明治民法(明治29・31年)

法典調査会 民法議事速記録 第121回

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第百二十一回法典調査会議亊速記録
出席員
箕作麟祥 君
土方 寧 君
村田 保 君
田部 芳 君
高木豊三 君
穂積八束 君
奥田義人 君
都筑馨六 君
穂積陳重 君
富井政章 君
梅謙次郎 君
横田国臣 君
菊池武夫 君
元田 肇 君
長谷川喬 君
南部甕男 君
磯部四郎 君
尾崎三良 君
中村元嘉 君
議長(箕作麟祥君)
それでは会議を開きます。この前七百二十四条が原案に決しまして土方君から質問があるということでありましたが、今日承りますれば質問しないでも宜いということでありますから、七百二十五条に掛ります。
〔書記朗讀〕
第七百二十五条 土地ノ工作物ノ設置又ハ保存ニ瑕疵アルニ因リテ他人ニ損害ヲ生シタルトキハ其工作物ノ占有者ハ被害者ニ対シテ損害賠償ノ責ニ任ス前項ノ規定ハ竹木ノ栽植又ハ支持ニ瑕疵アル場合ニ之ヲ準用ス前二項ノ場合ニ於テ他ニ損害ノ原因ニ付キ其責ニ任スヘキ者アルトキハ占有者ハ之ニ対シテ求償権ヲ行使スルコトヲ得
(参照)財三七五、フランス民法一三八六、オランダ民法一四〇五、イタリア民法一一五五、ポルトガル民法二三九五、スイス債務法六七、モンテネグロ財産法五八四、スペイン民法一九〇七、ベルギー民法草案一一三八、ドイツ民法第一草案七三五、同第二草案七五九乃至七六一、プロイセン一般ラント法一部八章三六、三七、ザクセン民法三五一、バイエルン民法草案二編九五〇、イギリス Nelson v. Liverpool Brewery Co., L. R. 2C. P. D. 311. Keats v. Cadogan, 20L. J. C. P. 21.
穂積陳重君
本条は財産取得編三百七十五条を修正致しましたるものでございます。で本条の規定もやはり基きまする所はこの原則にありまする通り過失でありまするが、しかしながら特に規定を要しまする所以は、この本条の場合は直接に己れに過失のありまする場合と、それからして他人の過失がありまする場合、しかしながらその過失に付いては己れが損害賠償をすべき道理があるからしてそれ故にその責に任ずる、単純に自己の過失ということだけに止まらずして過失の原則を称々押拡げまするものでありますからして、殊更に特別の箇条を置きまする必要があるもでありまする。土地の工作物の設置又は保存というものに付いて誰か過失がなければならぬ。とにかくこの不法行為というものは過失というものが本になって居るのであります。誰かに過失がなければならぬが、若し誰かに過失がありまするときには直接に損害賠償の責に任ずるものは、その占有者であるという規定に致したのであります。で第一にこの土地の工作物と申しますることは、既成法典に対しては称々その範囲が狭くなって居るのであります。で既成法典は「建物ソノ他ノ工作物ノ所有者」と書いてありまして、まずやはり土地の工作物を重もに見ましたものではありましょうが、文字上では土地の工作物とは限られて居らぬのであります。且つ歴史上から言いましても、この工作物の設置の瑕疵又は保存の瑕疵に付きましては、その動産たると不動産たるとを問はず、損害賠償の責を所有者に負わせるということはローマ法以来諸国にあったのであります。しかしながら本条に於きましては、この土地の工作物ということに限りました。で他の工作物の瑕疵等に付きましては大概その過失者というものと、それから損害というものの関係か明かになって居りまして、別に明文を置きませぬでもこの本章の初めの箇条に当りまする場合が多うございます。又建物などの如きその物の製作の欠点ということまでに及ぼしましては、余りその責任の範囲が広きに失して非常に自由を害する処がありまするからして、近頃の法典はローマ法以来追々狭く致しまして、とにかく不動産に関しまする工作物ということになって居るのが多うございます。もっとも諸国に於きましては、或はポルトガルでありまするとかフランスその他の諸国に於きまして、この場合だけは建物だけに限って居る所もありまするが、この建物だけに限りましては少し狭過ぎるのでありまして、或は建物でありませぬでも堤防のようなものでありまするとか或は堀とかその他種々様々の工作物に付いては、随分他人に損害を生ぜしめるものでありますから、その設置、保存等に付いて充分にその所有者若くは占有者が気を付けなければならぬからして、やはり之を土地の工作物ということにする理由はあろうと思います。でその工作物の設置に付いて過失がある、又は保存に付いて過失があったと申しまするものは、保存の過失は多くは本条に於ける損害賠償の責任者自身の過失であります。設置の過失は必ずしも本条に於ける責任者自身の過失とは言えないのであります。しかしながら公益上この設置に過失があって、或は家が崩れるとか土手が崩れるとかいうようなことで損害を生じたときに於ては、公益上その占有者とか所有者とかいうものに損害賠償の責を負わせるということは、是は諸国に於てその規定が粗ぼ一様になって居るようであります。唯その基きまする過失が自己にないときに於ては、その過失の淵源にまで遡りまして求償権を行使することが出来るという規定がありまして、その場合を補うようになって居ります。次にこの既成法典では所有者がその責任者となって居りまする。是は既成法典のみならずフランス、オランダ、イタリアその他スペイン、モンテネグロ、スイスなどもやはり所有者となって居るのであります。ドイツ諸国の法典は多くは占有者となって居ります。で是は占有者と致しました方がとにかくこの間接の責任の如きもの、即ち他人に過失がありましても自分がその損害賠償の責任者となるという場合に於ては、最もその保存即ち損害の発生を妨げることに直接の関係のありまする者にその責任を負わせるのが一番効力がある。即ち損害を妨げる、損害を未然に防ぐに効力が一番ありまするからして、それ故に占有者と致しまする方がこの規定の目的を達することであります。イギリスでもやはりそういう主義になって居ります。求償権のありますることはもちろん、或場合に於てはありまするけれども、例えば賃貸借の如き場合でありましても、その借主の方が外に対しては賠償の責に任ずるということになって居ります。それ故に占有者と致しまする方に改めましたのでございます。殊に賃貸借などの規定に於きましても、もとより外に契約その他別段の定がありませぬときに於ては、所有者が修繕の責に任ずるのでありまするが、しかし本案に拠りまするというとやはり本条と同じ主義でその占有者たる所の賃貸借人、賃借人に於て保存、修繕には注意しなければ往かぬ義務があるということは既に議定になって居ります。修繕を要するときには之を修繕義務者、即ち所有者に通知をしなければならぬという責任を負わせてありまするから、彼の箇条などと照応致しまして、即ち直接に損害の発生を妨げ得る者がその責に任ずるということに致して置く方が実際上も都合が宜し、又その責に任ずべき理由というものもあるであろうと思います。但前に申しました通り、その損害の原因というものに付いて他にその責に任ずべき者があるときには求償権の行使を妨げないという、即ちこの第三項の規定が自ら必要になって来るのであります。第二項の規定は如何にも細かなような規定でありまするが、工作物という文字に這入りませぬ。竹を植えたとか木を植えたとかその植え方が甚だ悪い、或はその支え方が甚だ粗漏であるとかいうことは、前の第一項の文字に這入りませぬ。しかしながら本が倒れるとか竹が倒れるとか或は木の枝が落ちるとか、そういうような風のことは屡々あることでありまするからして、至って特別な場合を挙げましたようでありまするが、既成法典にもやはり之に類した規定がありまするので、余儀なく第一項の範囲を補いまする為めに、之も土地に着いて居るものでありまするから、竹木の栽植又は支持の場合をこの処に明かに挙げたのであります。既成法典には船の繋き方や何かが悪るくってその船が流れて他に損害を及ぼすという、そういうような場合も挙げてありまするが、是は前に申した通り直接に自分の粗漏過失に因て他に損害を及ぼす場合でありまするから、特別の規定は要るまいと思いまして、別に船などに付いてはこの処に明文を置きませなんだのであります。
長谷川喬君
この前の七百二十二条の末項に「監督義務者ニ代ハリテ無能力者ヲ監督スル者モ亦前項ノ責ニ任ス」とある。この意味は、監督義務者その人に代わりて監督する者も共に責に任ずるのであるかということを御尋ねをしたときに、最初の穂積君の御答えは、それは工作物即ち七百二十五条のような意味と同じようなものであって、この処では代わって監督する者だけに責がある、斯ういうことの御答えでありましたが、後に段々変って来て終に監督義務者も代わって監督する者も二人共責に任ずるのである、斯ういうことに聞えましたが、そうして見るというと本条の所は如何なものでありましょう。この処では所有者というものは直接の義務者ではなく、求償権に対する義務者である。そうしてこの場合には占有者のみが直接の義務者である。最初の御説明の如くならば、権衡が合うよう。だけれども後の御説明の如くになると少し権衡が合はないではないか。解釈上に渉るけれども、是は直ちに出て来る問題であろうと思いますから御尋ねをして置きます。
穂積陳重君
本条は所有者が責に任じ、それから所有者に代わって占有する者あるときは、この者も亦損害賠償の責に任ず、斯う致しましても差支はないのであります。所有者だけという規定のある国も余程多い位のことであります。しかしながら、この土地の工作物の設置、保存等の義務と申しまするものに付いては、なるべくその損害賠償の責に当りまする者を何処かに定めて置くのが必要であるから、諸国で明文が置てあるのであろうと思います。で全くそう致しても差支はないのであります。ありまするが、七百二十二条というものの監督義務者に代わりて無能力者を監督する者にも責任を負わせるということだけに付いては、この占有者に責を負わせるということと少しも権衡は---その意味は変って居らぬ。唯アノ方が少し広い。その他になお義務者があるということだけがアノ方が広いということに帰するので、矛盾致して居るという程に権衡を失って居るのではない。幅の権衡だけに帰すると思います。若しそうする方が権衡の為めに宜いということであれば差支はありますまいが、実際上の適用に付いて唯不便を若し生じは致しますまいがと思いまする気遣いだけがあるのであります。
