明治民法(明治29・31年)

法典調査会 民法議事速記録 第122回

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第百二十二回法典調査会議事速記録
出席員
箕作麟祥 君
土方 寧 君
村田 保 君
岸本辰雄 君
田部 芳 君
高木豊三 君
穂積八束 君
奥田義人 君
井上正一 君
穂積陳重 君
富井政章 君
梅謙次郎 君
横田国臣 君
元田 肇 君
長谷川喬 君
南部甕男 君
磯部四郎 君
尾崎三良 君
三浦 安 君
西源四郎 君
議長(箕作麟祥君)
それでは会議を開きます。前会に七百二十七条が起草委員の説明があったままで散会になりましたから、今日は引続き御発言になりまして宜しうございます。
穂積陳重君
その議事に御掛りになる前に、この前文章を作って来る様にという御注文がありましたから、それをちょっと提出致したうございます。七百二十五条の土地の工作物の瑕疵から生じます損害に付いては、占有者がまず第一に損害賠償の責に任ずる、しかし占有者がその損害の発生を防止するに充分の注意をしたときは所有者がその責に任ずる、という主義だけが規定になりました。その文章は次会に拵へて来いということであります。試に斯の如く附加えようと思います。第一項の移りに但書を加えまして、「但占有者ガ損害ノ発生ヲ防止スルニ必要ナル注意ヲ為シタルトキハソノ損害ハ所有者之ヲ賠償スルコトヲ要ス」と到しまして、第三項の「占有者ハ」という字の下に「又ハ所有者」ということに改めたい。
穂積八束君
是れは過失なきときは違うのでありますか。
穂積陳重君
それは違います積りであります。占有者に過失のないときは、今までの所では占有者は、貸家の例で重もに議論が出たことでありますが、例えば賃借人の如き余程大破に及んで屋根の瓦が落ちそうなとか壁が壊れるとか塀が毀れたとかいうときは遅滞なく地主家主に通知しますれば、それで占有者は過失がない。本案の如くなりますれば、先ず落ちそうであればつっかい棒をして置いて通知をするということになるのでありますから、元の一番損害の発生のことで直接の関係のある者が第一に責任を持つという趣意は本案で引繰返したのではない。ただ過失なきときはと言いますれば、例えばその工作物の設置に付いて不完全なことがあって、その保存修繕等に付いて、例えばそれを借りて居ります者が借りて居りますだけ是まで法律で命ぜられて居ることだけすれば、まず過失ないということになる。そうすれば、とにかく斯の如き工作物を持って居った者が直接に危ういものは保持する注意をしなければならぬということでありますから、この方が占有者の義務が余程重い。この前磯部君の御発議もやはりこの意味てあったように解して居ります。
議長(箕作麟祥君)
それでは、ただ今の修正は別に御発議がなければ修正の通りに決しまして、七百二十七条に移ります。
横田国臣君
この七百二十七条に付いて御尋ねを致したい。是れは余程憲法の書き方に似て居る。余程私は之に疑の点がある。「数人カ共同ノ不法行為ニ因リテ」というこの「共同」ということはどれだけの意義を之に持たせるか。それでこの第二項に「共同行為者中ノ孰レカソノ損害ヲ加エタルカヲ知ルコト能ハサルトキ亦同シ」とある。この共同行為者とある以上は共同にしたのだから、無論前に籠りそうなものでありますが、前のとは違って、思わないことをしたので、例えば人を殴りに往った、そうしてそれを殺したというような場合でも這入るのでありますか。それから之に付いてもなお御尋ねしたいのは、民法上のことと刑法上の事と少し違うと思う。それは教唆者及び幇助者という者がある。この中に共謀者という者がある。無論教唆者も幇助者も共謀者も同じで宜いが、例えば教唆者でも幇助者でもない、共謀するということがある。それは民法上では入るべきものであろうと思います。がしかし刑法上では入らぬことと思う。この事だけを御尋ねします。
穂積陳重君
共同の不法行為と申しますことは、数人が或る行為を為しまして、而してその行為の目的と致します所又その結果は一つの権利侵害でありまして、その侵害というものも之に依て生じました場合を見て居る積りであります。この第二項の共同行為者という場合ももとより、第一項の中に籠ります積りでありますが、第二項は御質問の中に籠って居った意味とは少し違う積りであります。即ち数人が共謀を致しまして、予め共謀するのもその時の勢いでも宜しうございますが、同一の事を為して人を殴ろうとかいうその処為に付いて、或人の杖とか或人の拳とかいうものが被害者の頭に当る。それが為めに被害者その他に損害を加えるということになる。現にそこを襲いました者は分かって居るが、誰が打ったということは分らぬ。そうすると或る者は既遂犯となり、或る者は未だその目的を達さぬということになる。刑法では斯ういうことはもちろん出来ないと思いますが、その損害を加えた者は誰やら分らぬでも、皆一緒に連帯責任を負わせるという意味の積りであります。第二項は・・・・・。
横田国臣君
それは人々の解釈上になりますか知りませぬが、それならば第一項の方に籠って仕舞う。刑法にも籠る。自分で往って一緒に人を殺す、或は棒を持って打った奴もあるし、足を切った奴もある。手を切った奴もある。刑法で明文があって、それを分つというならば格別でありますが、自分が共謀して共謀のことを遂げたのであるから同じである。皆未遂犯にならなければならぬ。無論民事でもそうなければならぬ。私はそれならば余程解釈を違えて居ったのであります。ただ前口から共謀ということが殺すというのである。打に往った所が誰か知らぬ殺したというときは、誰れが殺したか分らぬからそれは問題になると思いますが、皆が共謀して同一の力が籠ったものと見ますが、しかしながらそうは見なければそれまででありますが、今第三に御尋ねしたいのは、自分が一緒にしたように是れは見える。しかし往かぬ奴がある。みんな今夜往って殺して金を取ってくるから待って居れと言って留守をして居る奴がある。それは連帯をさせぬというのでありますか。
穂積陳重君
この第二項のことは色々になりましょうと思います。私の御答えが、或はよく通じなかったかも知れませぬが、この共同行為という中に一人が番をして居って、それから一人が手を下す、そういう風なのは御説の通り、私は初めから共謀してやったので、第一項に加わって仕舞う積りであります。ただ第二項は、そういう関係もない皆が起って、例えば或る事に激して皆が打てやるというような風の時に当りましょうと思います。共同行為に依て他人に損害を加えるということは、直接に例えば、頭を打ったとか直接にその家を壊わしたとか、皆が一同に手を下したとかいうことに当るのではない。それ故に、共謀の場合は第一項に当ると申したのであります。誰が打ったか分らぬ、そこを五人も六人も襲ったというのが第二項に当る積りであります。それから第三の御質問に移ります。自分はその事に関係しない、しかしながら後で自分がその物を取って来いとか、それからその利益だけを受ける。そういうようなことは、事実で本当にその行為を為した一部分になるときとならないときとがあろうと思います。後からその品物を隠してやりました、後からその人を匿もうてやりましたというような風なのは、是れでは第三項の幇助という。その事柄を為し遂げるのを幇助したということには這入らぬのであるますから、通常這入らぬ。それは本案には入れてない。それを入れてある国もあります。後からその不法行為をかばわんとした者はやはり共同行為者と看做すとか、例えばザクセンなどにその条文があります。しかしそれまでをこの処を入れる積りでは、実はなかったのであります。
横田国臣君
是は、私は決してそれに付いて異議はありませぬ。幇助者という中に今の、後から隠れてやった、この而後の幇助者として論ずる国もあれば論じない国もあるから、それは弁じませぬ。がただ、しかしながら共同というのを二項の共同と一項の共同とは違う。一項の共同は合意があって、二項の共同は合意がないという御説であるが、どうも文字上では判然し兼ねようと思います。それで若し合意がないということになったならば、私は二項は余程の無理であろうと思います。ただ同時にやったということに解するのである共同という意味からして、分り兼ねるようになります。
穂積陳重君
共同は、一項は合意がある、二項は合意がないということで使うたのではない。一番初めに説明しました如く、共同の不法行為と言えば、とにかく大勢が或る事を為した、しかしその結果というものは、即ち七百十九条に当る。皆が故意か又は過失がある。或る場合に於ては共謀もありましょう。又或る場合に於ては過失もありましょう。即ち大勢が同時に起った、しかしその権利侵害の行為というものは皆一緒に集まって出来た。一人々々の行為はある、一人々々の意思はある、権利侵害は一つ事柄になる。それで共同不法行為という、その行為の結果が他人の権利侵害ということに至った。そこで第一項の場合は、おまえは留守をして居れ、私が往って打つというような場合も、もちろん這入る。第一項は共謀の場合は、という意味ではなかったのであります。
磯部四郎君
ちょっと同じ質問になりましょうと思いますが、私も共同行為者という者は第一項と同じことになりはしないかと思います。是れは、私は斯ういう意味に解して居った。数人の行為者中いづれがその損害を加えたることを知ること能わざるとき又同じ、というように読んで居りました。自分が予め謀った、通謀したということもなく、何か事が起って一時にバットとして人を打った。その時にどちらが打ったか分らぬというときには、二項を以て論ずるということに読んで居った。そうすればどうしても、この共同という文字が可笑しくはないか。共同行為者ということになると、とにかく予め合同して居ったようにしか読めぬのでありますから、相成る可くは、何処は数人同時に合意したる者とか何んとかいう意味になれば大いに分り易くなると思う。とにかく共同行為者というと、予め意思の通謀があった人だけにしか見えぬようであります。それで私の伺うのは、私のような意味で数人が同時に同一の意思で為した、それは誰れが為したか分らぬというのは、この条に這入らぬのであるか。若しそれならば、何とか修正説を提出したい考えであります。
穂積陳重君
同じ意味の積りであります。共同行為者と云えば、共同の意思も同じであるということに読めぬこともありますまい。数人同時にそうして同一に不法行為を同じ者に向って為す、ということを言い現わすことは難しいと思います。
議長(箕作麟祥君)
共同行為という文字が重いか分らぬ。
穂積陳重君
第二項の場合は重いか分らぬ。しかし磯部君の如く数人同一の行為でもいかぬ。
梅謙次郎君
何か是れよりももっと明瞭な文字が見出されますれば、私共早速賛成しますが、如何にもただ今横田さん或は磯部さんの御疑いになるような嫌いは無論あると思います。避けられるなら避けたいと思いますが、しかしながら斯ういう風に読めぬこともない。共同と言えば共に同じくでありますから、同時に同じ行為を為した。その同じという幅は、ただ一つ手を打つときが同じか、是れも打ちあれも打つというのが同じか、そこは見様でありますが、あれを殴ってやろうという約束をしなくても、そこへ往って甲も打ち乙も打ちついに死んだ。どれが打ったので死んだのか分らぬ。この場合に共同行為者、共に同じく為したる行為ということになろう。所が前の方は、数人の行為が侵害の原因であったということが説明せられた場合に、それはどういう場合かと言いますれば、人間を打ったときでもそんな風に見られないこともありませぬが、物を壊わしたような場合に最も起ると思う。みんなが打ったから物を壊わした。この場合は何々の物を壊わしたという行為は、とにかく五人ならば五人の者にあるということは明かであります。この場合は明かに七百二十七条の第二項の前段に当ると思う。後段はそうでない。打っても一向きずの付かなかった人もある。ただ壊わした人もある。或は人間であれば最も明瞭でありますが、ただ打って痛かったというならば、損害賠償の原因になりますまいが、その中打って生命に関わるような怪我をさせぬというときは、損害の責に任ずるということになる。しかしなお共同という文字が、今の意味を一層明かにする文字があれば結構であります。
