであろうかという事を考えて見ますのに、教唆者幇助者を罰するということはいづれも刑法の性質のことであろうと思う。語を換えて言えば、行為を為さずしてただ単に或犯罪を勧めて助けたということは、是れは全く教唆者に至っては、少しも行為なくしてただ意思を促かした、決意を促したというだけである。幇助者がその器械を与え、その家に這入る方法を教えた。その意思は憎むべきであるという事は、刑法の処罰の目的としては咎む可きことであるが、しかしながら民法の損害賠償の訴を提起するにはそこまで這入る可きことであるか疑う。私は民法では現実に損害を生じた者に責を負わせるというのが民法の範囲の極端であろうと思う。若しそれでなければ、何故にこの不正の損害という中に自分が行為を為したということに限るのであるか。総ての民事の行為で他人に損害を生ずるような事を勧めた方法を与えたような奴があると、それは皆その者に賠償の責を負わさなければならぬ。それでたとい、不法行為と雖もこの教唆者とか幇助者とかいうのは、是れは刑法の通りその意思を罰するのであるが、他人の損害を償わせることは出来ぬと思う。それで之を削って仕舞う。そうすると諸君の中には刑事の方は刑事裁判所に訴え、私訴の方は民事裁判所に起訴するときはどうかという説がありましょうが、刑事の方で之を共犯人として極めて仕舞えば、是れは教唆者であろうが幇助者であろうが均しくその裁判の結果として均しく知った者と見て差支ない。けれども例えば十人寄って人の家を潰した。そうして訴えられた所が仲裁人が這入って訴えは止んだが、しかし償ないだけを出さなければならぬ。この場合に民事裁判所は十人して壊わした、しかし誰某が教唆した、誰某が塀を壊わした、鍬は誰が貸したという。そういうような者を民事裁判所へ引張り出して、そうしてそれに連帯の責任を負わせるというのは如何なものでありましょうか。民事の性質として私は出来ぬことと思う。現にドイツにも這入って居りましたが、民法の上には教唆者とか幇助者とかいう者はこの中に入れて、連帯の責任を負わせるということは少し見当違いであるまいかと思う。それから梅君の御説明の如く、なるほど私はその場合は少ないと思いますが、向うの物を持って来て損害を加えることがないとも言えぬ。それだから若しその者がその行為に加功せずしてその財物を分ち得たという場合は、是れは何もこの条に依らずとも行為を為したことに付いて連帯の責任に依て償いを求められる。物が残って居れば返還を求められる。又使って仕舞ったならば不当の利得を之を請求することが出来る。民法上ではその方から往くのが当り前の道ではあるまいか。而して之を取ってどういう不都合があるかと言えば、教唆者幇助者が人を殺して刑法で問はれるならば、無論その方で刑罰も受けるし賠償も得られる。とにかくそういうものを担ぎ出して置くのは、体裁上善くもなし理論としても面白くないから、むしろ削るが宜いと思います。
磯部四郎君
ちょっと御尋ねしたうございます。私は先程から大変高尚の議論を承はりましたが、いよいよ二項が分らなくなって来た故。教唆者とか共謀者とか幇助者とかいう者を罰するとかどうとかいうことは、是は立法主義になりますから善いか悪いは置いて、とにかく損害を生じた者は皆罰するということでそれは誠に結構でありましょうが、特にこの処に共同行為者ということがありますが、この字の裏を言うと、損害を加えた者は何人か分らぬというときである。損害を加えた人に掛って往くより外に仕方がないというときであって、そこへ持って来て共同行為者という文字があるが、そうすれば共同行為という文字はとにかく御改めにならぬと、訳の分らぬことになって仕舞う。それだけで教唆者幇助者という者を第一項の上段に送りになって之を終りの別項にするかどうかしないと、有形無形を問はず損害を生じたならば総て連帯者だと言って、真ん中の害の知れた奴だけに掛ると困る。立法主義は暫く置いて、とにかく分らなくなったということだけを申して置きます。
土方寧君
今の磯部君の御論は御もっともでありますが、私は差支ないと思います。二項の末段でありますが、共同行為者でも大勢あって、害を加えた者が知れぬときというのでありますが、害を加えた者は責任があって、害を加えない者は責任がないということになるから、それで宜いと思う。それで二項の方の教唆者とか幇助者とかいう者は、是は害の原因を為して居る者でなければ共謀者でも教唆者でもない。
富井政章君
まだ賛成者がありませぬが、是は余程大きな点でありますからちょっと一言して置きます。教唆者の講釈を諸君の前でするのは仏前の説法でありますが、やむを得ず一言申します。教唆ということは何んであるかと言えば、事を為すに決心せしめた者で、即ち無形の原因でありますが、是れが主動者である。刑法で言えば教唆がなかったならば犯罪が生じなかった。民事で言えば教唆がなかったらその損害が生じなかったというのであります。即ちその損害を生ぜしめた本尊であるが、然らばその本を罰さずして末の者を罰するということはどうであろうか。この点は刑法に於ても民法に於ても少しも違わぬと思う。