富井政章君
この両条の場合は少し違いはしませぬか。七百二十二条の場合に於ては、法定の監督義務者というものが被害者に対しては、まず自分が始め監督の責を負うて居るものである。それが更に他人に監督を委任したのであります。その場合に第二の監督義務者は直接に被害者に対して責を負うけれども、自分も亦被害者に対して元と監督義務者であるものでありますから、そういう粗忽の者に委任したという実は免れる道理はない。その理由で自分も責を負うのであります。この七百二十五条の場合に於ては「他ニ損害ノ原因ニ付キソノ責ニ任スヘキ者」というのは、多くは占有者と契約関係のあるもので、---皆がそうとは申しませぬけれども、その者と被害者との間には直接の法律関係はない。例えば賃借人が本条の怠りをした。賃借人が賠償の責に任ずるものであるけれども、所有者はどうかと言えば賃借人に対して修繕の義務を怠ったというようなことである。その賃貸人と被害者との間には何んの関係もないのです。契約関係はないのです。而してその賃借人という者は自分が家屋を借りて住んで居って最も注意をせねばならぬ地位に居るのである。前の監督義務者の方は元とは監督義務者であったけれども、とにかく第二の監督義務者に委任したのであるから、第二の監督義務者が主として賠償の責に任ずる。唯粗忽の者に委任したという廉を以てその場合には自分も責を負う。責を負う原因が少し違うのである。そうして被害者と損害の原因に付いてその責に任ずる者との関係も違う。どうも同じように見ることは出来まいと思います。
磯部四郎君
ちょっと私は本条に就て伺いますが、先程から承りまするというと、この七百二十五条の保存に瑕疵あるというのは、例えば賃借主が自分で以て保存のことに注意して居って、修繕等のことを屡々所有者の方に通知をしなければならぬ。その通知を怠ったが為めに保存に瑕疵が生じて損害を及ぼした場合、その場合には夫だけの瑕疵があるから、即ち自分が通知を怠ったという所から占有者ではあるけれども、被害者に対して損害賠償の責に任ずるということが出て来る。そうすると注意は充分に自分がして居ったけれども所有者が修繕をしなかった。現に私の大屋などというものは幾らこっちから家根を茸いて呉れと云っても茸いて呉れない。それが為めに地震が入って瓦が落ちて隣家の壁が壊われたというようなことがある。自分は注意だけは怠っては居ない、注意はして居るけれども、大屋で修繕をしない。修繕をする義務は所有者にある。それでこの処に斯ういう欠点が出来たぞということを注意して置かなければならぬ。その注意をして置いたに拘わらず、すべきときにしないでそれを抛って置いたならば、他人に係ることが出来るか。いわゆる己れに過失がないということを証明したならばその責は所有者が負うて、賃借主というものは賠償の義務を免れなければならぬ。直接に所有者に向て被害者が訴権を持たなければならぬと想像致しまするが、それがこの法文には見えませぬが、そういう点はどういう風に弁解したならば宜かろうかというのが一つの問題。それから又被害者は占有者外のものとは極まって居らぬと思います。随分占有者自らが害を被むるというようなこともあろうと思います。その時には被害者たる資格と占有者たる資格と二つある。自分で自分を訴えることも出来ませぬが、何人に係って訴権を持たなければならぬか、それがこの法文には見えない。それが一つ。それからこの末項に「前二項ノ場合ニ於テ他ニ損害ノ原因ニ付キソノ責ニ任スベキ者アルトキハ」という法文がありますが、是は建築者を指したのであるか、或は仕事請負主を指したのであるか、将た又所有者を指したのであるか、その所が私にはどうもちょっと判然しないのであります。いわゆる建築主であるとか請負主であるとかいう者は、無論設置の瑕疵に付いては責に任じて居るに違いない。けれどもこの末項の求償権は何人に対して行使することの出来る権利であるか、若し所有者であるならば、むしろ所有者ということを書くが宜かろう。又請負主ということになると変なものであって、建築主とか請負主に対して現在の占有者が直接に訴権を持って居るということは可笑しいことになりはしませぬか。必ず建築を依頼した者がその建築物を受取ってから何年とかいうが如き法文がなければならぬと思います。突然お前の家の建築の瑕疵からして現在私が損害を蒙ったというて来た者があるから、それに向て賠償を払った。付いてはお前から償いをよこせということはどうであろうか。必ず是は建築を依頼した人の権利でありますから、占有者が行うということはちょっと出て来ぬように思いますが。そうするとこの「ソノ責ニ任スヘキ者アルトキハ」というのは何人を指したものであるか、之が一つの質問であります。それから総体の所から言えば、日本では家屋の占有者であって所有者でないものが沢山ある。是は吾々の如き貧乏人が多いのであります。どうも家などを借りて甚しきに至っては、九尺二間の家で竃が一つと夜具が一枚、それも損料借りというのが多い。それに向て損害賠償の訴権を与えて置いた所が殆ど実効のないものである。そうするとむしろ所有者ならば所有者に---まず外国の例はしばらく措て日本固有の有様からいうと、貸借人などは誠に貧乏人が多いのでありますからして、それに向て訴権を与えて置ても訴訟などをしてその入費を損じて引込んで仕舞うというようなことがあっては不都合と思いますから、やはり便宜上から考えると、是は所有者ということにして置いた方がむしろ権利の実行に就て都合が宜くはあるまいか知らんと考えます。是は立法の全体の主義に就ての質問であります。之れだけを承りたい考えであります。
穂積陳重君
第一の点は、占有者は随分所有者に対して、例えば所有者に修繕の義務があるときに充分に請求をした、けれどもその請求通りに修繕をして呉れない、それ故に斯の如き場合に於て、何故に占有者をしてその責に任ぜしめる理由があるかという御問いと存じまするが、是はたとい占有でありましても、土地の工作物の如き、いやしくも著しい物件を一つ自分がとにかく社会で持て居るという事柄に就ては、それに対する相当の注意の責はその持て居るということに付いてなけらねば往けまい。是は強ち土地の工作物のみではありませぬ。総ての物に就てそれだけの注意は要るので、並の注意では、それは裁判官は外の物を持つような注意では、例えば爆発物などを取扱うような注意では注意でないと言うかも知れぬ。最も世の中の人に危険を与える工作物を占有して居るならば、その占有者が直接に自分の持て居る所の物に付いて、損害を生ぜしめない、他人を害せしめないというだけにその占有を行はなければならぬ。即ち他人の権利を害せざるが如く汝の権利を行へ。占有者というものには、その持て居る物に従ってそれだけの注意を負わせて宜い訳であります。それで占有者というものに、とにかくに第一の責を負わせる。又実際上の便益から云って見ると、即ち終りの御質問に対する御答えになるのでありまするが、或は風が吹いて屋根の瓦が落ち掛かったとか、土手が崩れたとか、道に大きな穴が明いたとか、斯ういうような風の場合に於ては、公衆に対して損害を予防し得る者は占有者である。それであるから所有者に掛かれぬと云ふ道理はありませぬ。立法上の理由としては前に申しました、この責任を負わせる理由がありまするのみならず、その方が本統の・・・・・掛かるということも出来るのでありますし、又損害を妨げるということも出来るのでありますから、占有者が貧乏であるとか、所有者が大変金持であるとか、その辺のことは能く考えませなんだが一概には言えまいと思います。それからその占有者が償い得られない程の大きな損害が何時でも生ずるとも申されませぬからして、それ故にどうも占有者と致して置く方が実際上適当ではあるまいかと考えたのであります。それでまだ後とに二つばかり御質問の点が残って居りますが、第二は占有者自身が、例えば瓦が落ちて頭を怪我したとか壁が落ちて自分が怪我したとか、占有者自身が損害を受けた場合の規定がないのは如何であるかという御尋ねでありますが、是は七百十九条で、その場合は直接に修繕義務者に係って往けまする積りで、別段明文を挙げませなんだのであります。「故意又ハ過失ニ因リテ他人ノ権利ヲ侵害シタル者」という中に這入る。修繕しなかったという過失があるものでありますから、別に明文を置きませぬでも疑いは生ぜぬと思いましたから、置きませなんだ。それから第三の点は「其責ニ任スヘキ者」というのは、所有者であるか、或は請負人であるか、そういうような風の場合、例えば請負人の場合であるとどうも占有者というものは一向請負人とは関係はない。それに占有者から往けるというのはどういう道理であるか。元と請負人という者は、その契約をした人に対してその工作物を設置したのである。それにどうも往けるという道理がいささか解し兼ねるというような風の御質問と解しまするが、是は所有者と直されましても所有者が必ずその請負人と直接に契約をした人とは限りませぬ。幾らも所有権は転転するものでありますからして、それで今の契約の理由に依て求償権が来るのでなく、やはり請負人に過失があった。その過失の為めに損失を蒙った。即ち他人から訴えられて賠償の責に任じたというなんで不法行為に基たのでありますから、契約当事者の関係は要らぬのであります。所有者に於けるも亦同じことであります。之が大屋であるとか地主であるとかいうことで往くのでなくして、大屋が或義務を怠った。それが為めに自分が責に任じた。斯ういう方の不法行為でやはり求償権が往く積りであります。
梅謙次郎君