土方寧君
二項の場合に於ては、本来教唆者も幇助者も共同行為者とは言えぬのでありますか。
穂積陳重君
そういう積りであります。どうしても性質上は言えない。教唆者又は幇助者は直接に関わった者とは言えないから、刑法でも之を従犯として居ると思います。しかしながら不法行為者でないとは初めから言えない。第二項は、共同行為者として責任を負わせる。全体の責任を負わせるということで之を置いたのである。
横田国臣君
是れは少し刑法に関係があろうと思いますから、一つ御参考の為めに申上げたい。この殴打の如きというものは、土台その目的が殴打ということであるから、その結果に至って死に致す意志がないのであるから、その場合は随分疑があります。この通常の共同行為者、例えば私が人を罵った、脇の人も罵った、という場合に連帯ということになるかどうか。犯罪でも若し合意がなく、ただ別々にやった。合意がない以上は別々にやるより外ない。殴打罪の如きは、最も之に適切と思う。その他の場合を一緒にやる、例えば私の所に一人の盗人が来て金を取って往く、それから又後で取って往く。それを連帯して負うというのは余程ひどいであろうと思う。前の場合は無論共謀さえあって、真の共犯というものなら私は異論はない。その代り、たとい一人で取ろうとも一人で殺そうとも一緒に殺しに往って加勢をした、必ず殺すということを自分でしなくても是れは合意である。それで二項の方は、場合に依ては是れは適当の者か知らぬが、殴打罪の如きは宜いが他の犯罪に付いてはどういう風に解釈するか余程苦しむ。外の犯罪で合意がなくてやるという場合は・・・・・・、合意があれば無論第二項に籠って仕舞う。
穂積陳重君
財産に対してもある。随分田舎などで金持の家を壊わすというような、あんなことに往々大勢でやるということが殴打以外にもありはしますまいか。
横田国臣君
それはなるほど一緒に往って壊わすというようなことがありましょうが、その時分は合意のあった者、即ち共犯と見て宜かろう。それだから合意もなく共犯にならない場合に、皆この処を見なければなるまい。殴打の如きは故意でその結果は何が出るか分らぬが、初めは殴打しかない。それだから今の刑法には殴打罪は殊更に妙な箇条が挙って居りますが、それは私は好きではない。
磯部四郎君
ちょっと斯ういう風になったらどうか。「同時ニ合意者数人アリテソノ中孰レカ損害ヲ加エタルカヲ知ルコト能ハサルトキモ亦同シ」となったらどうか。
梅謙次郎君
それなら斯うなってはどうか。同時に不法行為を為したる者の中孰れがその損害を加えたるかを知ること能はざるとき、となってはどうか。
磯部四郎君
それでも宜い。
高木豊三君
七百二十七条の第一項には、横田君の御説明を聞くと共謀したようなものを極めたようなことでありますが、そうでありますか。
穂積陳重君
それには限らない。共謀をすれば無論初めの方に這入ります。
高木豊三君
そうでなければ困る。
穂積陳重君
第二項の場合は、同時に起った場合が這入る。それから、初めにみんなが一度に或る事に激して打ったとか壊わしたとかいうときは、一項の方に這入る
高木豊三君
なるほど刑法の理屈などに是が差響くものとして御解釈になると、色々通謀とか共謀とかいうことが必要でありましょうが、しかしこの民法の方の損害賠償の点に付いては、そういう必要はないと思う。つまり一つの不法行為というものをやって、それに依て損害を生じたもの、即ち横田君の言われた、刑法の殴打罪には特別の刑を極めて結果に依て刑の軽重を定むることになって居る。つまり人が生きるとか死ぬとかいう、いわゆる刑法上の責任でなくして、ただ結果である。この原則で往くと損害賠償はやはり皆が負わなければならぬ。その通りでこの条は無論宜かろうと思います。刑法に関係を持つという説がありましたが、私はむしろこのまま少しも差支がないと思う。
富井政章君
私の考えも諸君の御考えと同じことであると思いますが、なお念の為めに確かめて置きます。第一項の末段の場合を、同時に為したものと極めて仕舞っても全く疑は消えて仕舞はしない。その訳は、例えば横田君の説明の如く、私は家に酒を買って待って居る。待って居ってもその議に預った以上はやはり第一項の上段に当嵌まる。そうすれば今度は甲乙二人が共謀して丙を打ちに往こうというときは、たといその中の甲だけが打ったにした所が、この第一項の末段が適用されるのでなくして、やはり上段が適用されるのであろうと思う。そうでなければ、先の酒を買って家に待って居る者と権衡が取れぬと思う。その場合はやはり有形の結果の方から見たのでない。単に行為というものを有形の結果から見たのである。一緒にやった、その中の誰がやったということを問わないというのも、やはり初めの中に這入って仕舞う。そうすれば第二項の方は、例えば酒の席に聘ばれた者が、一時に腹で己れも殴ってやろう己れも殴ってやろう、誰が殴ったか分らぬという場合に適用される。同時にというと、もやはり通謀して甲乙の二人が入って、そうして実際甲だけが打ったというように適用が読める。ただ文章の上では、同時にというだけでは果して私の解して居るような意味が諸君の意味であれば、或は今一層明瞭な言葉に改めた方が善くはないか。それとも私の考えが間違って居るならば、御正しを願います。
長谷川喬君
私は全く原案を賛成します。私の解釈は間違って居ったか知らぬが、そう難しくないと思う。第一項の所は、是れは自分が同一の不法行為をした場合である。そうして損害も同じことをした場合である。それから第二項の後段の方は、打つことは打った、しかしながら打つということは既に不法行為である、それは共同じで打った、しかしきずを附けた者は誰れか分らぬ。そのきずに付いてはやはり連帯して負わなでればならぬということであるから、共同行為者ということにすれば差支ないと思う。同一というと後から打つ前から打つ、その打つという原因が違って居るように思うから、私は共同ということが必要と思う。
土方寧君
今、長谷川君の本条の解釈でありますが、その解釈にすると、共同行為者は第一項の上段に這入るか知れませぬが、そうすれば二項の「教唆者及ビ幇助者ハ之ヲ共同行為者ト看做ス」いう方は尚更這入らなければならぬと思います。一項の上段は数人共謀した者もありましょうが、各手を下して害を加えた。それが共同行為者一項の末段の方は、是は皆同じ場所、同じ時に、同じ行為をした、しかしその中で害を加えた者は誰れであるか不明である。即ちその時手を出した者は皆同じ責任がある。それも共同行為と見るというので、それは性質から言えば、教唆者幇助者と同じである。その人の所為は共同行為者でないが、共同行為者と同じ責任のある者と看做すというのであるから、第二項を教唆者幇助者共謀者と三つにしたらどうか。
長谷川喬君
本条の一項の解釈に付いて、富井君の言われるには、窃盗なら窃盗をして来いというので、酒を買って待って居るのは教唆ではない。ただ相談に預ったのである。それは第一項に籠るという御説でありましたが、私は一項に籠らぬ。共同の不法行為と云えば、自から為した行為でそれで末項に謂う教唆者幇助者にならなければ、連帯の責を負わぬことと思う。
富井政章君
大変な実質問題になって来た。若しこの第一項では、長谷川君の言われるように単純なる共謀者、即ち議には預った、即ち何誰某を斯うしろという議には預ったが、手を下すときには居なかったというときは、丸で無責任で宜しいと言っては大変困る。第一項がそういう風に読めるならば、疑を解く為めに、土方君の言うように第二項に共謀者の三字を入れたが宜いと思う。私は、実質上は手を下さずとも議に預ったならば責任がなくてはならぬと思う。若し是れでそう読めなければ、土方君の言うように教唆者若くは幇助者共謀者は之を共同行為者と看做すという事にしたが宜い。
長谷川喬君
そうすると、刑法との関係はどうなりますか。
富井政章君
刑法の共犯という意味は、私は有形の方から見た意味である。しかしこの処の共犯は、有形無形広く這入ると見て居る。しかしそう取れなければ直しても宜い。
高木豊三君
私は富井君と正反対で、刑法では教唆者という者はたとい犯罪の行為に加功せずと雖も正犯を以て論ずるということで、人を殺した者も教唆した者も同じに論ずることに原則はなって居るが、民法では行為に加わった者でなければ論じない。若しそれが原因となって私訴を起すというときは、無論共犯者も下手人も同一の連帯の義務を負うけれども、ただ民法上の損害賠償を受くるときは誰某に教唆されてやりましたと云っても、その教唆された奴は民法上では構わぬ。
長谷川喬君
二項に教唆者ということがあるからして、この教唆という定義から下さなければならぬが、まず刑法に言う教唆というものなら宜いが、然るに横田さんの言われたのでは刑法の教唆者ではない。窃盗をして来よう、それなら酒を買って待って居ようという教唆者でない。酒を買って待って居ようというのも、それも一項中に含むというなら悪るい。教唆者ならば末項に含むという積りであります。ただ刑事上では相談しただけでは罪にならぬ。教唆者とか従犯とかいうことにならなければ罪とならぬというのに、民法ではその者にも責を負わすように聞えますから、それでは解釈が違う。
富井政章君
議に預って酒を買って待って居る者は、刑法であろうが民法であろうが教唆者とは見ないということは分かって居ります。けれども刑法ではその者を共犯と見做す。民法では連帯者として共に議に預ったのであるから、教唆者と同じ責任があるというのである。しかし教唆者と共同行為者と同じことにするのは、実は不権衡極わまったことと思う。
長谷川喬君
私は不権衡であるまいと思う。たとい窃盗をしよう、窃盗をしようと決議しましても行はない内は害はない。行った者は誰かと言えば今の例で言えば二人てあって、その行った者それからそれを行はしむるに至った者は共に責任を負わせて宜い。しかし窃盗をしてくるから酒を買って待って居るという者まで、連帯の責を負わせるのはどうかと思う。
富井政章君
それは行うという字の解釈次第で、長谷川君は行うというのは有形上手を下すというの意味で御論じになるが、私の考えでは、行うというのは刑法であろうが民法であろうが一つの意思を事実に現わすというのであって、それには有形の原案と無形の原案とある。手を下すという者もある。又残る者もある。それであるから純粋の議論から言えば、立派な共同行為者である。けれども刑法などもそういう風に見て居らぬ。一般の説がそうであるが疑わしいから、念の為めに斯う書いたのであるが、行為というのは単に有形の事実だけでない。
長谷川喬君
そうすれば、富井君は刑法と同じものだと言われるが、そうすると酒を買って家に待って居る者も窃盗の一人と言われるのでありますか。
富井政章君
それは刑法と反対になると言ったのであります。
梅謙次郎君
