〔書記朗讀〕
第七百二十四条 註文者ハ請負人カ其仕事ニ付キ第三者ニ加ヘタル損害ヲ賠償スル責ニ任セス但註文又ハ指図ニ付キ註文者ニ過失アリタルトキハコノ限ニ在ラス
(参照)Rapson v. Cubitt, 9M & W. 710., Pearson v. Cox, L. R. 2C. P. D. 369. Allen v. Howard, 7Q B. 960.
穂積陳重君
本条は前条との関係に依りまして実際上必ず疑いが起るべきことでありまして、又イギリスなどでは余程疑いが起って居ることであります。それ故に特に之を載せますことが必要であると認めたのであります。或事業の為めに他人を使用すると言いましても、その事業の事柄が被用者に於きましては、自分が商売柄のことであるとか専問の事柄であるとかその他その人をこっちが使用するというよりはむしろその仕事を誂えるという註文の方になりましたことに付いては、どうも選任ということも甚だ素人の目には当を得て居るや否やということは見分けが出来ぬ、監督に於ては益々出来ぬことがあるかも知れませぬ。小さい事柄に於きましては、例えば人力に乗ってステーションに往くということがある。随分その道で人に怪我をさせる或は屋台店に突掛る。徳義上では乗って居る旦那が払ってやるということになって居るが、しかしながら性質上向うは全く独立営業を為して居る者であります。而してその仕事はこちらで註文をするので請負仕事をして居るのでありますが、その場合に人力車の挽き方とか注意とかいうものは法律上乗客が責任を負うということは道理上、よろずないことであります。しかし但書の場合は、大急ぎでやれとか或は人通りの多い所であっても構わずに大急ぎでやれという時分に過失があった場合はもちろん指図をした者に責がありますが、彼の普請の場合に大工を頼んで普請をさせる、その大工が屋根から道具を落しますとか、材木を落しますとかいうことがある。それに付いてその屋根の持主或はその註文者に損害賠償の責があるかどうかという、そういうことに付いては実際上幾らも問題が起ります。それらがどうも前の「或事業ノ為メニ他人ヲ使用スル者」という一般の規定に当って、その註文主という者が損害賠償の責任を負わなければならぬことになるから、明かに仕事を請負う場合は是れよりして除外しなければ不都合である。極鋭い法律の解釈に依り何処までも論じ詰めて往きますれば、その結果は斯うなりましょうと思いますが、しかしながら何処でも他人を或る事に用いるということに付いての区別に付いて非常に疑いが存して居ることであります。又実際上屡々起ることでありますから、それ故一箇条置きました。
土方寧君
この七百二十四条の趣意を御説明になりまして分りましたが、御説明中にこの条がなくても外の条で能く精密に解釈して往ったならば結果は七百二十四条の通りになるであろうが随分疑いが生ずる恐れがあるから念の為めに置いたということでありますが、私はなくても宜さそうに思う。外の国の立法例にはあるかどうか知りませぬが、イギリスの立法例は参照条文に引いてありますが、外には明文はないことと思う。例の少ないことならば、余程のことでなければ削除しで宜しい。この七百二十四条の趣意は私も大体賛成であるが、この七百二十四条を読んで見ると前と同様で、つまり人を使用する者は責任を負うというのは、つまり自己の過失であるというように定めて仕舞った以上は七百二十四条は要らぬと思う。イギリスでは疑いがあると仰しゃいますが、この請負人という者はどういう者を言うか、若し請負人をインボンメントラクトと訳して見ますれば、この請負人が人を使ったならばいわゆる註文者と見るがそれも見様に依ては違う。イギリスの規則に依れば、被用者の所為に付いて使用者に責任があるということに付いては選任の過失があるということになって居るが、理由は区々になって居る。理由は区々になって居るが被用者が他人に加えた損害は使用者が責を負うという規則は動かすべからざることで使用者の責任を重くしてある。之を重くする理由は公益上の理由は、使用者は概して有資力者であるが被用者は無資力者が多いものであるからという考えであったろう。そういうような考えが交って余程厳重な責任になって居る。その主義に依ると請負人は、多くは資産のあるものでありますから、そんな厳重なことをせぬでも宜いということになる。七百二十三条に言う様な注意を欠いたならば責を負うので、それは被害者を保護する為めにやむを得ぬという精神から来て居ると思う。そうすればたとえ請負人でもその人の選任を誤ったということは、註文者の方に過失があればその損害の責を負わなければならぬということにして差支ない。元々自分の過失に依て生じた損害であるから責任を負うということにして差支ない。請負人を外の使用人と区別する必要はない。イギリスにこの七百二十四条のような規則があるのはそれは一種の便利主義でで来て居る。それは場合に依ては余り厳重過ぎて必要を見ないから、この条は削って宜かろうと思う。