ちょっと申上げて置きますが、この占有者をして義務を負担せしめるか、所者有者をして義務を負担せしめるかということは、穂積君から詳細の御説明があった通りどちらも一理あるので、つまりどちらに極めるかならば、便利の方に極めるのであります。私の便利と思うたのは、穂積君の言われた理由が第一であります。なお附加えて言うと、御承知の通り所有権というものは証明することが難しい。就中他人の権利をコチラから証明することは難しい。それより唯占有者に係るという方が容易であるという一つの利益もあろうかと思うたのであります。それからもう一つの点でありまするが、それはただ今穂積君からも御答えがありましたけれども、占有者が所有者に対して自己が受けたる損害を賠償せしめることは出来なければならぬが、例えば瓦が落ちて自分が怪我をしたとかいうような場合に、その損害賠償を請求することが出来なければならぬが、それはどうなるかということであります。穂積君は、七百十九条の規定はそれはもとより往けるということでありましたが、一般の原則としてはそれで宜かろうと思いますが、或場合に於ては占有者と所有者との間に於て契約関係のある場合に、やはり所有者が占有者に対して自己の義務を履行して居らぬ、契約上の義務不履行からやはりそういうことの生じた場合ならば、不履行より生ずる損害賠償としてもやはり取れるのである。どっちみちこの場合などは差支ないと思いますから、それで実際のことを申すと、唯先きに誰が払うかという位のことになって、悪るい者がつまり払うということになるであろう。唯便宜上どちらを直接に訴えることか出来るかというだけの規定であろうと斯う考えます。
磯部四郎君
ちょっとそれに付いて伺いますが、例えば占有者を相手取って訴えた所が、その占有者は何もない奴である。私が第三者の被害者である。その時分には直接に被害者からして所有者に係ることは出来るのでありますか、出来ぬのでありますか。出来ればドノ条文に依て出来るのでありますか。この条文に拠ると占有者に係ることになって居りますが、そうすると占有者に係るということになって居ると、被害者が第三者である場合には何うしても所有者に係る途があるまいと考えます。そうするとこの訴権というものは殆ど過半有名無実に帰しはしないか。いわゆる権利には勝っても物は取れないという場合が起りはしないか。それで御尋ねをするのでありますが、それで之があるにも拘わらず被害者というものが、即ち工作物の所有者に係って直接の訴権を持つことが出来るということだけの定が出来ますればそれで宜い。私は何もそれ程所有者の何人たるを証明することは難くはあるまいと考えますが、しかし所有権を証明することは難しいものであるということは古へからの言い来たりでありますから、この言い伝えには一歩を譲ってやはり難しいものとしても、占有者に係って取れない場合には所有者に係る途が条文にあるのならば宜しいが、それがないというと日本の今日の有様から考えると余程考えなければならぬと思いますが、その所だけをちょっと伺って置きたい。
長谷川喬君
私も同じようなことでありますが、私が七百二十二条との権衡を以て御尋ねをした所が、富井君の御答えには、原因が違うなるほどそれは原因が違う。七百二十二条の方は監督者の選任を誤ったときである。この処は選任のことには関係はない。原因の違うことはそれで宜しいでございましょうが、しかし選任を誤ったが為めに一方に責を負わせるというのならば、この場合でも今磯部君は唯保存のことを頻に言われましたが、保存に付いてももちろんあるが、しかしながらこの設置というものに付いては、まず十の九までは必ず所有者に過ちのある場合であろうと思う。或は貸借人という者はドンナ設置になって居るか気が付かぬで居った、所が地震が入ったとか風が吹いたとかいう為めに他人に損害を及ぼした、斯ういうようなことは貸借人としては知り能はない。つまり過失者は誰かと言うと所有者であろうかと思う。そうして見たならば、その過失のある所有者に責を負わせないということはどうも不権衡であろうと思います。原因は違うけれども過失のあるということに就ては同じことに違いない。何うしても設置のことまでも占有者に責を負わせて、そうして磯部君の言われるが如く、害を受けた第三者というものが占有者に係って見た。所が何もない。そうして所有者は少なくともその害を加えた所の物件を持て居りながら、一向その損害を償わないということは不都合ではないか。即ち七百二十二条も代って監督する、その代わって監督する者も能く監督させる為めに之に責を負わせるのであって、本統の監督者は搆はぬ。この処で言うのならば、所有者の方は搆はぬ。それで所有者を退けて置くというのならば、兎も角も権衡だけは合うけれども、既に七百二十二条で選任を誤った者、それにはその過失に対して責を負わせる。こちらは設置或は催促を受けて修繕もしない、斯の如き過ちのある者の方は殊に責を免れしむるというのは不釣合ではないかと思うのであります。
穂積陳重君
ただ今の長谷川君のは、即ち占有者というのを所有者と直すか、又は占有者として所有者にも係れる両方にするか、という御論でありますが、磯部君のは本案の範囲で反対論が出たのであります。本条に斯の如く書いてありまする以上は、御見解の通り占有者に係るのであって、占有者が往けなければ続いて所有者に係るということは、どうも往けそうもないのであります。なるほど磯部君の仮定せられまする如く、占有者というものは何時でも一文なし素寒貧である。所有者は何時でも富裕者である。そう致して見ますると、被害者の方には誠に保護が薄いのでありまするが、その所は即ち事実上の問題でありまして、私は必ずしも一般にそうとは限るまいと思います。所有者と言えば現にその物を持て居るではないかという議論も出るでございましょうが、しかしながら所有者と雖も、その物を他に抵当に入れて置くということもあるかも分りませぬ。必ず占有者が損害を賠償しても被害者が利益を享けることは出来ぬということであれば、それは所有者となりましても私だけは宜しうございますが、どうもそうは思はれませぬ。所有者がその工作物を始終持て居らないという場合が余程多い。そういう場合には現にその家に住んで居る人とか、その土地を持て居る人とかいうものに気を付けさせる方が宜かろうと思いまするだけのことであって、若し仮定せられたことが事実であるならば、私は強て主張しないかも知れない。
土方寧君
この不法行為に関する今まで議決になった箇条を見ますると、第一の始めの箇条には原則を定めて適用は大変広いでありましょうが、総て故意又は過失がなければ責任がないということを第一に挙げてある。そうして之に対しては、幾分か特別の規則というものが設けてある。未成年者、無能力者を監督する者、或は或事業の為めに他人を使用する者等に就て設けであります。之等の未成年者、無能力者を監督する者の義務或は又或事業の為めに他人を使用する者の義務というものは、まず他人に害を加えたならばそれは使用者又は監督者の方に過失のあったものと仮定してある。そうして被害者の方には証明の責任を免れしむる。しかし相当の注意を加えたとか或はその義務を怠ったのでないという反証を挙げさせることになって居って、反証を挙げたならば責任を免れることになって居る。然るにこの七百二十五条は何共書いてありませぬが、それは立法の趣旨は過失があるということに着眼したのであろうと思います。法律の規定の上から言えば、過失の有無は問わないと言わなければならぬ。この場合は「設置又ハ保存ニ瑕疵アルニ因リテ」云々とあって、それに就ては反証を許さないのでありまするから、なるほど過失というものは法律の規定の上から言えば不問に置てある。けれどもこの七百二十五条があったからと云っても、決してこの法文に示すような事実の起った場合には、その事実に関係して居った人が七百十九条の原則に依て支配されることを妨げられることはないものであろうと思います。それでこの七百二十五条の規定に依て占有者に、つまり過失の有無論を法律上問はずして責任があるとして置ても、或は工事請負人とか所有者の方に過失があったということを被害者が証明し得てこの条の適用に依て占有者に請求しても、占有者は無資力であった為めに賠償を得ることが出来なかったという場合には、その損害というものが残って居る。そうすると結局は七百十九条の原則に依て、その責は免れることは出来ないように思います。先刻の磯部君の御質問の時にそういう御答弁があるだろうと思いました所が、そういう御答弁も出なかった。それでこの条は占有者に付いて過失の有無を問わないという所の厳重なる責任の有無を定めただけのものであって、請負人とか所有者とかいうものの方に過失があったということを証明したならば、それに就ては七百十九条の原則を適用して差支なさそうに思う。又そうなって然るべきように思う。その点は如何でありましょうか。どうも七百十九条の原則とこの条の関係等に付いて御答えがありませぬでしたから、誠に不明瞭に思うのであります。
穂積陳重君
或は私が誤って居るかも知れませぬが、諸国の規定は並び立って行われる規定とは致してないようであります。畢竟本条はこの土地の工作物というものは、まず多いのは家などでありましょうが、髄分著しい物を持て居るのでありますから、公益規定で責任のある所を、一方に於てはなるべく被害の発生しないように且つその損害の責に付いて直接に誤りの一番ありそうなもの、それから一方に於ては確かにその被害者というものにはそれだけの賠償を、是は私の家から出たのであって私は知らぬとか何んとか言って免れるようなことをせぬで、家のような物を持て居ればその持った人が責を負わなければならぬ。例えば杖で撲ったとか、鉄砲で撲ったとかいうような場合でありますれば分りまするが、どうも屋根の瓦が落ちてそれが為めに怪我をしたとかいうような場合には、はっきり分り兼ねる。公益上から便利の為めに置いた規定であろうと考えます。そうすると之が則ち例外、大原則に於ては過失に基いて居るには違いありませぬが、適用上に於ては例外と解するのであります。而して本条に極める所はその責任者を定め又過失の有無とかいうものを問いませぬのも、屋根の瓦が落ちたそれは私は知らない私がしたのではないというようなことが言われるのを防ぐ為めに置いたものであります。若し双方並び立って行われるものだという解釈でありまするならば、幾らか断らなければ往かぬ、で既成法典などにも並び立って行われる場合が特に断ってあります。工事請負人などの場合ならば既成法典などでも並び立つのでなくして、独立の規定と見て居ったのであります。