私はこの箇条はそんなに難しくない積りでありますが、大変やかましくなりました。刑法は私は不案内でありますから、刑法の解釈としては誤って居るか知りませぬが、刑法で罰して居ることも民法では論じないということは珍らしからぬことでありますから、この規定と刑法と同じになって居らぬでも差支えないと思います。実は私は、二項は要らぬという考えであったので、今富井君が言われた如く共同の行為を単純に見ることは出来ぬ。第一の人が手を下して、第二の人第三の人は手を下さずとも、つまり三人で一つの行為をしたものと見れば、二項はなくても宜いという積りでありますが、追々諸君の御議論を聞くと、特に刑法上で別のものになって居るし、疑いのあることであるから、むしろ明文を掲げて置くが宜いと思いますから、とにかく疑いのなくなるのは賛成でありますから同意したので、その位でありますから共謀者は無論連帯責任を負わさなくてはならぬという考えである。教唆者と共謀者という者は、なるほど場合に依ては教唆者の方が罪が重いかも知れぬが、多くの場合は共謀者の方が罪が重い。前にちょっと窃盗強盗の例が出ましたが、例えば私と他の或者と両人で長谷川君の所に往って泥坊をしようと言った。しかし両人往ってはごとごとするから君往け、僕は跡に待って酒を買って居る。そうしてあなたの所から取って来た物は山分けにする。それは共謀である。若し一項の方にそれが這入らぬというならば、富井君の言われる通り土方君の説の如く、共謀者の三字を入れても宜いが、実質上それが改まることを望みませぬ。
長谷川喬君
梅君の御解釈に依ると、教唆者という者も共謀者というものも共に事を為した者であると言われたが、私もそれは同意である。しかしながらこの処に末項を掲げてあると、第一項に言う所の者は実行したる者と解釈したから、今の説は通らぬ。若し今の説のようであると、どうかしないと私の解釈が相当と思う。若し一項が実行であると末項は入らぬということになろうと思う。それから、第二は私が先に言うた通りの次第であるから、共謀者にも責を負わせるというのは重過ながらやはり原案のままで宜しいと思う。
富井政章君
文章は後でどうにでもなる。実質を先きに極めなければいかぬ。共謀の議に預ったら、手を下した者も下さぬ者も罰するが善いかどうかということを極めたが宜い。
土方寧君
手を下さぬて共謀の議に預った者は、やはり共謀者として罰するが善いと思う。それで共謀者というのを二項に附加える説を出して見ます。
穂積陳重君
私は、共謀者ということが這入るに付いては実質上反対ではありませぬが、その共謀者にして、いやしくもその行為に着手しましたとか或は番をして居るとかその他犯罪を為すに便利ならしむる行為をすれば、共謀に違いない。それから共謀者は大概の場合は幇助者になりは致しますまいが、一緒にそういうことをするならば----議に預るというならば、共謀者に這入る。その目的を掲示し或はその目的を便ならしむる為めに探索をする、或はそれが為めに器具を供するとか種々様々のもので大概の場合は幇助者に這入り得ると思います。がしかし共謀者という字を入れた所が格別異論はないが、その場合は第二項の幇助者という中に籠って居る。
富井政章君
為念の為めに確かめ置きたい。この甲乙の間は斯ういうことが極まって居るという事を、横合から聞いて知って居る。そうして酒を買って待って居るというのは共謀者というのではない。若しそう言えるなら、おかみさんも子供も共謀者である。
長谷川喬君
今穂積君の言われたことは、或は教唆者になるか幇助者になるかであると思う。然るに教唆者にもならぬ幇助者にもならぬ、即ち酒を買って待って居る、それをば連帯の責を負わせるというのは私は酷に過ぎると思う。それが宜いというならば私は不権衡と思う。なるほど先刻横田君に対する答弁に依ると、幇助者という中には事後の従犯は這入らぬ。或国にはそれも含んて居るというが、そうすると犯罪を容易ならしむることをしたのは構わぬ。しかし酒を買って待って居った、ただ相談したというその者をば連帯の責を負わせるというのは、どうも権衡上から言っても善くないから、それを含ませるならば、而後の従犯も含ませなければなかぬ。
富井政章君
甲乙丙の三人が共に丁なる者を殺そうではないかということを企て議を決したという場合は、どれも教唆者でもなし幇助者でもない。その中の甲乙二人が手を下しに往った。丙はやはり共謀者である。何ぜならば教唆者というのは器具を供したとか有形上無形上その事を為すに預ったのでない。ただその事の成就をたやすくしたというのである。
梅謙次郎君
私は一つ伺いたいことがある。先刻から例に出て居りますから御答えを願いたいのは、私が或者と相談して長谷川君の所に往って泥坊をしよう、しかし両人往くに及ばぬから一人で往って、持って来た者は山分けにしようと言って、私は家に酒を買って待って居る。そうして持って来た物を山分けにしたという。斯ういう事実のあった場合には、長谷川君は七百二十七条を適用せぬが宜いという御考えであるか。私の考えでは初めから泥坊をしようという相談をして、一人が手を下した、がしかしその結果は二人で分ったならば、私はこれを一の行為と見る方が穏当であると思う。富井君の言われた如く、それは全く幇助者でもなく教唆者でもない共同行為者と見る。その場合に事後従犯の者と同じにしては可笑しい。罪の程度からは同じかも知らぬが、事柄は違うので事後行為者はその行為を為すときにはその意思が加わって居らぬ。先刻の例で言えば一人の意思でばかりやったのではない。私の意思もやはり籠って居る。後から助けるのはそうでない。行為をするときは全く単純てあった。後から或る不法なることをするに人が加わった。その不法なることを後からすることに付いては十分責任があって宜いが、前にあったことをそれが済んだ後に責任があるということはない。それ故に二つの問に区別があると思う。ただ不法に人の物を取ったという場合に、取りに往った者は一人てあったが、後から山分けした。初めから強て預ったものではないが、後でその人の取って来た物の所有権を半分づつ分けるということは、共同行為者と見做して、やはり七百二十七条が這入ると思う。取って来ることは共同てなかったが、その取って来た物を二人て分けることは共同行為と見ることが出来ると思う。
土方寧君
つまり長谷川君の御考えでは、七百二十七条の第一項の中には共謀者が這入って居らぬ、又這入って居ないが適当だというのが論拠である。又起草者の御考えでは共謀者は無論一項に這入る。無論罰すべき者だということで私も罰すべき者であるということは同意する。多くは幇助者か教唆者になりましょうが、共謀者として責任を負わせるには、二項に共謀者ということが加わらなければいかぬ。もっとも行為ということの学理上の見解からして、二項の教唆者共謀者ということは要らぬということならば、二項を削ったが宜い。あって見ると、共謀者ということを加えなければどうも可笑しい。二項があって教唆者幇助者は本来共同行為者でないけれども、法律でそう見るということになると、共謀者の場合に疑いが生ずるから共謀者も加える方が宜い。むしろ之を除いて仕舞うが宜いという説が出るか知らぬが、それは余り学理の高尚に失した者であって、打合せて家に引込んで居る、酒を買って待って居るという意思を発表したら、それは共同行為であるということが言えぬことはありますまいが、少し学理に偏して居って、通常言う共同行為でないと思う。本来共同行為というものは、普通の意味に取って置いて、そうして二項の方に共謀者という者を置くが宜いと思います。
長谷川喬君
私に対して梅君から御問いがありましたから御答え致します。横田君の出された例で、二人で窃盗をしようという相談をした、しかし二人の人は入用でないから私は往かないという場合に、その者が第二項に含むや否や、私は含まぬと思います。何ぜならば、それはただ相談をしただけであります。もっともそれは事実問題でありますが、いやしくも教唆の事実が一つもないと見たならば、それに共同の責を負わすべきものでない。しかし取って来た財産で贓物の山分けをした。それは刑法で謂う事後の従犯たる責はあるでありましょう。そこで先に言う通り、この幇助者という中には事後の従犯も入れなければならぬと思う。梅君は事後の従犯は一向前の行為に関係がないと言われるが、例えば或人が是れから往って泥坊をして来るから買って貰いたいというので、盗んで来て或者に売る。それは全く教唆者でもなければ幇助者でもない。そうして事実から論すると買おうというものがあったなら、罪を犯すには甚だ便利になった。若しそれをも共に本条の責を負わすというならば宜いが、ただ相談したということがあるだけで以て、それに責を負わせるということがあると、相談は意言だけのことを罰するということになって不都合と思う。共謀という文字があるから云々ということを土方君が言われましたが、なるほど刑法上でも共謀だけで罪を為すことがあるのはもちろんの事である。
横田国臣君
私は全くそれに付いては富井君を賛成するのである。合せて梅君を賛成するのであります。それで幇助者の中に共謀者が大概籠るということは決してない。共謀者と幇助者とは丸で違う。共謀者の中に幇助をする者がないとは言いませぬが、それで事後の幇助者という者を刑法で拵えようとも拵えまいともそれは同じことであります。如何となれば、ただ幇助者と言わんのみで、即ち贓物を分ったときは罰する。強窃盗の贓物たることを知って受けたる者は云々の箇条で罰する。斯ういう者は共同行為と看做すというが、私は至当と思う。又左もない通常の共謀のみは私はいけまいと思う。それは民法上でもいけまいと思う。民法上の論からして、あの人の物を取れ、宜かろうということで直ちに向うに損害が生ずるものとは私は思わぬ。それで私は実は、第二項はみんなが損害を加えて知れぬからして、みんなの全部に付いてやるということは私は宜いけれども、是が連帯になるということは実にひどいと思う。一体連帯ということは通謀があるから連帯になる。それは宜いけれども、通謀がなくして連帯になるということは私は少しく嫌いなのであります。誰がやったか分らぬから、それを各自に分担して百円の物なら十円分担するというのが至当の事である。で共謀者なくて連帯ということがくるということは、この二項は一体嫌いなのであります。それでどうも私は却て既成法典の方が宜いと思う。
梅謙次郎君
ただ今横田さんの御論がありましたが、別に案となって賛成があったのでもありませぬが、立ちましたついでにただ一言申して置きます。この一項の末段の場合であります。この場合に一部分づつ負担することというのは、それこそ理屈がないと思う。全部義務というならば理屈が立ちますが、連帯は既成法典には代理があるということでありますが、ボアソナード氏は通謗諜がなければ代理がないということで、それをいう為めにわざわざ一つは連帯、一つは代理として分けてある。連帯も本案では殆ど既成法典と違わぬ位効力が狭くなって居る。代理という観念は本案は取らぬ。そうすれば平均上、連帯にした方が宜い。些細の違いしかないのに、この場合に一方は全部と見る、一方は連帯と見るのは小刀細工であるから、両方とも連帯としたので、理屈から言えば本人の分らぬのに責任を負わせるのは間違って居るか知らぬが、斯うして置かぬと被害者は誠に迷惑である。それで便宜上被害者の為めに斯うしてある。それから又共謀者を入れることに付いては、今長谷川君が言われましたが、おまえが之を盗んて来れば買ってやろう、盗んて来るから買って呉れと言った、その場合に私が待て居る。一人が手を下した場合とは大変違う。初めの場合は、元々自分が泥坊をする意思がなければ又相手の者も一緒にその人と事を共にする意思はない。自分一人で泥坊をする意思がある。ただ後て買って呉れる。都合が宜いから予め話をしたので共謀ということではない。盗むという行為と贓品を買うという行為であって自ら区別がある。然るに他に罰条がないから、今の刑法で一緒にしたのは間違って居ると思う。しかし刑法で罰する罰せぬということは、純然たる理屈になるから止めますが、ただ意思だけで損害が生じなければ損害賠償の問題が起らぬ。その意思が発表してそこで損害賠償の問題が起る。無論私は共謀者という字が這入っても宜かろうと思う。就ては諸君の御考えで共謀者は純然たる共同行為者でないという御考えがありますなら、それも幾分か理屈がありますから、私はその説に賛成しても宜しうございます。