穂積陳重君
本案は、イギリスで事業家が他人を使用するという為めに、余程厳重の規則になって居る。それは御説の通りでありますが、この前条の書き方を御覧下さると稍本条の必要が分ろうと思います。しかしながら請負人、例えば大工に自分の屋敷を立てることを命じてその屋敷の煉瓦を隣へ落したというときは、註文者がその責に任じなければならぬという。実質上御反対でありますれば致し方がないが、前条は他人を使用すると書いてあって、ただ雇傭雇ままばかりとは読め憎い書き方になって居る。殊に横田君が事業という字は大き過ぎると言われましたが、とにかく或る事の為めに仕事をするということに広く書いてありますから、それ故に本条がないと註文の場合でも何んでも、例えば大工が普請その他の工作に付いてやはり是れが嵌りはしないか、随分大きな請負仕事の為めに人を使うて、それからして色々の損害が出て来る。それは請負人がその賠償の責に任ずるのが相当であって、殆ど之を托します人はその事を知らぬ、全く委せるという位の性質のものでありますから、その被用者の選任ということも誠に分り悪い話であります。イギリスのインボンメントラクトに付いては大きな請負師と称する者だけではもちろんないので、独立職業をして居る者ならば何んでも宜い。人力車でも馬車でもやはり之に当るのであります。その下の方のイギリスの理由というものはちょっと私は御同意致し兼ねますが、とにかくこの実質上、例えば大きな工事をさせるとか或は建築工事をさせるとかそういうことまでもやはり註文者が責任を負わなければいかぬ。選任が不注意であったという実質上の御議論から削除になるならば、是れは一つの御論でありますが、この事柄が宜いというならば是れは存して置いて御貰い申したいと思う。
土方寧君
この請負人というものは身代のある者ということに限れますまいが、概して身代のある者であるから責を負わしてあるので、私の考えではこの条を削って置いても些っとも差支はない。それが為めに実質が変っても宜いと思う。若し前に謂う所の請負人のことが前条に謂う所の被用人ということに這入るものであったならば、その請負人を選任するに付いて不注意があったならば、それは責任を負わせて宜しい。それが当り前であるけれども、若し請負人が前条に謂う所の被用人と言えない独立した対等の相手方ということであると、前条の被用人という中には這入らぬ。その場合に被用人と見るべきものであるかどうかということは、場合に依て決することは決して困難でない。ここに謂う請負人が被用人でなければ箇条は当らぬからそれ故に本条は要らぬ。
長谷川喬君
土方君とは違いますが私も疑がある。本条に謂う所の請負人という者は六百三十九条の請負の定義にある「請負」は「当事者ノ一方カ或仕事ヲ完成スルコトヲ約シ相手方カ其仕事ノ結果ニ対シテ報酬ヲ與ウルコトヲ約スルニ因リテ其效力ヲ生ス」ということであろうと思う。この請負という定義に付いて論をして今に範囲が分らぬ位でありますが、しかしまず仕事を是だけということを極めた場合は請負で、それから仕事を極めずして日に幾らやる或は月に幾らやるという場合は雇傭ということで、大体の所は済んだようであります。そこで本条の場合で、請負の場合は斯ういう例外があるが雇傭の場合はどうでありますか。やはりその場合も同じではありませぬか。ただ契約が、仕事それ自身を目的としたか労力自身を目的としたかというので違いがあるので、註文者の位置にある者の注意の度合という者は一つであろうと思う。一の普請をしたに付いて、斯ういう家を建てて呉れ土蔵を拵へて呉れと言えば請負で或は日々来て働いて呉れというと雇傭になるから、雇傭と請負とは性質は違うが註文者の方から言えば同じものであるが、本条に一つは例外を置き、一つは例外を置かぬというのは権衡を得ないと思いますが如何がでありましょうか。
穂積陳重君
請負という仕事自身を目的として、それを契約いたします場合は多くは自分が指図するとか自分が監督する選任の義務の方で往くか知りませぬが、事業の監督ということはありませぬ向うでしますから、----例えば仕立屋に衣服を仕立させますとか、大工に家を建てさせる、向うに仕事を任せますからその損害は註文者にない方がどうも適当と思う。その仕事自身を請負いますものであれば、十中八九はその人に責任を負わせる方が穏当であろうと思う。例外がないとは申しませぬが極わめて少ない。それからその他の場合に付いて使用致します場合は、是も十中八九ある。その被用者にその仕事を託するか否やということの見極めを附けるとか或は事業の監督をすることが出来るとかいうことが多くて、その仕事自身を向うに任せない場合が多いから、自ら区別するが穏当ではないかと考えた。多く仕事の請負というと向うに任かせて仕舞う。結果の出来るまではまずこの方は知らぬ位で、別段註文をしなければ----それでこの区別をして置かぬと一番賠償をし安い者とか金のある方とかに掛られはしないか。又大きな仕事に付いては註文した方に掛られては大変困るのでありますから、それ故に斯ういう区別を設けた方が至当であろうと考えます。