横田国臣君
この不注意のある者に償わせるということはそれはもっともな話である。で之を占有者に償わせるか或は所有者にするか或は真に不注意の者ばかりにするかこの三つであろうと思うのです。それで私は工作物というのが、或は之が宜いこともあると思うのです。それは器械場とか何んとか日々使うとか何んとかいうような所は、或はこの規則が宜いかと思う。けれども責を帰させるというのならば、私はどうしても所有者の方にするのが至当だろうと思います。占有者と所有者と較べれば、その物に付いての関係というものは所有者の方が大きい。それで私はこの箇条がなくてもが、必ず所有者に係るであろうと思うのです。実は所有者の物が外の者に損害を加えれば私はそればかりで所有者に償わせて宜いと思うのです。唯別段の非常なことか何かでないならば、それでこの占有者というものが償うとして見ますと、どうも非常なことがあろうと思います。それは今家が倒れて人の家を打ち壊わす。それに付いて占有者が又今度その損害を生じた原とに求めよう。即ち不注意の者に求めようと言って所有者に係った。そうすると所有者は是は外の者から買うたのであって尽つとも不注意はない。己れが不注意がある位ならばお前も不注意である。そうすると詰る所、占有者ばかりの損になって仕舞うと思います。それは大変な酷い話である。或は所有者に償わせるというのも酷いかも知れぬが、とにかくその物を所有して居る、その物に付いての関係が一番大きい。それですから借賃を払って置て大変な償いをするということも余程酷いことであろうと思う。それで私はこの箇条がなくても所有者に往こうと思うけれども、それでは不安心というならば所有者にして欲しいのです。
磯部四郎君
私は、そのような修正案を提出しようと思って居ったのであります。
横田国臣君
それではどうか御提出を願います。
磯部四郎君
この第七百二十五条の一項の「占有者」という文字を「所有者」と改めまして、それから「第二項ノ場合ニ於テ」云々というこの末項の条文を削って仕舞う。その理由は「占有者」を「所有者」と直す事柄に付いては、是は先程から充分に質問を致しました。その点から分かって居ろうと考えますから是は省きまして、末項を削るとどうなるかというと、所有者は元来自分に何も過失がない。建築者か何かに過失がある。それは請負人が何かに係って求償権があるというようなことになるかも分りませぬが、それは請負契約の方で何年間というものはその物より生じた損害というものに付いては、その請負人に賠償の責があるということになるであろうと考えます。若し又現在の所有者が他の人より買って間もなく斯ういうことの為めに他人に損害を生じたときには、前の売主という者は担保の義務は必ずある。その担保の義務に原因して、或はそれを償わせるということが出て来ようと思います。それで是は「占有者」とありますからして、末項の如き条文が要りますけれども、この本条第一項の「占有者」が「所有者」となりますれば、その所有者が更に求償権を行使することの出来るのは他の規定に依て充分分る話でありますから、この処に之を置いた所が無用であろうと考えます。それで「占有者」という文字を「所有者」と改めて、末項を削る。若し又工作物の建ててある所に来て第三者が過失で以て瓦でも落したとかいうようなときであれば、それは七百十九条の原則に依て往きますから別に条文は要らぬ。かたがた以て私の申しまする如く修正致しますれば至極簡単なものになって、且又日本の実際の情況にも適合して宜かろうと思いまするから、どうかこの「占有者」という文字を「所有者」と改めて、末項は削除するということに願いたい。殊にこの占有者の注意を促すというような条文を御置きになるのは、恐らくは家を借りて御住いなすった経験が少ない所から起るものであろうと考えます。中々家を借りて居りましては雨の漏る奴を抛って置いて所有者に通知を発せぬで置くというようなことはありませぬ。私なども彼是二十有余年の間借住居をして居りますが、そういうことに不注意をして居るというようなことは決してないのであります。それでありますから法律を以て御責めになる必要は毛頭あるまいと考えます。且又事実上充分に注意しようと思いますから、とにかく是は御改めになるように御願い申したいのであります。
長谷川喬君
私はこの原案即ち占有者のみに責を負わせるというよりは、むしろ磯部君の言われるように所有者のみに負わせるということにした方が宜かろうと思いますから、原案をこのままで御維持になるならば、やむを得ず磯部君を賛成しようと思いまするが、どうもこの占有者に責を負わせるということは苛酷でもあるし、今御説明の如く不都合であろうと思いますから、やはり前の七百二十二条の如く所有者が責を負わなければならぬということにして置いて、又占有者にも負わせる。そうして或場合に於ては占有者が所有者に係って求償権を行使することが出来るということにした方が穏かであろうと思います。横田君、土方君などの御論に拠ると、所有者に係ることは七百十九条で往けるということでありますが、なるほど或場合に於ては往けもしようが、或場合に於ては往けぬこともあろうと思います。即ちこの処に「工作物ノ設置又ハ保存ニ瑕疵アルニ因リテ他人ニ損害ヲ生シタルトキハ」とありますが、この工作物の設置の瑕疵というものは誰にあるかならば、建築人にある場合が多い。所有者というものには一つも過失がない。全く善意で建築物を受取って居る。そうした所が建築者に過ちのあった為めに、本条に請うが如き瑕疵を生じて、それが為めに他人に損害を及ぼす。この場合に於ては、どうしても七百十九条では往けないから、この処に一つの責を負わせるという規定がなければならぬと思います。それでやはり、この処に「所有者」ということを書いて置くのが必要であろうと思う。私は起草者に御相談を致すのでありますが、所有者、占有者に責を負わせて、そうしてなお占有者は所有者に係って求償権を行使することが出来るということにしたならば宜かろうと思うのでありますが、如何でありましょうか。一つ起草者に御相談を致します。
穂積陳重君
ただ今のは御質問でありまするが、もとより長谷川君の御考えのようにするのは同意でありまして、それも確かドイツ民法草案等に例があったと思います。しかし「占有者」とあります方が近頃はスペインでありまするとかその他段々多いようでありますが、そういう風になりましても私一人は格別不同意ではありませぬ。「所有者」という方も決して是はもう御無理な御議論とは毛頭考えませぬ。唯横田君の言われる通り、その物に付いて関係が厚いということを見る方が宜いか、その損害の発生の原因に付いて関係が厚いということを見る方が宜いかというと、私共はむしろその損害の発生に付いて関係が直接なることを第一に見た方が宜くはないかと思いましたから、コチラの方の主義を採りました。その物が自身の利益に関するということでありますれば、その物と所有者とは大変関係が厚いからということで、その物ということが必要でありましょう。しかしながらこの損害から申しまするというと、その占有者の方がとにかく関係が近いことが多いようでございます。それは斯う双方で論じて見ますると、占有者と所有者と何時でも別であるように見えまするが、所有者が占有者であるというような場合が多いのであります。そこらも御考えを願います。それから占有者の不注意で屋根の瓦が落ちるとかいうような場合であっても所有者に責があるとすると、占有者からして所有者に係って求償をするとかいうようなことは、前の通知の義務という範囲に這入りませぬ場合は往けますまいが、とにかく常に持て居る者の注意、占有権の行使に付いては他人に損害を与えては往かぬ。独り占有権には限りませぬ。所有権でも何んでも権利の行使に付いては他人に損害を与えないように権利を行使するという原則は幾らか欠けるようになろうかという気遣いも私は持て居ります。こちらから進んで「所有者ソノ責ニ任ス」それから「所有者ニ代ハリテソノ工作物ヲ占有スル者アルトキハソノ占有者責ニ任ス」とかいうようなことになりましても、私自身はそれに反対するということはありませぬ。
土方寧君
私は磯部君の「占有者」というのを「所有者」と直し、それから三項を削るという説に賛成であります。全体不法行為の原則は少なくも過失がなければ責任はないということであります。そうして場合に依ては或事実があったならば、過失があったのをないと見る反対の証拠を挙げれば責を免がれるという規定が前にあります。是はもう一歩進んで過失の有無を問わないということで便宜上、公益上の一つの規定である。そうなって見ると、どうも横田君の言われる通り物に利害の関係の多い方の人に責任があるというのが理屈に適って居ろうと思います。若し害の原因となった、物に関係の厚い者よりはその物に付いて現に害を蒙ったのであるから、過失のあったと見るべき占有者に責を負わせるが宜い。所有者よりも占有者の方が早く発見すべきものである。しなかったならば、過失と見ても宜いという論から往けば、相当の注意を怠ったのである。しかしながらその瑕疵というものが匿して居って、到底発見し得られぬというものであったならば、求償権を行使することが出来るということになる。その旨意ではない。そうして見れば物にきずがあったならば、そのきずを見出すべき一番近い位地に居ったという関係よりは、つまり過失があったきずがあったというのであるから、建物に付いて利害の関係の厚い所有者というものが責任を帯びるということにするのが一番理屈に適って居ろうと思います。そうして見ると磯部君の言われる通り、請負等の契約に依て求償権は何年間ということもありましょうし、それから現在の占有者即ち貸借人が賃貸人の所に通知をする。