高木豊三君
私は第二項は削るが宜いと思う。富井君の言われる如きものは無論這入らぬという方が、民法としては至当と思う。いささかその理由を述べますが、先刻から皆さんの御論じになる所、又原案の主義に依りましても、始終刑法の主義と言って宜いか意味と言って宜いか、その主義を以て原案が出来た。なるほど第二項は、現にドイツの草案にもこの通り当るようであります。是れはどういうことであろうかという事を考えて見ますのに、教唆者幇助者を罰するということはいづれも刑法の性質のことであろうと思う。語を換えて言えば、行為を為さずしてただ単に或犯罪を勧めて助けたということは、是れは全く教唆者に至っては、少しも行為なくしてただ意思を促かした、決意を促したというだけである。幇助者がその器械を与え、その家に這入る方法を教えた。その意思は憎むべきであるという事は、刑法の処罰の目的としては咎む可きことであるが、しかしながら民法の損害賠償の訴を提起するにはそこまで這入る可きことであるか疑う。私は民法では現実に損害を生じた者に責を負わせるというのが民法の範囲の極端であろうと思う。若しそれでなければ、何故にこの不正の損害という中に自分が行為を為したということに限るのであるか。総ての民事の行為で他人に損害を生ずるような事を勧めた方法を与えたような奴があると、それは皆その者に賠償の責を負わさなければならぬ。それでたとい、不法行為と雖もこの教唆者とか幇助者とかいうのは、是れは刑法の通りその意思を罰するのであるが、他人の損害を償わせることは出来ぬと思う。それで之を削って仕舞う。そうすると諸君の中には刑事の方は刑事裁判所に訴え、私訴の方は民事裁判所に起訴するときはどうかという説がありましょうが、刑事の方で之を共犯人として極めて仕舞えば、是れは教唆者であろうが幇助者であろうが均しくその裁判の結果として均しく知った者と見て差支ない。けれども例えば十人寄って人の家を潰した。そうして訴えられた所が仲裁人が這入って訴えは止んだが、しかし償ないだけを出さなければならぬ。この場合に民事裁判所は十人して壊わした、しかし誰某が教唆した、誰某が塀を壊わした、鍬は誰が貸したという。そういうような者を民事裁判所へ引張り出して、そうしてそれに連帯の責任を負わせるというのは如何なものでありましょうか。民事の性質として私は出来ぬことと思う。現にドイツにも這入って居りましたが、民法の上には教唆者とか幇助者とかいう者はこの中に入れて、連帯の責任を負わせるということは少し見当違いであるまいかと思う。それから梅君の御説明の如く、なるほど私はその場合は少ないと思いますが、向うの物を持って来て損害を加えることがないとも言えぬ。それだから若しその者がその行為に加功せずしてその財物を分ち得たという場合は、是れは何もこの条に依らずとも行為を為したことに付いて連帯の責任に依て償いを求められる。物が残って居れば返還を求められる。又使って仕舞ったならば不当の利得を之を請求することが出来る。民法上ではその方から往くのが当り前の道ではあるまいか。而して之を取ってどういう不都合があるかと言えば、教唆者幇助者が人を殺して刑法で問はれるならば、無論その方で刑罰も受けるし賠償も得られる。とにかくそういうものを担ぎ出して置くのは、体裁上善くもなし理論としても面白くないから、むしろ削るが宜いと思います。
磯部四郎君
ちょっと御尋ねしたうございます。私は先程から大変高尚の議論を承はりましたが、いよいよ二項が分らなくなって来た故。教唆者とか共謀者とか幇助者とかいう者を罰するとかどうとかいうことは、是は立法主義になりますから善いか悪いは置いて、とにかく損害を生じた者は皆罰するということでそれは誠に結構でありましょうが、特にこの処に共同行為者ということがありますが、この字の裏を言うと、損害を加えた者は何人か分らぬというときである。損害を加えた人に掛って往くより外に仕方がないというときであって、そこへ持って来て共同行為者という文字があるが、そうすれば共同行為という文字はとにかく御改めにならぬと、訳の分らぬことになって仕舞う。それだけで教唆者幇助者という者を第一項の上段に送りになって之を終りの別項にするかどうかしないと、有形無形を問はず損害を生じたならば総て連帯者だと言って、真ん中の害の知れた奴だけに掛ると困る。立法主義は暫く置いて、とにかく分らなくなったということだけを申して置きます。
土方寧君
今の磯部君の御論は御もっともでありますが、私は差支ないと思います。二項の末段でありますが、共同行為者でも大勢あって、害を加えた者が知れぬときというのでありますが、害を加えた者は責任があって、害を加えない者は責任がないということになるから、それで宜いと思う。それで二項の方の教唆者とか幇助者とかいう者は、是は害の原因を為して居る者でなければ共謀者でも教唆者でもない。
富井政章君
まだ賛成者がありませぬが、是は余程大きな点でありますからちょっと一言して置きます。教唆者の講釈を諸君の前でするのは仏前の説法でありますが、やむを得ず一言申します。教唆ということは何んであるかと言えば、事を為すに決心せしめた者で、即ち無形の原因でありますが、是れが主動者である。刑法で言えば教唆がなかったならば犯罪が生じなかった。民事で言えば教唆がなかったらその損害が生じなかったというのであります。即ちその損害を生ぜしめた本尊であるが、然らばその本を罰さずして末の者を罰するということはどうであろうか。この点は刑法に於ても民法に於ても少しも違わぬと思う。
横田国臣君
ちょっと伺いたい。合せて高木君に伺いたい。この教唆者幇助者という者は、今富井君の言われるには民法でも宜いということでありますが、私はどうも刑法に限るような感覚がある。高木君は、之を削れば刑法で罰せられるというが、それは感服しない。この処にある以上には、どうしても民事裁判所に出た折には、貴様は教唆者であるが刑事の裁判所て罰せられたと云えば、この明文がなければいかぬと思う。又この共謀者という事を入れるのは少し考えものだ。ただ共謀者というと悉くの場合が籠る。それは嫌いの方である。どうもこの箇条は、自分勝手の説を附けて是れで宜しいというように、どうも聞える。民事の教唆者は刑事の教唆者になって余程曖昧である。しかしながら教唆者幇助者という文字は、刑法から出た文字であります。通常の場合に教唆者幇助者に償ないの責を負わせるということはないと思う。
富井政章君
横田さんに伺いますが、共謀者というと先刻贓物を受けたということに付いて議論があった。それが共謀者になるかならぬか、それに付いて私の意見を一言します。それだけでは共謀者でない。共謀者というならば、初めから事を企ててから決したから共謀者で、後から物を受けるのは少しも関係がない。いやしくも事を一緒に挙げた以上は、後から物を受くるという有無を問わない。犯罪という物が生じた後に、従犯という者がある筈がない。従犯と言えば犯罪の実行を容易ならしむるのであるから、その場合は民法でどうなるかと言えば、不法行為に依て得た物を或る人が持って居るというのでありますから、所有権取戻しとかそんなことが起って来るのであります。それは少しも幇助者にはならない。その代りにこの事実がなくても、いやしくも中途に企て決したら、それでやはり幇助者になる。
横田国臣君
私は若し今の富井君の言われた通りであるならば、私は、ただ共謀というだけでは害を加えて居らぬ。ただ共謀というだけで、いつか盗もうという同意をしただけで、それが非常な効力というものを向うに押付けて是非取らしたような行為があれば教唆者であるが、そうではない。それからして害を生じて居らないから、償ないて貰うということでないという考えであります。
議長(箕作麟祥君)
土方君に伺いますが、共謀者という字を第二項に入れるだけでありますな・・・・・・。之に賛成がありますか。
磯部四郎君
私は二項の教唆者幇助者という文字は、余程難しいから一つに縮めて仕舞って、「損害ノ原因ヲ致シタル者ハ現ニ手ヲ下サスト雖モ共同行為者ト看做ス」という是れだけのことになったら、後は事実問題にして宜いと思う。
土方寧君
私も磯部君の案の趣意には賛成で、この共謀者という語は刑法にある語で少し厳めしいから、なるべく避けたい。それで害の原因を為して居らぬ者ならば、共謀者とは言えぬ。事実に当嵌めて見れば幇助者の疑いがありますが、幇助者と言っても害の原因となることは一つである。現に手を下さずと雖も、というような語は何んとか書きようがありませぬか。その辺の文章がよく出来ればその方に直したい。
議長(箕作麟祥君)
そうすれば土方君は、共謀者という字を入れることはお止めになるのでありますか。
土方寧君
そうではありませぬ。
磯部四郎君
いっそのこと末段だけを次に廻わして戴くと、共謀者という文字が漠として宜いと思う。第二項を置いて之を真ん中に置くと、殆ど分らぬ文章になって仕舞う。何んでもこの共同という文字さえ抜ければ宜い。それで私は斯ういうことにしたいと思う。第二段の文章をこのままにして置いて、之を項を変えて二項の次を第二段の文章にするということの修正を出します。
議長(箕作麟祥君)
それでは土方君の修正説は、第二項に共謀者という文字を入れるという説であります。土方君に同意の諸君は起立を請います。
起立者 少数
議長(箕作麟祥君)
少数。それでは磯部君の御説も高木君の御説も賛成がありませぬから、決を採りませぬ。
土方寧君
それでは磯部君に賛成します。そうしてその意味を起草委員に文章を練って書いて貰うという条件で、賛成をする。
議長(箕作麟祥君)
そうすると磯部君の修正説は、第一項を二段にして第二項を第三項として「損害ノ原因ヲ致シタル者ハ現ニ手ヲ下サルト雖モ共同行為ト看做ス」という修正説であります。その説に賛成の方の起立を請います。
起立者 少数
議長(箕作麟祥君)
少数。
土方寧君
それでは二項は丸で削って仕舞いたい。
議長(箕作麟祥君)
それは高木君の説である。
土方寧君
高木君とは少し違う。高木君の説は無理だと思うから顧みない。それで私は、むしろそれが為めに共謀者の疑いが起ろう。若し共謀者が黙って居っても、一項の上段に這入るということならばそれが宜いと思う。それなら同じ論鉾で、是やはりない方が宜い。書くなら一緒に書く。二項を削除する理由は違いますけれども賛成します。
高木豊三君
理由が悪るくても賛成する。そんな賛成はいらぬ。
土方寧君
理由が違っても、削るということは一緒であります。
議長(箕作麟祥君)
決を採りますか。
高木豊三君
採らぬでも宜い。
議長(箕作麟祥君)
それでは採りませぬ。他に御発議がなければ原案に決しまして次に移ります。なお起草委員に願って置きますが、後段で少し穏かでありませぬからなお文章は御考えを願います。
穂積陳重君
なお考えましょう。
議長(箕作麟祥君)