梅謙次郎君
本条に付いて段々御説が出ましたが、解釈が私の信ずるようになれば削除になっても異存はありませぬが、先刻の土方君の御趣意を伺うと私の考えで居る所と違った結果を生ずるから、そこを一言確かめて置きたい。私も之を削られましても是れはこの通りになる。請負人という者は自分に責任を負うべき者であって、その責任に付いては註文者が負わなければならぬ。しかしその註文又は指図に付いて過失があれば、その部分だけは註文者の過失で人に損害を加えたということになるから、それは註文者に責任があるという積りである。所が土方君の御説では、請負人は前条の被用人の中に這入ることがあろう。そういう者には前条が這入るが宜い。この中に這入らぬ者は普通の原則で宜しいということであるが、それでは困る。土方君は御入れになるか知らぬが、請負人までもこの中に入れるということは我々が七百二十三条を書くときにはそういう考えはなかったのであります。既成法典は土方君の言われるようになるか知りなせぬが、例えば人力車を雇うてただ一日幾らと言って勝手の所に雇うて往くのは被用者であります。それは契約の上から言えば雇傭になるそうでなくして、この処からこの処まで幾らで往くかと言ったときに参りましょうと言って往く。この場合は私はただ車の上に乗って居って車夫は何処を通っても宜い。私が車夫を雇うときに、例えば怒りっぽい人間を雇うた。それから車の上に乗って居った処が人の足を踏んだ。何ぜ注意して踏ませぬようにせぬかと言われては困る。そういう場合にも請負であれば被用者の中に這入らない。大工でも大工に是だけのことをして呉れと言って任せるのと、そうでなく日幾らで之をしろあれをしろという雇傭と請負と区別が難しいというように、この前にも議論が出ましたが極標準は明瞭である。契約それ自身の上に於て不明瞭なことは少しもありませぬ。車夫と雖も日幾ら月幾らと言って雇われた場合は使用者が責任を負うが、請負の場合は責任を負わぬが宜いと思う。既成法典の如きはそれが一様になりはしないかと思うので、そういうことになっては困ります。若しそういうことでない請負の場合は、いつも被用者が払うということになるならば、強いてこの箇条はなくてならぬとは申しませぬが、しかし土方君でさえそういう解釈をされる位でありますから、ポンと之を出すとやはり既成法典の如く、被用者の中には雇傭者の外に請負人までも一部分は這入るという解釈をする人が起って来はしないかと思います。それ故削られることは不賛成であります。
土方寧君
私の言い様が悪るかったが、結果は梅君と同じである。この条があると請負人であるか被用人であるかという疑が生ずる。或場合に於ては是は被用人である、或場合には是は請負人であるということに場合々々に依て決することになる。請負人という者は被用人でない丸で別なものでありますれば、註文者との間には前条の使用人と被用人との関係はないから、自分の方に責任があるべき筈がない。但書の様なことは本文があるから出て来るので、之を削っても宜いと思う。この条があっても被用人であるや否請負人であるやという問題が出て来る。被用人であれば前条に這入るから書いて置かぬでもこの通りの解釈になるという考えであります。
長谷川喬君
私は不権衡だと思いますが、そうでないということでありますが、梅君が例に出された人力車に付いて言えば、請負は何処から何処まで往く、それで幾らで挽いて往くと言えば請負ということに言われましたが、そうすれば何処から何処まで挽いて往くこの車夫が怒りっぽくて人を害したという場合と、今日貴様を雇うから己れを挽いて往けと言って挽いて往ったその車夫が怒りっぽくて人を害した場合と、その時の註文者は同一の責に立つべき位置であろうと思う。ただ何処から何処までと言ったから軽くして宜いということはあるまいと思う。然るに今梅君の言う如く、雇傭という者になると例外がない、請負という者になると例外があるというのは不権衡の結果を生ずると思うから、請負に付いて例外を設けるならば、之に均しい例外を設けて、つまり同一の地位に置いたら宜いと思うから、つまり七百二十三条に籠ると見て本条は削って宜いと思います。
議長(箕作麟祥君)
それでは七百二十四条は土方君から削除説が出ましたから、決を採ります。土方君に賛成の方は起立を請います。
起立者 小数
議長(箕作麟祥君)
小数でございます。他に御発議がなければ原案に決して今晩は散会します。
土方寧君
ちょっと文字に付いてまだ色々質問があります。
議長(箕作麟祥君)
それでは原案に決したと言いましたが、残して置きましょう。