その通知を怠ったが為めに終に他人に損害を加えるようになって責任を帯びるというようなことであったならば、それは賃貸借の性質からして借地人とか借家人とかに向て賠償を求めることが出来るに違いない。どうも日本の事情は余程西洋の事情とは違って居ろうと思います。随分西洋などでは金が有る人でも人の家を永い間借りるというような人もあるようでありますが、日本では少し金でもあると自分で家を建てる。それで借家人と言えば大概貧乏人が多いのであります。そういう者が責任を負うということになったならば、被害者たる第三者がそれに対してのみ請求権があるということになると、迷惑を蒙るようなことがあろうと思います。又借家人も大いに迷惑をする。僅か賃銭を払って住って居る。それに向て殊更に法律を以て注意を促すようなことをせぬでも、自分の利益であるから必ず所有者に向て瑕疵あることを通知するに違いない。若しそれを知らないで差支ないと思って打っちゃって置くと、風が吹いて屋根の瓦が落ちた。それを斯ういうきずがあったならば早く見出すべき筈であったと言って、占有者に責任を負わせるということは甚だ酷であろうと思います。それで私はやはり日本の占有者というものは、多くは借主でありましょう。借主等の多くの事実上の有様に付いて言うならば、この条の如く占有者に責任を負わせるということは酷である。それ故に所有者と直す方が宜かろう。それで「占有者」を「所有者」に直して三項を削って置ても、自分一己の考えを言えば、実際過失のあった本人に対して過失を証明して七百十九条の責任を帯びさせることは出来ぬとは思いませぬ。この法文のあるときには、まず所有者の過失の有無を問わずに所有者に責任があるということにしても、所有者が無資力であったとか、或は貧乏でその家が抵当に這入って居るというようなことであったならば、所有者と雖も損害を賠償することの出来ぬということもないとも言えないが、しかしながらそういう場合に於て現に大工の過失であるとか、或は占有者即ち借主等の過失であったというようなことが証明せられたならば、その過失というものが実際その原因になるのでありますから、七百十九条に依てそれを証明して被害者が請求をすれば、所有者はその責に任ぜぬでも宜いということになろうと思います。
尾崎三良君
私は少し質問しとうございますが、少し時期が遅たれたかも知れませぬが、既成法典の三百七十五条の第二項に規定してある文は之れにはございませぬが、即ち「堤防ノ破潰ニ因リ投錨若クハ繋纜ノ粗忽ニ因リ」云々ということがありますが、どうも之れにはそういうことが見えぬようでありますが、是は何か御旨意があって御止めになったことと考えまするが、何処か又外の規定でそれは往けるということでありまするか。又は是は必要でないということでありまするか、その辺を伺いたい。それから序に今修正案が出て居りますから、それに付いての意見を述べて置きます。どうも是は専ら所有者に責を帰するという御説のようでありまするが、なるほど所有者は関係の多い者であって責を負う場合が多いでありましょう。しかしながら占有者は全く無責任ということになっては、甚だ又その弊害があるであろうと思う。というものは占有者がその処に住居をして居るという時分には必ずその瑕疵というものは一番早く見付けるに違いない。所有者は却て知らぬというようなことがある。そういう風の場合に於ては占有者が責を負わぬというようなことになると、所有者に対して酷になりはしないか。又今土方君は、それは原則で元と占有者が通知すべきものを通知しなかったが為めに損害が生じたに依て、それは求償権があるという御説でありました。けれども之以て所有者がその責に任ずるということを書いて置けば、決してそういうことにはならぬ。又磯部君は占有者は多く無資力であるから斯う書いて置いた所が効がないというような御説でありましたが、そんなことはありますまいと思います。けれどもどちらかと言えば、所有者の方がまず資力が多いと仮定して何も差支なかろうと思います。で今の御説の通り書いて置ても効はないという御説であって見れば、又一方では書いて置かぬでもその人に過失があれば求償権があるという御旨意の御方と論が矛盾するように思われる。とにかくこの法文に所有者はその責に任ずるということに書いて置けば、占有者はもう責はないということになって仕舞うに違いない。それで私は専ら占有者に負わせるということも如何であろうと思いますが、占有者の負わねばならぬという場合もあろうし、所有者の負わねばならぬ場合もあろうと思いますから、何うかその所は一つ場合に依て責任者が極まるというような風に一つして戴きたいと思うのでありまするが、その所でどんなものでありましょう。私は今の磯部君の修正案のようにして、三項を残して置いたならばそうなりはせぬかと皆思う。「前二項ノ場合ニ於テ他ニ損害ノ原因ニ付キソノ責ニ任スベキ者アルトキハ占有者ハ」と言わずに「所有者ハ」と書いても宜しうございますが、とにかく占有者は全く責任がないということにならぬように、場合に依ては占有者も責任を負い又所有者も負うこともあるようになれば、私はそれが宜かろうと思います。それで第一に既成法典の三百七十五条の第二項を御止めになったのはどういう御旨意であるか、その点を一つ伺いたい。
穂積陳重君
御質問に答えます。是はちょっと先刻も短く申しは致しましたのでありますが、この堤防の破潰云々は土地の工作物という中に這入って居ります。土地の工作物という字はこの処で始めて用いたのではありませぬ。又前にも既に用いましたのであります。建物とか提防とかいうようのものも含ませようと思うて、土地の工作物と書きましたので這入って居る積りであります。それから船や何か繋いだり何かすることが粗忽の為めに他人に損害を加えたような場合は、七百十九条に這入って居ろうと思います。私が船を川端に確っかり繋いで置かなかった。それが為めにその船が流れて行って下の方の船に突き当ってきずを付けたとかいうようなことは、つまり、私の過失に因って他人の権利を害することになりますから、是は除いた積りではないのであります。並の損害、過失より直接に生じまする損害の規則で往きまするのであります。次に尾崎さんの一番仕舞の御説は全く御質問でもありませぬが、今日の案の如くでもやはり占有者が第一ということになって居って、外に過失者があれば本案の第三項の如くにしてあれば往ける。唯間接に往けるというだけが違うだけのことでありますが、所有者と改めると所有者に先きに往って又所有者から外に往けるということになる。とにかく往けることは往ける。立ちました序にちょっと申して置きますが、とにかく直接に過失の原因ある者を責に任じさせるということが、大変実際に便宜と思いましたから、本条の如くにしてありますが、之に反してその所有者と重もな関係があるから、それへ責任を負わせるという議論は、丁度中世以前のネクショラッションとかいうものの根拠が今日出るのであります。即ち、その物というものが責に任じて外の者は責任を免がれるということは、議論の根拠として唯歴史上見たことがあります。その物に関係があるからして、その物の所有者が責に任ずる。それはどうも不法行為というものには直接の何がなくして、その物が責任を持つのである。それ故にその物さえ捨れば人に責任がないのである。動物ならばその動物に帰すれば宜い。瓦が人の頭に当ればその瓦に往きさえすれば宜い、という方のいわゆる放棄の議論の根拠としては聞いて居る。本条の如き便益規定の何としては聞かない。それよりか即ち所有者は何時も資力があるから、それに賠償させるが宜しいということでありますれば、本統の便益の規則と思うのであります。
横田国臣君
今穂積君から御説明がありましたが、私は物に関係を持て居る方にするが宜いというのは、決してそれが償いをする原因よりするという積りのではない。償いの原因は過失があるのが当り前ということは、それは今この処で言わずともそれが原則なのである。この所は唯過失の有無を問はず、占有者にするが宜いか所有者にするが宜いかというからして、それはむしろ所有者にする方が宜いというのであります。それで占有者というものが当に不注意の原因になるかというに、決してそうではないと思います。多くの場合には、即ち所有者の方にある。工作物の設置の如きに至っては、殆ど占有者よりも常に私は所有者の方が多いと思うのでございます。保存という所に於ては、或はそれは気の付かぬこともありましょう。しかしながら、その為めに所有者というものからして占有者に対して償いを求めることは私は出来ると思う。若し占有者に格別の不注意があれば、それでコンナものは道理があるのでも何んでもないが、私はその方が慣習に適するであろうと思うのです。家の屋根が壊われて雨が漏って往けない。それは大屋に言って行く。斯ういうことは通常の小供でもそう思って居ろうと思います。是は一体そう思うて居るということが、即ちこの処の事情に適するのと私は思うのであります。尾崎君の言われるには、この処に所有者とある以上は所有者ばかりが責に任ずることになって余程酷だと言われるが、それは余程酷な解釈で、起草者もそうは解釈せぬと思う。別に償う者があればそれは通常の場合でもそうすると思います。通知をせぬで置いたが為めに壁が落ちてそれが為めに害を破ったと言えば、それは無論占有者を責むることが出来るから、この場合でも責むることの出来るのは当り前である。又唯家が崩れた、それは大工の不始末であったということならば、その大工に向て求めることは無論でありますから、この処で所有者をして損害賠償の責に任じさせると書いて置てもそれは最早確定のもので、所有者のみが負担せねばならぬという解釈は決して出て来ないと思います。その所の御察しを願います。
梅謙次郎君