それでは次に移ります。
〔書記朗讀〕
第七百二十八条 他人ノ不法行為ニ対シ自己又ハ第三者ノ権利ヲ防衛スル為メ巳ムコトヲ得スシテ加害行為ヲ為シタル者ハ損害賠償ノ責ニ任セス但被害者ヨリ不法行為ヲ為シタル者ニ対スル損害賠償ヲ妨ケス
前項ノ規定ハ他人ノ物ヨリ生シタル急迫ノ危難ヲ避クル為メソノ物ヲ毀損シタル場合ニ之ヲ準用ス
(参照)オーストリア民法一九、ポルトガル民法二三三九、二三五四、二三六七乃至二三七〇、スイス債務法五六、モンテネグロ財産法五七七、九四三、九四四、ドイツ民法第一草案一八六乃至一八九、問二草一九一乃至一九五、プロイセン一般ラント法総則七七、七八、一部七章一四一乃至一四五、ザクセン民法一七八乃至一八五、バイエルン民法草案二草五六
穂積陳重君
本条は、不法行為の原則を過失主義に採りました以上は、必要は必要の結果でありまして、ちょっと変例の規則のように見えて、是は変則を確かめる所の規則となる位のものであります。本案の実質に付いては格別説明を要することはないのであります。いわゆる正当防衛とか生命保護とか申称します場合には、損害賠償の責は生ぜぬ。如何となれば、是れは故意のあるべき筈はない。過失のあるべき訳はない。権利であるか過失であるか、そこ等の処は学者の問題に残して置いて宜いが、その損害を生ぜしめたのに故意があるべき道理はない、過失があるべき道理はないのでありますから、もちろん損害賠償の責を生すべき道理はない。しかしながら、ただ之を諸国で明文を以て挙げて居ります所以は、自分の身体とか或は第三者の権利を保護するということに付いて、それが為めに他人に損害を引起すことがある。他人に損害を引起すことがあっても之を不法行為としないということは幾らか疑いを生ずるものであるから、それ故に諸国に明文があるのでもとより正当防衛に付いては種々の要件がありますが、それは大概やむことを得ずという場合でなければいかぬということは籠って居ります積りであります。それで但書が最も多くの適用のあります場合であります。他人から不法にして且つ急迫なる攻撃を受けて、自分がやむを得ずして防禦致します場合に、誤って第三者にきずを附けるとか、誤って第三者の財産を害しますとか、脇に立って居る人に杖の先が当ったとか、或は屋台店を転覆したというようなことは幾らもあります。それは防衛者の行為に非ずして、その原因を為した所の攻撃者の行為にありますから、その場合には直接に加害行為を加えました者に責がないということを明かに示す為めに、この但書が這入ったのであります。第二項は物より生じました場合でありまして、やはり第一項とその理由が同じになって居ります積りであります。
磯部四郎君
質問をします。この「他人ノ物ヨリ生ジタル急迫ノ危難ヲ避クル為メ」云々とあります。そうすると他人の所有物が我が門前に倒れたという場合で、原因が天災でも何んでも構わぬ。所が刑法の七十五条に依りますと、抗拒スヘカラサル強制ニ遇ヒとあります。この抗拒スヘカラサル強制というのは、他人の不法行為を罰するというものではないと思うのであります。この法文で見ますとまず第一に、他人の不法行為というものが主眼になって居ります。それから二項の場合は、他人の物よりということになって居って、いわゆる他人の所有物ということが条件になって居ります。独りこの処で私が疑いを起しますのは、いわゆる洪水か何かで今人の持って居る物を除けなければ己れの命が助からぬとかいう場合は、相手に不法行為はない、ただ自禦の為めに、天然の危険を避ける為めに、人に損害を及ぼしたというのは、やはり不法行為の責に任ずるのでありますか。そこの区別を一つ伺いたい。そうすると刑法は罰せぬがこの処は罰する。民法上では天然の危難を避ける為めにやった事柄は、どうしても害を及ぼせば損害の責に任ずる御趣意であろうと思う。そうなると二項は分らなくなる。何ぜ分らぬかと言えば、他人の物より生じたる急迫の必要に依り生じた危難でありますから、他人が防止するに怠りがあって害を及ぼしたという場合は、この条文では立つまいと思う。どうしても、暴風があってそこを通り掛って屋根が落ちて来た、その危難を避ける為めにどんなものでも毀損することは差支えない、責はないということになると、一項の方は損害賠償が本になって居るから、不法行為のないときには、如何なる己れの身を自衛しても害を及ぼしたときは責に任ずるというような立法主義になりはせぬかという疑いがある。そこの御説明を願いたい。
穂積陳重君
御もっともであります。是れは、刑法の範囲と本条の範囲とは規定が違って居ります。それが宜かろうと思います。その所以は、刑法ではもとより不論罪の場合で以外の変に遇うとか不可抗力の場合に依るときには、罪がないということが言ってある。是れはもちろんそうなくてはならぬのであります。しかしながら、それを例えば洪水が出て来た、その洪水を避ける為めに他人の家に飛込んで戸障子を壊わしたというのは、それはもとより自衛の行為でありますが、是れが故意又は過失に依て他人の権利を侵害したというならば、もとより急迫の場合とは言えない。それで如何にも天災等の場合を第一項には言わずして、第二項は他人の物より生ずると言えば随分天災が加わって、例えば暴風が吹いて他人の持って居ります樹木の枝が折れるということがある、その為めに物を壊はすということをこの処だけ分けて置くのが可笑しいという御話でありますが、それも一理ありますが、この処はその物を毀損するだけの時であります。洪水が出る或は雷が落ちる。その場合に第三者の物を毀損するということになりましたならば、過失又は故意あると否とに依て賠償の責任問題が出てくる。是れは所有者に対することだけの極狭いことになって居ります。決して、この場合は天災等の場合を入れて外の場合を入れて居らぬということではないのであります。しかし実質問題と致しまして、この他人の不法行為もなし、又他人の行為より生じた急迫の危難でもなし、いわゆる天災の場合に於ても、人の生命財産身体というものは大切なものでありますから、それに必要なる防禦方法をしたのは責に任ぜぬという明文を置くが善いか悪るいかという実際問題は、なお御考えを願いたい。本条のままでは、この処には這入って居らぬ。而して七百十九条にも這入り難い場合が多かろうと思います。
磯部四郎君
ちょっと伺いますが、この七百二十八条第一項但書前までは、やむことを得ずしてという条件が這入って居りますから、殆ど過失とか不注意とか、いわゆる不法行為と見るべき点が一つもないように思いますが、そう致しますと、私の考えにしますと、是れは不法行為の疑でありますから、多少不法行為の廉があるけれども、是れ々々であるから責任がないということだけは、書かなければならぬと思います。決して不成法行為ではない。自衛の権利である。刑法と同じことである。自己又は第三者の権利を防衛する為めに出でたということになると、防衛の権利の実行であるから、決して不法行為の形が私は少しも見えぬと思う。或は先程も仰せになった通り、天然の危難を避ける為めにやったかというのは、この規定より外にない。故意もなければ過失もないということであれば、不法行為にならぬという位の御説もあった位で、是れは向うから不法行為を起して来るのをこの方から防衛するのでない。天然の危難を避ける為めにやむを得ずしてやったのは、民事の責任がないということであったならば、この処の但書前のことになって見れば不法行為と見ることはない。そうすれば、不法行為として見ることがなければ、それを不法行為の眼中に置く必要はないか知らぬという考えが出ましたが、どんなものでありましょうか。
穂積陳重君
御説の通りでございますが、私等はなくても斯ういうことになるであろうと思いますが、実際上は随分えらく他人を害することがあるのでありまして、その損害というものは権利侵害ということになるから、実際上疑いが起るであろうと思います。それから但書等の場合に於きましては、現に疑いが方々で幾らも起って居る。自分が或は他人から攻撃を受けて、それを防禦する為めに他人を害した、その近辺の店に飛込んでその店の品物を壊わした。或は彼のイギリスに起った有名の事件で他人から花火を打付けられたのを払うた、それが他人の店に這入って、それが為めに原告が明を失なった。それが訴えを起せるや否やという問題が起ってくる。又第三者の権利を防禦する為めにやったのは、是れは明文がないと故意ということになる。第三者の権利を防衛するということは、果して自分の権利の執行であるか、又巳にむを得ざることかということが出てくる。或はポルトガルなど、自己に危険なくして他人の危難を救はざる者は損害賠償の責に任ずるということがありますから、外の所で第三者の権利を防衛するということは出て来ない。そうすると是れは明文がなければ、故意とか過失とかいうことにされるであろう。そこ等の疑いを避けます為めに、どうも明文を置かぬというと、自分が自分の生命とその他の攻撃に極やむを得ずしてやったということだけが籠らぬということになりませぬかということで、この処に置いでありますのであります。
富井政章君
ちょっと御質問に対して私も自分の意見を述べたい。私はこの規定があって初めて賠償の責任がないということになるのであって、この規定がなければ立派な不法行為であろうと思う。是れは一つの大きな実際問題に依て分れることでありますが、御承知でありましょうが、立派な故意に依る不法行為であると思います。その人が自分に損害を加えた、例えば自分にきずを附けたという場合には、明文がなければ巡査に申立てる、或は裁判所に訴出ることが出来るが、自分で巡査になり自分を裁判官となって宜いということは、この急迫の場合にあっては宜いということは、この規定があって初めて出来ることであります。それでこの規定がなければ無論理屈上はその正反対にならなければならぬと思います。
磯部四郎君
私は是れがあっても害になるとは思いませぬが、是れがある為めに私の恐れるのは、今の富井君の論鉾を以て言えば、天然の危難を避ける為めにやむことを得ずしてやった、それはやむことを得ずしてやっても、いつも賠償の責があるということに帰着して仕舞う。つまりこの正当防衛の権利でも法文があって初めて、その賠償の責任を免がれるのである。そうすると、例の洪水を避ける為めに人の家に飛込んて障子の棧を折ったのも、やはり賠償の責に任じなければならぬということに帰着する。それから火災を避ける為めに人の垣根を潜って壊わしたというのも、やはり不法行為の損害賠償の責に任ずしてやったのは、過失もなく故意でもない。不法行為には不法行為の条件がなければならぬ。人として天然の危険を避けるということは、不法でも何んでもない。その不法でないことをやったのは不法行為にならぬということが、議論の本になろうと思う。何となれば第五章は不法行為という題目になって居りますが、今日人間に生れて自分の生を保つ為めにしたことは不法行為にはならぬと思います。けれども今富井さんの論にすれば、巡査に自らなることも出来ぬ。どんなに人に頭を打たしても社会に居る間は打たれて居らなければならぬ。斯ういう法律がないと総てのことが不法行為になって来るから、一々それ等の条文を書くことになって来はしないか・・・・。
穂積陳重君
是れは理論は人々取る所があるから宜しうございますが、私は自分の権利というものは、身体生命財産その他の権利というものは、法の与えたものでありますから、それを他人が攻撃するのを防禦するというのは、些つとも不法行為でない。向の方が不法行為であるとそう解さねばならぬ。何故に他人の不法行為の攻撃に服従しなければならぬか、自分の権利をそれだけ防禦するに付いて、必要の行為をするのが不法行為となるのか、それだけならば、私は是れは要らぬと思ったのであります。