横田国臣君
ちょっと伺いたい。合せて高木君に伺いたい。この教唆者幇助者という者は、今富井君の言われるには民法でも宜いということでありますが、私はどうも刑法に限るような感覚がある。高木君は、之を削れば刑法で罰せられるというが、それは感服しない。この処にある以上には、どうしても民事裁判所に出た折には、貴様は教唆者であるが刑事の裁判所て罰せられたと云えば、この明文がなければいかぬと思う。又この共謀者という事を入れるのは少し考えものだ。ただ共謀者というと悉くの場合が籠る。それは嫌いの方である。どうもこの箇条は、自分勝手の説を附けて是れで宜しいというように、どうも聞える。民事の教唆者は刑事の教唆者になって余程曖昧である。しかしながら教唆者幇助者という文字は、刑法から出た文字であります。通常の場合に教唆者幇助者に償ないの責を負わせるということはないと思う。
富井政章君
横田さんに伺いますが、共謀者というと先刻贓物を受けたということに付いて議論があった。それが共謀者になるかならぬか、それに付いて私の意見を一言します。それだけでは共謀者でない。共謀者というならば、初めから事を企ててから決したから共謀者で、後から物を受けるのは少しも関係がない。いやしくも事を一緒に挙げた以上は、後から物を受くるという有無を問わない。犯罪という物が生じた後に、従犯という者がある筈がない。従犯と言えば犯罪の実行を容易ならしむるのであるから、その場合は民法でどうなるかと言えば、不法行為に依て得た物を或る人が持って居るというのでありますから、所有権取戻しとかそんなことが起って来るのであります。それは少しも幇助者にはならない。その代りにこの事実がなくても、いやしくも中途に企て決したら、それでやはり幇助者になる。
横田国臣君
私は若し今の富井君の言われた通りであるならば、私は、ただ共謀というだけでは害を加えて居らぬ。ただ共謀というだけで、いつか盗もうという同意をしただけで、それが非常な効力というものを向うに押付けて是非取らしたような行為があれば教唆者であるが、そうではない。それからして害を生じて居らないから、償ないて貰うということでないという考えであります。
議長(箕作麟祥君)
土方君に伺いますが、共謀者という字を第二項に入れるだけでありますな・・・・・・。之に賛成がありますか。
磯部四郎君
私は二項の教唆者幇助者という文字は、余程難しいから一つに縮めて仕舞って、「損害ノ原因ヲ致シタル者ハ現ニ手ヲ下サスト雖モ共同行為者ト看做ス」という是れだけのことになったら、後は事実問題にして宜いと思う。
土方寧君
私も磯部君の案の趣意には賛成で、この共謀者という語は刑法にある語で少し厳めしいから、なるべく避けたい。それで害の原因を為して居らぬ者ならば、共謀者とは言えぬ。事実に当嵌めて見れば幇助者の疑いがありますが、幇助者と言っても害の原因となることは一つである。現に手を下さずと雖も、というような語は何んとか書きようがありませぬか。その辺の文章がよく出来ればその方に直したい。
議長(箕作麟祥君)
そうすれば土方君は、共謀者という字を入れることはお止めになるのでありますか。
磯部四郎君
いっそのこと末段だけを次に廻わして戴くと、共謀者という文字が漠として宜いと思う。第二項を置いて之を真ん中に置くと、殆ど分らぬ文章になって仕舞う。何んでもこの共同という文字さえ抜ければ宜い。それで私は斯ういうことにしたいと思う。第二段の文章をこのままにして置いて、之を項を変えて二項の次を第二段の文章にするということの修正を出します。
議長(箕作麟祥君)
それでは土方君の修正説は、第二項に共謀者という文字を入れるという説であります。土方君に同意の諸君は起立を請います。
起立者 少数
議長(箕作麟祥君)
少数。それでは磯部君の御説も高木君の御説も賛成がありませぬから、決を採りませぬ。
土方寧君
それでは磯部君に賛成します。そうしてその意味を起草委員に文章を練って書いて貰うという条件で、賛成をする。
議長(箕作麟祥君)
そうすると磯部君の修正説は、第一項を二段にして第二項を第三項として「損害ノ原因ヲ致シタル者ハ現ニ手ヲ下サルト雖モ共同行為ト看做ス」という修正説であります。その説に賛成の方の起立を請います。
起立者 少数
土方寧君
高木君とは少し違う。高木君の説は無理だと思うから顧みない。それで私は、むしろそれが為めに共謀者の疑いが起ろう。若し共謀者が黙って居っても、一項の上段に這入るということならばそれが宜いと思う。それなら同じ論鉾で、是やはりない方が宜い。書くなら一緒に書く。二項を削除する理由は違いますけれども賛成します。
高木豊三君
理由が悪るくても賛成する。そんな賛成はいらぬ。
土方寧君
理由が違っても、削るということは一緒であります。
議長(箕作麟祥君)
それでは採りませぬ。他に御発議がなければ原案に決しまして次に移ります。なお起草委員に願って置きますが、後段で少し穏かでありませぬからなお文章は御考えを願います。