私は強て反対するのではない。その理由は先刻申上げたようでありますが、諸君は大層ロジックばかりで御論じになるようでありますが、ロジックに適って居るのではない。この通りになっても長谷川君の通りになっても、ロジックに適って居るのではありませぬ。唯便宜法であろうと考えます。どっちにしても、その便利ということに就ては、或は人々見る所が違うかも知れませぬが、私は公平に言えば各々一利一害あると思います。唯私はこの方が一番利益多くして害が尠ないということを認めたのであります。何故私が之が利益多くして害が尠ないと言うか、又今以て之に同意をして居るかその理由をちょっと申上げて置きたい。ロジックに適って居らぬということはどういう訳かというと、私の信ずる所では、この規定の大体の旨意は七百十九条の規定の旨意と異なる所はありませぬが、七百十九条の適用とは見られませぬ。奈何となれば、工作物の設置又は保存に瑕疵があったということで以て直ちに七百十九条にいわゆる故意又は過失であるということはどうしても言えない。自己の所有地内に自己の家屋を設置するに当っては、何も他人の指図を受けるには及ばぬ。勝手に家を建つて宜しい。そうして又その者が勝手に使用して宜しい。若し明文がなければ私は無論そういうことであろうと思います。去りながら、世の中は自分一人で住うて居るのではない。直ぐ隣りに人間が居るのであるから、その処を通行するということも考えなければならぬ。その所で立法論としてはたとい直接に自己の過失に因て他人に損害を生ずるのでなくても、多少過失があるか又は過失がなくても多くの場合に過失があるだろうと想像せらるるような事情のある場合には、やはり責任があると認めてある方が一般の事情に適すると思う。それで斯ういう風の規定が出たのであります。又長谷川君の言われるように、両人共に責任を負うということにしてもそれは同じことであろうと思います。設置の仕方が悪るかったというようなことは、必ずしも所有者の過失であったとか、占有者の過失であったとかいうことは無論申されませぬ。又保存でも同じことであります。是はもう要らぬ家屋と思えば保存しないでも宜い。しかしながら、それに依て他人に損害を加えたならば、この七百二十五条で過失と見で宜しい。黙って居ってはそうはなりませぬが、この七百二十五条の規定あるが為めに、そういうものは過失となる、不法となる。そういうことでありますから、しきりとロジックの詮索は私は余りする必要はないと思います。唯実際上の便利から言って、何故この方が便利であるかと申しますると、諸君がこの場合をしきりと借家人ばかりに御適用になるのは少しく了解に苦しむ。無論それにも適用はあるけれども、その場合にはこの箇条は殆ど変らぬと信ずる。奈何となれば、占有者が借家人であってその借家人に対して損害賠償を請求することが出来るとなって居って、そうして磯部君の言われるように、借家人は貧乏人で一文無しであっても、この場合に於ては借家人なるものが自己に過失がないならば所有者に向てやはり求償が出来る。それはドナタかも仰せになった通りで、賃貸借契約の方から生じて来るのであります。その権利はそういう訳であるから、その者は貧乏人であっても自分が身代限を受けて、それから大屋に請求するとか地主に請求するとかいうことにせぬでも、大屋、地主に請求すれば大屋、地主は出さなければならぬ。出さぬければ家屋をたたき売っても土地を公売に付しても取れるのであります。自分が身代限りまでもして払わぬでも、大屋から取って払えば宜い。是れは間接訴権の作用であって、大屋に対して間接訴権を致しませぬが、つまりこの箇条を占有者とするのと、所有者とするのと、利害の関係の多いというものは他人の所有物を故なく占有して居る者が自分で責を負わなければならぬか、その場合に於てもやはり所有者が責を負わなければならぬか、その場合を最も観察してこの箇条の可否を決しなければならぬと私は思う。殊に先刻土方君の言われたように、日本に於ては自分の家に住うて居る者が多いというならば、尚更ら結構である。それならば穂積君の言われる如く、この七百二十五条に於て占有者と書いてあっても占有者の大多数というものは即ち所有者であるから、それならば何も土方君などが青筋を出して論ぜられる程のことはない。一般の場合から見ると、借家人というものは少ないのであるという御論でありますが、借家人がそれ程少なかろうとは思いませぬが、とにかくこの箇条の可否を決するにはそういう場合を見て決することは出来ぬと思います。重に外の場合を見て決せなければならぬ。さて外の場合に就てどうであるかと言えば、私が田舎に地面を持て居る。その地面が格別収入もないからというので、打っちゃって置く。そうすると何時しか、外の人がその地面に持て往って家などを建った。そうしてそれが為めに他人に損害を加えた。私は殆ど放棄して居って知らないで居る所に、その地面に付いて田舎の人から俄に損害賠償の請求を受けた。それは何事かと言って聞いて見ると、私の打っちゃって置いた田舎の地面の上に他人が家を建てて、その家からして自分が損害を被りましたという。そういう場合に付いて論じたならば、是は占有者の方に責任を負わせるということは知れた話である。しかのみならず、占有者と所有者と何れが人の目に触れ易いか、現に占有を為して居るものであれば別段証拠も何も要らない。之に反して所有者ということになると、まず所有者を証明することは困難であるかどうかということはしばらく措て、とにかく登記簿の写を貰って来てその写に依て是者が現にこの所有者であるということを証明しなければならぬから、中々手数が掛かる。登記法はどういう風に出来るか知らぬけれども、私共の望むような結構なものに出来そうもありませぬから到底完全なものにはなりますまいが、その登記簿の写を得る為めには費用も掛けなければならぬ、手間も掛けなければならぬ。そういうものであるから、占有者は誰であるかということを証明するのと所有者は誰であるかということを証明するのとは大変に相違があろうと思いまする。元々是は理屈に基いた規定ではなく、便利に基いた規定でありますから、占有者の方が宜かろうと考えます。殊に一つ御注意を仰ぎたいのは、先刻尾崎君の言われた如くにこの「占有者」というのが「所有者」となって三項がなくなって仕舞うと、とにかく占有者には無論係れぬということになる。この処の土地の工作物の設置又は保存に瑕疵があるということは直接に七百十九条の故意又は過失という中には這入らぬ。殊にいわんやこの処に持て来て、所有者が責を負うものということに極めて仕舞えば、黙って居れば占有者には責がないということを明かにするようになる。黙って置ても過失がある。占有者は責を負うことになる。それは保存の義務を怠ったのが過失である。知って打っちゃって置いたのが過失である、というような御論は私は採りませぬ。私が解釈するときには決してそういう風には解釈をしないのであります。それでありますから、つまりその辺の利害得失をどうか充分に御考えになってどっちでも宜しうございますから、決して貰いたい。唯この処に占有者とあるというと、大変占有者に気の毒である。或は訴える方の人が大変困ることが多かろうということは、私共は必してそうは信じないのであります。
土方寧君
私はどうも「占有者」というのが「所有者」となる方が実際に於て宜かろうと考えます。穂積君から占有者を所有者とするのは、昔議論のあった所の余程開けない考えが残るもののように御話になりましたけれども、決してそういう訳ではないと思います。唯占有者を所有者にするというのは、その事情の近い方の者に責任を負わせるというのであります。私の考えではどのみち法文の上から見て過失の有無を問わないというのでありますから、そうすれば利害関係の多い方にするのが責任者に取っても迷惑が少ない。又被害者の方に取っても便利という考えであります。占有者でなく所有者を責任者にした所で、若し実際の損害の原因が建築を請負うた所の大工の過失であるとか、又は占有者の方に全く過失があるとかいう場合には、借家人の場合の如きは賃貸借の契約上所有者からして借家人に対して求償権はありましょうし、又大工に対しては建築上の契約関係から求償の権利がありましょう。それで所有者ということにしても、多くの場合には所有者自身が丸で責任を負うて仕舞うということでなくして、更に進んでその過失者に向て求償権を行使することが出来るであろう。之を所有者ということにして置けば一般の場合に都合が余程宜かろうと思います。私は何も借家人が尠ないと言ったのではない。日本では西洋などと違って多少資産でもある者は、人の家を借らずに自分で家を建てる。日本でも借家人というものは沢山あるが、多くは貧乏人であるということを申したのであります。それでその借家人は自分の借りて居る家に瑕疵があれば、つまり自分が不利益を被るから、屡々修繕のことを大屋に言う。言うた所が家主は中々それを直して呉れない。私も借家に住うて居りますから経験がありますけれども、屋根の瓦が崩れたから直して呉れと言ってやっても、中々家主は横着であって直さずに打っちゃって置くというようなことがあるのであります。そういう所から終に他人に損害を加えるようなことがないとは申された斯の如き場合に於ては、所有者が責任を帯びるということにして置けば、どうしても所有者の方でも直ぐに直すということになるから、借家人に取っても利益になる。又それが為めに他人に損害を及ぼすことを防ぐことにもなろうと思います。借家人の方には家主の方に通知する義務がある。若し通知しなかったならば家主の方から求償権を行使せらるるから通知する。そうすると家主の方では若し自分が愚図々々して居れば責任があるから早く直すということになる。そうすれば借家人及び一般の人に害を及ぼさぬことになって利益であろうと思う。梅君は、「土地ノ工作物」と広く書いてあるから借家人というものに就て単に論ずるのは間違って居るという御話でありましたが、如何にも御もっともであります。しかしこの処の規定は借家人に最も適用が多かろうと思います。梅君は田舎に地面を持て居った所が自分が知らぬ間に人がその地面の上に家を建てて、他人に損害を加えた場合を例に引かれましたが、どうもそういう場合というものは実に稀であろうと思う。その場合に於ても土地の所有者に責任があるということでは大変な話である。日本の慣習では土地の所有権というものと家の所有権というものとは別になって居る。