土方寧君
私は、この自己の権利を侵害された場合にやむを得ずしてやったということは、穂積さんの言われる通り不法行為とは言えぬと思う。それから第三者の場合に如何にも問題が残るから、この条がある方は宜かろうと思いますが、それに付いて伺いたいのは、第三者の権利というものが広過ぎはせぬか。つまり攻撃に遭うたのを防禦する為めにやむを得ずして害を加える。その加害行為というものの害の程度であります。多少釣合がなければならぬと思う。それがどうもこの文章では見えませぬ。起草委員の御考えはどうか。
穂積陳重君
どうもその第三者の権利の中で、重いものとか軽いものとか分つことは甚だ難しいのでありますが、もちろん是は急迫の場合やむを得ざるとありますから、第三者の権利の中で小さいものが宜かろうという御考えのように見えましたが、小さくなければ必要なだけの加害行為でありますから小さいのであります。それでどうもその間に境を附けるということは難しかろうが、強いてやれば出来ぬことはありませぬが、自己の権利又は第三者の財産身体生命等が這入ることは出来ますが、それではどうも法の理屈が立たぬと思う。
横田国臣君
この他人の不法行為のことに付いては、私は富井君の説を賛成します。それで無論、磯部君の主張されるのはもっともであります。一体この自分で助くるということは、決して許さない。それは不法行為で向うが不法なことをする、それは宜かろう。しかしながらそれはいかぬ。それで、是れはその場合に定めた故に初めてこの権利が生ずる。向うが不法なことをして来たら、向うを殺して宜いという権利を生ずる。それは民法に限らず刑法でもそうです。若し刑法に不法行為の箇条がなかったならば、あのまま権利が正当として罰を免ずることは恐らく出来まいと思う。それで害を加えた者は償なうという箇条があるならば、どうしてもこの箇条がなければ免がれることは出来ないと思う。尚それに付いて申上げたいのは、若し当然である、書かぬでも宜いというのである。そうすれば今の抗拒すべからさる強制というのも、当然往くのであって、この処にないから償なわぬでも宜いということに、或は言われるか知らぬが、私はそうは思はぬ。起草者が殊更に書かれなかったのは、あの方は中々考えものであろう。それを免ずることは要せぬと私は思う。一緒に海の中で棒を争うという場合、あれも免ずるというならば、正当の防禦さえも這入ったら、無論それも書かなければならぬ。しかしながら、それは書かない。起草者はどういう御積りか知らぬが、その意志ならば書くが宜い。又書かねばそういう風にいかぬ。例えば急迫の場合に際しても自分の物を保護する為めに、人の物を直ちに毀わしたりするのは損害の点に於ては償なわざるを得ぬ。火事の時に火消が隣の家を壊わすことがある。あれなどはどうであるか。船の荷物を危急の時に捨てるという場合はよくある。
穂積陳重君
今の火事の場合はちょっと難しい問題のようでありますが、やはりあれは公権の作用であって、この処の正当防衛の方でないと思います。
富井政章君
第一項に付いては述べませぬ。削除が出て居るのでないから述べませぬが、第二項に付いて先刻磯部君の言われましたことに付いてちょっと一言申したい。第二項を議するときに、私も実は磯部君の言われたようなことを言うて見た。それが宜いと信ずるのでない。どうであろうかと思うたので、天災とか洪水とかやむを得ずして自己防衛の為めに他人に損害を加えたときはどうであろうか。第一項の如きことではいかぬものであろうかという、自分はその説を主張したのでないが、とにかくその場合を漏らすならば十分覚悟して貰わなければならぬから、特にその場合を議題として論じたのであります。然るにその場合はこの処に入らぬ方が宜いということに極まった。それで私もその方が宜いと思った。その訳は第一項は磯部君などは同じように言われましたが大変違う。一つは正当防衛で一はただの不論罪である。即ち一は他人が自分の権利を害しようという不法行為がある場合、一は天災という危難がある場合でその場合に如何に自分を防衛する為めはと言え人の権利を害しても宜いということは理屈に於てヒドイことはないかということで、十分に考えてその場合を漏したのであります。
梅謙次郎君
この箇条の意味に付きましては適用が大変違う。その適用の結果として、或は本条を書き変えなければならぬという問題が起ります。先刻穂積君から弁せられましたことは私の考えと少々違いますので弁せさることを得ぬことになりました。私の考えは富井君横田君と全く同説でありますから、それに付いて頻に攻撃が出ますから、ちょっと一言申したい。この問題は既に決せられて居る占有の所で初め我々の中で書いて見た案の中で、他人が自己の占有物を猥りに奪わんとしたときは、腕力を以てそれを取返すことが出来るということが書いてあった。それは我々は不同意で、たとい法律思想に於ては之を許しても、開けたる今日に於ては許すべからざるものという私共の考えで遂に止めました。その後法律行為の成立に関します規定に於ても、既成法典には合意の所に、やはり天然の危難を免かれる為めに為したる合意は或は全く無効又は取消し得べきという中に入れてある。で是れは随分そういう学説もあって、即ち高い二階とか三階とかいう所に住まって居る者が下から火事が出て早く飛出さなければ生命に関する、所が梯子がないから下りることが出来ない。この場合は下の梯子を持って居る者に掛けて呉れば千円やろうと云った。千円欲しさに梯子を掛けた。又水に溺れた者が助けて呉れば千円やろうと言った。この場合に約束の金を払わぬでも宜いということになっては不都合である。なるほどそういう時に、千円の金をやると約束しなくても助かったか知らぬが、人が刀を以て殺そうという場合に、千円やるというとは違いまして、他の第三者から原因したではない。即ち天然の不幸に遭遇して自己の生命を助けたいが為めに、生命よりは財産の方が要らぬからというので、財産を沢山出しても生命は助けようと思ったのである。箇様な場合は立派に法律行為は成立するものであるから、後日になって千円を払わなければならぬと言う考えで、その考えは前の占有の所で当時の理由書に書いてある。この二つの場合に於て、一方は他人の不法行為に対しては原則としては、この方は腕力を用いることは許さぬ。一方に於ては天然の危難に際して或る点から見たら、意思の自由が欠けて居っても意思がなかったということは通らない。この二つの問題が極まった以上は、今この問題に上ぼって居る七百二十八条の箇条の意味は、現に極まって居ると思いまして、そんな大問題に付いては議さなかったのであります。若し占有の場合に他人がこの方に対して不法行為を為した場合でも、腕力を以てそれを取返すことは出来ない。裁判所に訴えてそうして取戻すことが出来るということになって居る以上は、この場合にもやはり腕力を以て之に向うということは許さぬということになろうと思う。しかのみならず、七百十九条に「故意又ハ過失ニ因リテ他人ノ権利ヲ侵害シタル者ハ」とある。この場合はたとい生命を助ける為めであろうとも、財産を助ける為めであろうとも、とにかく故意に他人の権利を侵害したのである。それを七百二十八条で事情が如何にももっともな場合であるから、之を不法とはしないということにしたのでありますから、この規定あって初めて不法行為でないということになるのである。故に七百二十八条はなくても七百十九条の中に這入るものであるという論は、いささか了解に苦むのであります。七百十九条に「故意又ハ過失ニ因リテ」云々と書いてあって、不法行為の意味が極まって居るから、本条はその例外を示したのである。殊にいわんや他人の不法行為でも何んでもない、ただ天然の危難に遭遇して洪水とか火災とかいう時に自分の生命が惜しい為めに、自分の財産を他人の家に投込んで他人に損害を加えた、そんな場合に於ては無論七百十九条の範囲内に於て、是れは損害を賠償して宜いのである。御蔭で以て自分の財産が助かった、自分の生命が助かったのである。その為めに他人に加えた損害は賠償して善い筈である。自分の財産を助ける為めに、他人の財産を減らしても宜いということはない。是れは日本流の道徳から言っても言えることでない。しかし西洋の道徳はむしろ自分の利益を保護する方であるから、それでそういう場合には責任がないという論が随分主張せられて居るようであるが、私は西洋風の学問を学ぶようになってからも、この点に付いては西洋流に化けることは出来ぬ。自分の財産を保護する為めに他人の財産を減らしても宜い、自分の生命を保護する為めに他人の生命を無くしても宜いということは、若しそういうことをしたならば罪人で、即ち道徳上の罪人である。刑法上それを罰するが宜いかどうかということは第二の問題であります。如何となれば、今日の刑法は復讐主義のものでないと思うて居る。又復讐という文字が悪るいとしても、ただ正義に本づいて道徳上の悪るいことをした者は、それだけの報いを受けなければならぬというものではないと思う。是れはただ公益上から必要があって出来たものである。行為を為した者を罰すれば、その罰の種類に依てその者が将来同じことをすることが出来なくなる、又幾分か為さぬように導びくのである。又他の者に同じようなことをさせぬように導びくのである。ただ実際の結果を見て設けるものであるから、危難に遭遇する場合は滅多に生じもせず、又そういう場合に自己の生命を助けたということとそれからただ家を叩き壊わしたということとは事情に於て大変な懸隔があるから、そんな危難に遭遇した者を罰したからと言って、多くの殺人罪を防ぐことにもならなければ、他人が再び同じ境涯になったときに、この前部の人が死に掛ったときに罰せられたから、今度は自分が死に掛ったときは他人を殺さずして自分が死のうという人間は多分なかろうと思うから、そういう場合は全く罰しない。罰するということにしても、大に軽く罰するということになれば議論が立つと思う。刑法上は宜いが民法上は是れはただ損害の賠償である。他人の権利を害して、そうしてそれが為めに損害が生じたというものであれば、その償ないをしなければならぬ。ただ今のような場合に損害賠償をしなければ、見様に依ては不当利得をする。自分の財産を確保する為めに他人の財産を滅じても宜いということは、どうしても理屈がないと思います。
元田肇君
段々分らなくなりましたが、ただ今の梅君の御説と穂積君の御説と適用が違うようでありますが、----違わなければ宜しうございますが、一つ伺いたいのは、第二項の「他人ノ物ヨリ生シタル」という、この「物」というのは必ず自動的の物でないとすれば、他人の不法行為からということでなくして、伺えば天災であるとか何んとかで、他人の物より急迫の危難が出来たものではないか。若しそうでありますれば、天災から起った急迫の危難ということと物から起った急迫の危難とはどれ程の違いがあるか、適用上分かりませぬからちょっと伺いたい。それからもう一つ伺いたいのは、穂積さんの御説で見ると、天災等の事柄の為めにやむを得ず自分の生命を助けようという為めにやった行為は、七百十九条の範囲で過失になるかならぬかと、いうにやむを得ぬ場合ならば償ないをせぬでも宜いというような御論であって、梅さんの御説とは少し違うように思いますが、若し違うならばいずれかに極めなければ困ると思う。
穂積陳重君
第一の御質問は、他人の物よりというのは天災が加わりましても、或はその物自身から生じたのも物です。例えば、犬が気が違って自分を攻撃するという様な風の場合までも当る積りであります。それから第二の御問は、少し説が違うように思うという仰せでありましたが、大に違うのであります。根本が違うのでありますから・・・・・・。私が前に申しましたのは、起草委員を代表して申したので、是れは何共御断わりをしなかったのでありますが、いつも学説の根本や何かに付いて極必要なことに付いては相談しますが、そうでなければ相談しないのであります。之をやり出すと我々の間で議論ばかり盛んになって仕舞う。その学説というものが非常に結果を違える場合は、三日も四日も議論をやる。この場合はそれであって根本はさだめてなかった。それで前のは私一己の考えと御見做しなすって宜しい。殊にこの問題は五大法律学校の討論会の筆記などにも載せてあります。起草委員の説は他の御両人の説であって、之に依て初めて不法行為にならぬのである。故にこの外のものは如何なる場合でも不法行為になる。それでもやはり過失行為がなければいかぬ。故意という字に付いては何か又議論が生ずるであろうと思いますが、しかしながらとにかく、その他の場合は不法行為になるという、斯ういう解釈と原案を御取り下さい。是れは私一己の考えである。
議長(箕作麟祥君)
今、他人の物から生じた損害という中に、犬が気違いになった。それを防ぐ為めに第三者の物を壊わしたというのは、どれに当ります。
穂積陳重君
それは起草委員として申しますれば、不法行為になる。
議長(箕作麟祥君)
そうすると犬を防ぐ為めに外の人の屋台を打壊わした。それは損害賠償の責があるのですか。
穂積陳重君
あります。
議長(箕作麟祥君)
宜しうございます。
元田肇君
天災から起ったというのでも、物が倒れ掛ったのでも、何んでも物より生じたる急迫の危難という中に這入ると被仰るのでありますか。そうすると物という者が一つ中に這入りますと、急迫の場合があっても入れぬというのは余程区別がありますか。その点を伺いたい。
穂積陳重君
それは先刻梅君から言われた通り、己を助ける為めに他人に損害を加えたならば、それは即ち不法行為になる。
梅謙次郎君
先刻この事は、穂積君から精しく御説明になったことであります。この物より生じたる急迫の危難を避ける為めに、その物を毀損すると他の物を毀損するのとは違うので、したがって全く天災で以て急迫の危難が来たときにそれを避けんが為めに無関係の物を毀損する場合とこの場合とは違う。その理由は先刻穂積君の言われた通りに、この場合には物が損害の原因である。丁度第一項で他人の不法行為というものは、自分に急迫の危難を加えるその原因である。その原因の物を取除くだけは許す、外の物を毀損することは許さぬ。それで第一項の場合は、ただ他人の不法行為であるから第二項の場合よりも押広めて、その場合よりももう一歩進んで他人の不法行為が原因になったときに限って、第三者の物を壊わしたときでも、やはり不法行為と見ないというだけが違う。是れも先刻穂積君から説明された如く、物より生じたる急迫の危難という事実がないのでありますから、偶然の事実である。第一項の場合は他人の行為があるので、その場合は第二項の場合より一層保護を強くしてあるというだけであります。
長谷川喬君
この第一項の但書でありますが、御趣意はよく分りましたが、文章上弊はありはしませぬか。例えば穂積君が花火を私に投げ付けた、それを私が又富井君に投げ付けた、富井君は害を被ったから私が賠償しなければならぬ。富井君は不法行為として私に掛ることが出来るということでありますが、そうすると被害者という字が広くなりませぬか。例えば私が穂積さんを打って殺さんとした。それを横田さんが止めてそうして私を打った。その時には私も被害者であるし、穂積さんも被害者である。それから先刻の御説明に依ると、自分の権利を防衛する為めに他人を害することは不法行為でないが、第三者を防衛する為めに他人を害するのは不法行為であるから、今の例で言うと横田君は不法行為を為した私に対して不法行為をした者と言わなければならぬ。本文の方にはその責に任せずとあるが、但書に依て私は横田さんに掛れるということになるから文章上不都合ではないか。
穂積陳重君
その事は我々の中でも気が付きました。斯ういう細かい点に付いては、長谷川君などから質問が出るだろうという話もして居りました。なるほど是は被害者という字が広過ぎるようであります。しかしその不法行為を為した者に対するのでありますから、不法行為を為した者が被害者であるならば自分が自分に対するという道理は出て来ないから、是れは宜かろう。それからその他に害を受けた者は誰でも、被害者は不法行為に対して往っても宜いから、まず事の道理から言いまして、不法行為者自身が這入りさえしなければ宜いという考えで、このままに置きました。実は第三者が損害を受けたるときは、その者より不法行為者に対して云々というように書きましたが、少し長くなって無駄のように思いますから止めました。
磯部四郎君
私は梅君の御演説に付きまして余程感佩したようでありますが、なお御尋ねします。それはつまり、本案という者はちょっと権衡を得ぬと思うて見ました。不法行為者に対して、そうして自衛の権利を行うとか又第三者の権利を防衛するとかいうことは、是れは損害賠償の責に任ぜぬということは当り前であるけれども、不法行為者以外の者に害を及ぼしたときは、丁度天然の危難を避ける為めに余所の家に飛込んで障子を壊わしたということに当る。その時には行為者に掛れる、逃げ込んだ者は全く責を免がれるということになる。それで人から来たときは、生命なり財産なをり防衛する為めには第三者の物を壊わしても宜いと斯うある。それから天然から来たときは、自分の生命を害するのは甘んじても人の生命は害してはならぬ。若し害したら不法行為になるぞということに先程の梅君の御論は帰着する。なるほど幸に、この処に不法行為者という者があるから、そこに掛って賠償を求めるということになりますが、しかしその不法行為者が天然であったときは何人も賠償の責に任せずして害することが出来るという。そこの釣合が先程の御解釈と釣合はぬというのが一つであります。つまり天然の場合と人の行為に向って自衛するの結果、多少の損害を他人に及ぼしても賠償の責任がないということになるならば、先程の梅君の学説が宜い。そうするとこの但書で以て、人から来ても第三者を害しても己れはその責に任ぜぬ。それは不法行為者があって償なうということになるから宜い。それからもう一つは、他人の物が損害の原因である、だから之を打壊わしても宜いというが、私が恐らく物が原因であるまい。必ず所有者が保存に不注意であったとか或は暴風があったとか、物自らは犬とか馬とかいうことになれば適当の責任を持たせて宜いが、建築物とか堤防であるとかいうものは何にも責任がない。必ず他力に依て動くものである。他力に依て動く者は打壊わしても宜いという理屈はどうしても出て来ない。つまり二項の場合にすると、人の行為から来ようが物の行為から来ようが天然から来ようが、とにかく行為に付いて自衛するの権利だけはあるという所から立て往かなければ、弁解が付かぬではないか。どういう訳で急迫の危難を避ける為めに物に責を負わせてその物だけを打壊わしても宜いという規則が出て来たのか。如何なる原因からして犬は殺されても宜い、物は壊わされても宜い、所有者は何共言うことは出来ないという原因は何処にあるか。損害の原因をしたのは所有者であるが、物その物が原因になって居ると物が責任ということになる。是れはローマ法の学説が混じて来たものであると思います。
梅謙次郎君
質問ということでありますが、御答え致します。よく御趣意の所は分かって居りますが、元来この規定は純然たる理屈には合はぬのであります。純然たる理屈は前に申した通り、自分の権利を保護する為めに他人の権利を犯して宜しいということは出て来ぬのであります。しかし、法律はただロジックだけで往くものならば都合が宜いが、現に是まで諸君と経験し来った如く、動もすればロジック以外の事を規定するが便利である。それ故純然たる理屈から云えば、巡査を呼んで呉れば宜しい、裁判所に訴えれば宜しい、自分で手を下すことはいかぬということになります。けれどもそれでは杓子定規になって、自分が訴える時分には責がなくなって仕舞うから、そこで便法を設けたのであって、その便法の範囲までも法律で持って極めて宜いと思う。私の見る所は、本条の大体の精神は、如何に自分が急迫の危難に遭遇したりとも急迫の危難に遭遇すればどんなことをしても宜いということではない。ただ危難の原因となる者を取除くに付いては、他人に損害を掛けても宜いというのが本案の主義である。而て之に付いては最もその点が明瞭である。例えば甲という者が故なく乙という者を打とうとする。打たれては困まるというので刀を以て受けた、そうして切られたというような場合には、打とうとした人が損害を加えた原因であって、その人に対して防禦の為めに損害を加えたというのは不法でないと本案で認めた。第二項の物の場合も物自身が働くのではない。外の者に依て来るのでありますが、如何なる者に依て来るにせよ、その物を来たさした原因は外にあろうと思う。その損害の原因だけを除いて、そうして自分の危難を免がれるということは許すというので、この二項は出来た。そんならば第一項に帰って不法をした人だけを殺した。それに害を加えたのは責がないとしても、第三者に対して加えた損害は何ぜ償なわなければならぬかという御論が出る。ロジックだと出る。元来この場合は、自分を防衛する為めに第三者にきずを附けた、もとよりその人の行為に依て生じたには違いないが、その原因に遡ぼって見ると、それは他人である。他人が不法行為をした為めにやむを得ず斯ういうことをやったのである。故にたとい、この但書はなくてもこの場合に於て他人の不法行為の原因となった人間、この処に謂う正当防衛を為した人間から不法行為を為した人間に対する賠償の権利という者は無論ある。たといその人を殺しても自分の受けた損害を償うに足らなければ、向うを殺して置いてもなおこの方は損害の賠償を求めることが出来る。いわんやその場合は第三者にきずを附けた、若しその第三者から防衛者に向って賠償を求むるの権ありとすれば、その結果必ず防衛者というものは賠償を求むるの権利あることは疑いを容れぬと思う。そうすれば畢竟はその不法行為が賠償の負担をすべきものであって、手数も二重になって、そうして動もすれば諸君が保護したい所の防衛者が先に立替えなければならぬと云っては大変不利益である。この場合は元々第三者の不法行為ということが一番初めの原因であるから、この場合は第二項の場合には一層防衛者を保護すべき理由がある。天災ではない不法行為が原因である。それでその場合には現実の被害者が防衛者に対して賠償を求め、防衛者から不法行為者に対して賠償を求める代りに被害者から直接に不法行為者に対して訴える便法を設けて置いたのである。
土方寧君
私は修正説を出します。本条に規定してある中で「自己又ハ第三者ノ権利ヲ防衛スル為メ」とある。この自己又は第三者の権利の中で私はまだ制限すべきことがあろうと思う。然るにこの様に広く書いて置くと人の権利を侵害することがあろう。身体この場合は権利の衝突する場合であるから、極権利の軽重を計らねばならぬと思う。それで私は是れは身体生命の安全ということに限りたい。そうして二項は削って仕舞うが宜い。財産権というものはその権利の犯されるときに防衛される。普通の場合を言えば、訴の方で回復が出来る性質のものである。身体生命はそれが出来ぬものである。それ故に身体生命に付いては法律が保護する必要がある。自己の生命身体安全の権利に付いては注文を待たぬと思いますけれども、第三者保護の為めに必要であるから置くのは宜いが、もう少し狭くしたい。権利というのは広いから之も狭くして文章はよく出来ませぬが、意味は自己又は第三者の生命及び身体の安全を防衛する為にということにしたいと思う。