他人がその土地に家を建てたというような時には、その土地の所有者は一向知らぬ話である。そういう例をこの処で御出しになるのはどうも私には受取れない。それで私の考えでは本条は理屈に基いて出来た規定でないということは御同意でありますが、どのみち過失の有無を問はずに唯占有者であるとか所有者であるとかいう一事を以て責任を定めるというのは変例である。変例であるならば日本の情態に付いて言えば、所有者として置く方が適当であろうと思う。そうして建築請負人に過失があれば、それに対して所有者に求償権があるということは申すまでもないことであります。又占有者に過失があった場合には、それに対して賠償を求むることが出来るようにならなければならぬ。それでつまり、この条に於て占有者であるが為めに責任がある、所有者であるが為めに責任があると特別に極めて置ても、一般の原則に依て過失のあった本人、その本人が責任を免がれるということは何うしても出て来ない。それは証明仕難いでありましょうが、この箇条に依て被害者が占有者に請求しても占有者は無資力で賠償が出来なければ被害者は損害を蒙って甚だ困る。それで原則に依て、その過失のあった本人に請求して往くことが出来なければならぬ。本条があるが為めにその物に関係した人はどんなに過失があっても、それは免除の特権があるというような考えは実に無理な考えであろうと思います。それで私は飽までも「占有者」を「所有者」として第三項がなくなって仕舞っても充分であろうと思います。
横田国臣君
私はもう一言申して置きたいことがある。それは私も、占有者から所有者に往くというように順々になるのならばそれ程の弊害とは思はないが、この第三項で見ると占有者が償うて所有者には不注意はない、所有者は外の人から買うたとか、或はその不注意の原因を尋ねたならば十年とか百年とかいうような前の大工に往たとかいうようなことであったならば、余程の弊害があろうと思うのです。直ちに占有者を訴えて、その占有者は所有者に求むるということになって居れば、手数だけでそれ程の害はない。けれどもが若し占有者が害を加えた物に付いて償うのならば、道理から言うと家が崩れたならば所有者に対して家も償わなければならぬ。何故ならば家を自分が壊したが為めに他人に損害を掛けたというならば、家も壊わしたが悪るいのであるから所有者に対して家も償わなければならぬという論理が出て来る。若しそうでなく占有者が所有者に対して求償が出来るというのならばまだ勘弁が出来るが、それが出来ぬというのならば----それが百年も前に大工が失策したということでその大工に往くというようなことであったならば、余程の害が生ずるであろうと思うのです。
田部芳君
この「占有者」を「所有者」に替えるという案は大分勢いが宜いようでありますが、私はその説には反対であります。どうも諸君の論ぜられる所を聞くと、害の既に起ったときばかりのことを考えて居らるるようでありますが、それも無論考えなければならぬが、しかしながら害を予め防ぐようにすることを考えるのが肝腎と思います。それにはやはり占有者ということにして置た方が宜い。占有者ということにして置けば通知する責任があるから早く通知をするということになって、いわゆる予防法の目的を充分に適しようと考えます。諸君は唯害の起った後の事ばかりを御考えになられるようでありますが、それもなるほど考えなければならぬが、しかしそればかりを考えてはならぬ。あたかも所有者というものの有様と占有者というものの有様を御忘れになったように考えられる。極端を言えば、所有者は外国に行って居るに、それにまで責任を負わせるということになる。しかしその人に責を負わせた所が、遠方に行って居るのであるから仕方がない。やはり私はどうしても占有者の方が宜かろうと思います。唯しかしながら原案もどうであろうと思う点は、この原案の如く、何んでもかでも占有者に責任を負わせるということはどうであろうか。一般の原則としては過失の有無に拘わらず斯ういうことがあったならば則ち占有者に責任があるとしても、若し占有者が害のあるということを知って予防の手段を採ったならば、責任はないという位の制限を付けることが、或は必要ではなかろうかという考えがありますが、しかしながら之をば所有者と御改めになるに付いては、余程御考えにならぬと悪るかろうと思います。
梅謙次郎君
横田さんから仰になった、占有者から所有者に掛れぬということは、私の例に出したような場合で、占有者と所有者と関係がないような場合は、それは所有者に掛かることは出来ますまいが、諸君のしきりに論じて居らるる所の借家人と大屋、地主との関係ならば、それは磯部君の言われた通り賃貸借契約の関係で何時でも往ける。それは設置又は保存に瑕疵がある場合であっても、賃貸借で往きますからそれは大丈夫と考えます。契約を以て義務を負担するという以上は、必ず責任がありますから・・・・・・。
尾崎三良君
先刻私が述べたに就て、そういう訳ではないという御説がありましたが、どうも梅君から述べられた通り、所有者と書いたならば何うしても占有者というものは絶対的に無責任のものとなるに違いない。是は別に証拠を挙げる訳に往きませぬから、諸君のコンモンセンスに任せて置くより外はない。それで借家人はたとい明文があっても容易に出さぬもので、反対に所有者が責任があると書いてあったならば出す気違いはありませぬ。もう一つは、是は所有者論者に御勘考を仰ぎたいのでありますが、所有者も占有者も極くその近辺に居ったならば、それはどちらでも宜しい。けれども之が遠方に居ったときには、却て被害者は迷惑であろうと思う。僅かの裁判に一々所有主を呼出さなければならぬということになっては不都合であろう。是は必ずしも事毎に裁判所に出るというものでもない。まず私は斯ういう迷惑を蒙ったからその損害を賠償して呉れということを必ず談ずるに違いない。その談ずる人が遠方に居るというようなときには甚だ不便である。それ故に第一に占有者に責があるということにして置けば、便利上から言えば便利である。それで若し占有者が自分の尽すべきことを充分に尽して居るのに所有者が怠ったというような場合には、それは所有者に求償をする権利もあれば借賃を減ずるという便利もある。かたがた占有者に責を負わせて置て、この第三項に依て求償権を妨げたということになって居ればそれで何も差支はなかろうと思いますから、私は先刻或場合に於ては占有者が責に任じ、又時としては所有者が責に任ずるということにしたいという説を申しましたけれども、この通りにして置いた所がその通りになろうと思いますから、むしろ原案を賛成致します。
磯部四郎君
先程からしてつまり、この占有者という文字を所有者に改めると不都合であるという点を段々述べられましたが、則ち穂積君からして、之を所有者とするというとローマ法のいわゆるアバール、古臭い所の説をこの処に持出すようで甚だ十九世紀の・・・・・・。
穂積陳重君
私はそう言うたのではない。それは横田君の言われた物との関係に就て申したのであって、何も・・・・・。
磯部四郎君
宜しうございます。それはそれで置きましょう。それから二番目に勢力のある議論は田部君の御説であって、つまり占有者をして通知せしめる義務を負わせてあるから宜い。占有者が早くに通知をすれば害を未然に防ぐことが出来る。害を予防するのが最も立法の宜しきを得て居るのであって、立法者の注意すべきことである。それをお前達は即ち所有者とするというのは、害が既に生じた場合ばかりを見て居る話で、つまり立法の精神を解しない。甚だ見る所が浅薄である。斯ういう御説でありますが、是は如何にも御もっともの御説のように考えられる。けれども私の考えにしますると、どうも害を未然に防ぐという事柄は、即ちその人の地位から考えて見ると、中々家を借りたり何かするようなものは雨漏りのするような所があっても黙って居るような者も随分ある。若し又田部君のような御説にすると修繕する権利並に義務というものも、何もかも占有者に持たせて仕舞わなければならぬ。いわゆる小修繕はもちろんの話、大修繕に至るまで一切占有者が持つということになる。所が賃貸借の方に於ては、特別の契約のない場合は唯通知するだけに止まって居る。大屋の奴が修繕をしなければ自分自らが修繕をして家賃で差引くことが出来るかというと、事務管理とかいうやかましい期規則が出て「現ニ受ケタル利益」ということだけで、その家が焼けて仕舞うたときには一文も取れないというような誠に薄弱なる権利しか与えではない。それであるから借主が自ら立替えて修繕をすることが出来ぬということになる。ここに於て田部君の御論は表から見ますると如何にも敬服仕りますけれども、裏口は丸明きになって居って、唯表向きだけ見張って居った所がそれで以て立法の宜しきを得て居るというものではなかろうと考えます。そうしますると田部君の御議論というものは殆ど価値のない御議論になって仕舞わうと思います。次に尾崎さんの御論で、占有者は損害の生ずる原因を発見するに最も近い地位に居るものであるから占有者に係る方が便利でもあり又その方が宜しいという御論でありましたが、それは尾崎さんは御自分で貸家などを持て居らるるから、所有者の御心得を以て仰せられる御論であろうと想像致します。又所有者が離れて居ったときに不便ではないかということは、それは不動産に付いての迅速裁判主義、即ち不動産に関する全体の裁判主義から御改めになった後でなければその言は吐けない。又相談をするという一点から言うと、家の借主などという者はどっちかと言えば貧乏人が多いのでありますから、損害要償でも訴えられるような場合には竈一つ担いで何処に奔って行くかも知れぬ。それでありますから相談をするに就て便利であるという一点からいうと、むしろ所有者と相談をすることは難くはなかろうけれども、借主などと相談をするということは余程困難ではなかろうか知らぬと考えます。借主の中には家賃も払わずに夜逃げをするというような輩も沢山あるのでございますから、到底被害者がそれに向て相談をするようなことは出来ぬ話であろうと思います。上等社会の者ならば兎も角も、下等社会の人間で人の家を借りて住居をして居るというような貧乏人などは中々そういう訳には参りませぬのです。いわゆる折角相手取る被告人の居所が分らぬというようなことが、実際に於て多くあろうと思いますからして、能くそれ等のことを御考えになったならば、是はどうしても所有者とならなければならぬものではあるまいか知らぬと考えます。斯う考えまするというと、原案維持者及び賛成者の御議論というものは誠に薄弱になろうと考えますから、どうかもう私は何も申しませぬでありますからこの辺で採決を願います。