富井政章君
大変大きな問題でありますから、ちょっと一言述べて置きます。財産を盗んで往く者を殺したときは、どういうことになりましょうか。例えば大事な帳面や公債証書を持って往く者がある。之を殺さなければ取返すことが出来ぬというときに、身体生命だけに限っては困ると思う。
磯部四郎君
私は本条削除の説を出します。理由はもう十分言いましたから述べませぬ。
土方寧君
私は賛成します。斯ういう広い権利を与えるよりは与えぬ方が宜いと思いますから、賛成して置きます。
穂積陳重君
私は、前の土方君の説に賛成したい。
長谷川喬君
私も土方君の説を賛成します。どうも是れでは広過ぎると思います。不法行為を為したその人に対する場合は宜かろうが、第三者に対する場合は少し広過ぎると思う。土方君の御案も十分名案とは思はぬが、狭くなると思いますから賛成して置きます。
梅謙次郎君
ちょっと伺いますが、そうすると二項を削るということになると、二項は生命身体の危難も無論這入って居るのでありますが、それでも削って宜しいのでありますか。犬が喰い付いても殺すことは相成らぬのでありますか。
土方寧君
私は一項の加害行為という中に這入ると思うから、二項は削っても差支ない。
梅謙次郎君
他人の不法行為の中に犬が這入るのでありますか。犬は他人でありますか。
土方寧君
少し待って下さい。
穂積陳重君
土方君は別々に決を採っては、違うのでありますか。
土方寧君
二項は置いて置きましょう。一項だけを「自己又ハ第三者ノ生命及ビ身体ノ安全ヲ防衛スル為メ」ということに狭くしたい。
長谷川喬君
私も狭くしたい考えで土方君を賛成したが、しかし絶対的に財産を除くということは賛成しない。御参考までに申して置きますが、私は斯ういう意味の文章にしたい。自己又は第三者の権利を防衛する為めやむことを得ずして暴行者に害を加えた場合は損害賠償の責に任ぜず。その暴行者以外の人に害を加えたときはこの限にあらず、ということにしたい。
横田国臣君
私は解し損なって居った。正当防禦の場合にそこに他人がある、その他人を蹴倒さなければ向うに往かれぬ。この場合は丁度抗拒スベカラザル強制ということと同じになる。又自分が鉄砲を打った。向うに当らずして外の物に当った。この場合も又この処に籠りはせぬ。是れで以て何んでもかでも往くことはない・・・・・。
梅謙次郎君
それは、解釈は横田君の言われる通りやむことを得ずというのが始終くっ付くのである。
横田国臣君
ただしかしながら、第三者の権利というたのは少し広過ぎようと思う。正当防衛ならば、たとい指を一本切られたのでもその者を殺すより外には之れを逃れることが出来ぬという場合は無論やっても宜い。それは宜いけれども、今の自分を罵るというような場合は口を尽してもどうしても聞かぬというときは殺しても宜いということに、この解釈から往くかどうか。
磯部四郎君
それは、やむことを得ぬのではない。
梅謙次郎君
ただ今横田君の仰せになるような罵られた場合に殺して宜いということは、裁判官が認めぬと思いますから、その御心配は要らぬと思います。それから長谷川君の御説は私は賛成しないが、今まで出て居る説の中では一番宜い。土方君の御説に賛成することを御止めになって、その説を御出しになったらどうですか。
富井政章君
そうすると、加害行為に依て損害を受けたる者に対しては、防衛者がやはり損害を賠償しなければならぬというのでありますか。
梅謙次郎君
そうです。
富井政章君
私は反対である。如何となれば、本条に規定してあるものは、所為それ自身が正当と見るから相手を誰と定むべきでない。理屈に於ては甲に対しては正当であるが乙に対しては正当でないというのは穏かでないと思います。
長谷川喬君
屡々論のあった通り、自己又は第三者の権利を防衛する為めに他人を害するのは正当防衛の行為と見るや否やということは難しい論でありますが、既に刑法では、天然の場合にはどんな危害の場合と雖も他人を害して宜いということになって居る。そうすれば一方から言えば幾らか制限されて居る。たといやむを得ない場合でも他人を害してはならないということになったに違いない。しかしこの処では広くなって、自己若くは他人の権利を防衛するに当って、その害を加うる人それのみならず、その害を加うる人以外の者までも殺しても宜いということになる。その原因は何かと言えば、自分若くは第三者の身体生命等を保護することに外ならぬ。その身体生命等を保護するが為めに、加害者以外の者までもやはり殺しても宜いというならば、天然の危害に依て自分若くは第三者の身体生命の危い場合には他人を打っても殺しても宜いということにすべきである。然るに前からいうように、天然の場合は除いて居るから、そうすると今少し制限を加えたが宜いと思う。何ぜならば不法行為以外のものには過失もなければ悪意もない。泥坊が這入って来て財産を取って往る、或は生命を害するからその泥坊を殺すのは宜いが、それが為めに又その他の者を殺しても宜いというのは不法行為の防衛を許す権利が広過ぎると思うから、その場合は天然の場合と同一にして、暴行者だけに対しては打っても殺しても宜いということにして宜い。刑法にはそうなって居るから、私は範囲を狭くしたいという考えであります。
議長(箕作麟祥君)
長谷川君に伺いますが、あなたは土方君に御賛成でしたが賛成を御止めになるのでありますか。
土方寧君
私は長谷川君の方に賛成します。
横田国臣君
ちょっと伺いますが、そうするとこの場合は過失より外に出て来ないと思う。暴行人が人の衣服を借りて着て居る。その暴行人を殺した為めにその衣服の損害を、この方を払わはなければならぬという。そういう範囲の規定であろうと思う。或は又人を殺した為めに人の家の中に血が溢れて居る。この場合に故意でやる場合は、私はまず出て来ないと思う。それは又あられようがない。
長谷川喬君
横田君は暴行人が着て居る衣服を害したという小さな例を挙げられましたが、もちろんこの条をこのままにして置いた所が這入る。横田君は故意に人を害することはあるまいというが、故意に人を害することはあろう。例えば私を害する人があって、その人を鉄砲で打とうとする。その後ろに人が居る。どうしても之を合せて打たなければ殺すことが出来ない。それでその暴行者以外の人を故意に殺すことがないとは言えない。
横田国臣君
それならば大変私と解釈が違う。後ろに居る人を殺したならば、後に居る人に対しては丁度自分が海の中に居って自分を救うが為めに他人を殺したと同じで、その第三者を殺したのは丁度天然と同じである。
穂積陳重君
長谷川君の修正説は分かって居りますが、その範囲が分りませぬからよく伺って置きますが、他人より攻撃を受けて防衛する場合に、第三者に害を及ぼしました。その場合には修正の意味であると、攻撃を受けた者が責任がある。この点だけは分かって居る。もう一つ遡って不法行為をやった者の責任は如何がでありましょう。例えば向うから切り掛けられた。私がそれを受けた為めにその切つ先が外の人に当ってきずを附けたという場合に、私はもちろん責任があるが、切り掛けた人はどうであるか。或は私が他人の店に飛込んで店の品物を壊わしたという場合には私の責任あるはもちろんのこと、その原因たる者に責任があるや否やという、そこの点が明瞭でないから伺います。
穂積八束君
私も一言申して置きます。私が土方君に賛成したのは、多少自分の見る所があって賛成したのでありますが、私の見ます所でも細かい所はどうか知りませぬが、つまり立法の大体の所から言えば、なるほど自己の権利を全うする為めにやむを得ずして他人に害を加えたときは、元々法律が保護する権利であるからして、その結果までその責任が及ばぬというようなことを許します。がしかし社会の秩序に於きまして、是だけの権利を与えると言いましても、他人に損害を加えないようにして権利を与えるのは必要でありましょう。且又単純の権利であるから之を全うするならば問はないというならば、如何に起草者は防衛というような束縛する字を御使いになりましたか。権利を全うする為めにやむを得ずして人に損害を加えたときは責に任ぜずとか言わなければ、主義が通らぬように思います。進んで主張する場合でなくして、自ら権利を防衛するということにやや控え目にお極めになったことと思う。それ等の所の精神を考えると、人の身体生命という者は是れは後で賠償をするということも為し得べからざるものと思う。故にこの事も場合に依ては、実際上の便宜としてやむを得ざる場合に於ては十分に後の結果を顧みずしてやっても宜い、殺しても宜いというのは法律の力ある所以でありましょう。然るに起草者はやむを得ずということに重きを置いて、斯ういう場合は巡査もある、裁判所もあるから宜いが、斯ういう場合はやむを得ずであるということでありますが、実際に於てやむを得ずという程度が漠然として居ると思います。社会の有様の上から言えば、法被一枚失なった位はやむを得ぬではないということもありましょう。やむを得ずという解釈が見る所に依て違いましょうし、又人を罵詈するという場合にも、先刻どなたからかも仰っしゃった通り罵詈位は我慢して宜いと言われるけれども、どうしても之を止めるには殺さなければいかぬという場合でありますれば、やはりやむを得ずであります。極端な例を挙げれば、之が為めに人が腕力を振うような恐れがあるから、私はやはり刑法位の範囲に止めて置きたいという考えで賛成した訳であります。
横田国臣君
土方君に御相談しますが、第三者の身体財産として権利を削ってはどうてありましょう。権利を防衛するというと何だか妙だ。身体財産を直接に害されるということを防衛するという意味にしたい。そうやってはどうですか。
長谷川喬君
穂積君に御答えしますが、初めの不法行為者に対してもやはり損害請求権がある。それは七百十九条を適用することになる。
土方寧君
ただ今横田さんからして、身体財産としてはどうかということでありましたが、それでは困る。軽重論でその方で狭くするも宜うございますが、その上なお長谷川君の言われるように不法行為を為した者だけに限りたいと思う。その他のことは七百十九条があるから宜いと思います。
議長(箕作麟祥君)
それでは決を採ります。磯部君の全部削除説は一番遠いようでありますが。
土方寧君
私は賛成して居りましたが、止めます。
議長(箕作麟祥君)
それでは他に賛成がありませぬから、磯部君の説は決を採りませぬ。その次は横田さんのは賛成がありませぬようですが。
穂積八束君
賛成します。
穂積陳重君
幅をちょっと伺いますが、身体というのは生命も自由も這入って居ますか。
横田国臣君
それは無論這入る。
議長(箕作麟祥君)
長谷川君の説は暴行者に対して云々という意味で、文章は起草者に頼むというのでありますか。
長谷川喬君
そうです。
議長(箕作麟祥君)
それでは諸君も御承知であろうと思いますが、長谷川君の説から採ります。
穂積八束君
私は、横田君の説から先きに採て戴きたい。
議長(箕作麟祥君)
それではそうしましょう。横田君に賛成の諸君は起立を請います。
起立者 小数
議長(箕作麟祥君)
小数。それでは長谷川君に賛成の諸君は起立を請います。
起立者 小数
議長(箕作麟祥君)
小数。他に御発議がなければ、本案は原案に決して、今晩は是れで散会致します。