元田肇君
私は段々御議論も承りまして迷いましたが、両方の御方の御論じになる所を私が承りますと随分極端の御論のように考えられます。この条は便利に基いて出来て居るということは私共の望む所でありますが、今日借家人から幾度催促をしても修繕をして呉れぬということが通常の話であります。又借主の方でもどうせ借りた家だからどうなっても構わぬというて、乱暴を働いて居るということも通常の話であります。それ故にちょっと伺いますが、むしろ之を「工作物ノ占有者又ハ所有者」ということに二つ書いて、後との方もやはり「占有者又ハ所有者」として置て、そうしてその求償権は占有者又は所有者にあるということに双方を言ったならば、両方の御方の言われる所を皆集めるということになって宜かろうと思いますが、そうは参られぬものでありましょうか。若し参られるものならば、そういうことに改めて御貰い申したい。又参られぬということならば修正案よりは原案の方が宜かろうと思います。
尾崎三良君
私はもう長くは申しませぬが、借家人を責めるからどうとか斯うとかいうような御話が磯部君からありましたが、それは御笑談だろうと思いますが、裁判管轄の事に就て堂々たる弁護士から御説が出ましたが、能く考えて見ますると、なるほど不動産の所有権の争とか何んとかいうものになれば必ずその所在地の管轄になるでありましょうが、単に損害倍賞のことであれば是はやはり本人の所に行かねばなるまいと私は思う。それは今この処には段々経験のある賢明なる裁判官も沢山居られますから、私共が言うにも及ばぬ話でありますが、それは事実上この処で御極めになって差支ないことであろうと私は思う。それから借家人というものは何もないものであるという御説でありましたが、なるほど裏店などに住居をして居る者はそういう者もありましょう。けれどもそんなものは敷金を取って置く、敷金も何もなしに家を貸しやせぬ。それだから借家人が責を負うべき場合ならば、その敷金から差引くに違いない。そんなことは決して心配はあるまいと思います。磯部君はつまり百の中一つか二つある位の例を以て来て、自分の修正説の根低とせられるのは甚だ磯部君にも似合はぬと思う。それで私は段々折衷説も考えましたけれども、段々反対の御説も聞くと聞けば聞く程悪くなるに依て、むしろ原案の方が宜かろうという考えになったのであります。
穂積陳重君
元田君の御問いだけに御答えを致して置きます。元田君の御尋ねは「工作物ノ占有者又ハ所有者」ということに出来ぬものかという御尋ねでありましたが、それは本条は元と大基礎は過失に依て居りまするが、その過失が証明することが出来なかったり何かする場合には、或者に便宜上損害賠償の責を帰せぬと不都合でありますから出来たのであります。その方が宜ければ必ず出来ぬという御答えはよう致しませぬが、唯その「工作物ノ占有者又ハ所有者」と書いて置きますると、どっちかが賠償の責に任ずと書いてあって双方とも同じ責任があるや否やということが能く、唯それだけでは分らぬのであります。元田君の御旨意は多分どっちへでもその被害者の選択に依て係ることが出来る、一人だけに係るようにするのは往けぬ、という御考えであろうと思いますが、そうすれば「生シタルトキハ被害者ノ選択ヲ以テソノ工作物ノ占有者又ハ所有者ニ対シテ損害賠償ノ請求ヲ為スコトヲ得」と書けば宜かろうと思いますが、それも便宜法でそれが宜いか悪るいかは第二の問題であります。けれども執れ双方関係者でありますから出来ぬこともない。つまりどちらに過失があるか過失者を証明することの出来ぬような場合がありますから、斯の如き便宜法を設ける訳でありますが、ただ今のように書きますれば出来ぬこともありますまい。
田部芳君
ちょっと簡単に申して置きますが、先程磯部君から私の議論が大層強いと思われましたか御反駁がありましたが、私は長いことは申しませぬが、磯部君の議論は、つまり占有者と第三者との関係とそれから占有者と所有者との関係を混じた議論であろうと思う。一言で申せばそういうことであろうと思います。それで必ずしも修繕することをしなければ、その目的を達せぬという場合ばかりもない。随分通知をして早くやれば直すこともある。又所有者がそれに対してやらぬければ、つまり所有者が責を負うことになるから所有者は必ずやるに違いない。元来磯部君の議論の根抵というものは先程から伺いますと、つまり貧乏人に対して請求した所が取れぬから何んの効もないというようなことが重な理由のように思はれます。しかしながら、是は決して実行してその目的を達することの出来る金持ばかりに対して設けるというものではない。随分中には実行してその目的を達せられぬという貧乏人もありましょう。けれどもその実行の上で充分の目的を達することが出来る場合も幾らもある。それだから所有者に責任を負わせなければ往かぬ、占有者に負わせるのは往かぬという議論は総て金持ばかりに対して義務を負わせる法律を作らなければならぬということになって、それは理屈に合はぬ所の法律になろうと思います。
富井政章君
この占有者を所有者に改めるという御説は極端な御説でありまして、なるほど一方は占有者に対して酷に過ぎる所がありましょう。又反対にすれば大変に占有者に楽になって所有者に酷になることもありましょう。左らば言ってどちらを撰んでも宜いということになるのは、余り不理屈ではありますまいか。それで斯ういうことになってはどうでありましょうか。ちょっと即座の考えでありますけれども御参考までに申します。私は宜いと堅く信ずるまでには往って居りませぬ。まず原則としては占有者に係るとして置て、田部君の言われたように但書を置て、但占有者がその損害の発生するを予防するに必要の注意を用いたときは係れない、それから次に占有者に係れない場合又は占有者に係っても資力がなくって取れない場合は、所有者に係れるという条文を置て、そうしてやはり三項は必要であるのです。そういう風になれば私は賛成しても宜いかとも思う。
高木豊三君
採決を願います。
議長(箕作麟祥君)
決を採りましょうそれでは磯部君の「占有者」という字を「所有者」にして、三項を削るという説に賛成の諸君は起立を請います。
起立者 少数
議長(箕作麟祥君)
少数
土方寧君
それでは所有者ということに修正が出来ませぬければ、私は富井君の意が大変に宜いと思います。原則は占有者に責任があるということにして、例外で以て占有者が充分の注意をしたときには責任がない。即ち所有者に責任があるということになる。それで占有者と所有者と双方になる。結局は所有者に帰することになる。つまり一方にしては、どのみち酷になるから双方を調和するということになる。今の富井君の御説のようにすると、私の始めから考えて居る所と近くなる。それで文章はまだ能く出来て居らぬようでありますけれども、若し富井君が出されれば賛成しますし、富井君から出されなければ私から出します。
穂積陳重君
今のは双方折衷した修正案でありまして、大層気の利いたような案でありまするがどうでしょうか。「占有者カ損害ノ発生ヲ予防スルニ必要ナル注意ヲ為シタルトキハコノ限ニ在ラス」是はまず宜いとしまして、それから富井君の言われますように占有者が責を負いまするときは自分に過失のある場合、占有者に過失のある場合になお占有者の資産が足らぬとかいうので、地主の方に責を負わせなければ往かぬということになりはしますまいが、どうも第二段の所に往って不都合ではありますまいか。それこそ所有者に対して気の毒のようであります。他人の過失に因て生じたる損害であるに拘わらず、自分が責任を負わなければ往けない。磯部君の言われる通り、占有者は何時でも一文なしというようなことであると甚だ困る。
富井政章君
私は即座の考えであって必ずしも宜いと思うたのではありませぬが、一つは所有者の方に幾分か責任を譲る考えを持て居ったのであります。その方が勝ちそうでありましたから。即ち政略的の考えであったのです。それから一つは所有者を丸で除けて仕舞って、絶対的に占有者とするのも或は場合に依ては片寄り過ぎる所もあるかも知れぬという所を慮ったのであります。つまり被害者保護の精神から来たので、占有者に係っても占有者は充分の注意を加えたということを証明するから取れない、或は取れる権利があっても資力がなくて取れない、というような場合には被害者が堪らぬ。それで被害者保護の方からそういう場合には何処かに賠償者がなくては困るというだけの考えでどうであろうかと言うたのであります。
磯部四郎君
私はこの資力というものに就てはただ今穂積君の言われた通り、家主が借主の損害賠償の資力の保存まで保証人になって居る訳には往くまいと考えます。去りながらつまり、この七百二十五条は過失は執れにかある、けれども直接に何人に過失があるかということを証明するに困難な場合がある、その時の便益からして斯ういう法文が立てられたのであって、実際上必要なことと考えます。何某に過失があるということを訴を起す者の方から証明することは余程困難でございましょうが、訴を受けたる占有者の方からして私は数回斯の如く即ち所有者の方へは告知も致して居ります、然るに所有者の方が怠って居るのでござると言って、己れにそれだけの不注意がなかったということを証明するのは決して難いことではなかろうと考えまます。そうして見るとつまり、この占有者というものは占有の義務に怠りがなかった、占有の義務を尽して居った、ということだけを証明した以上には、即ちこの責任を免かるることが出来ようと思います。又免かれなければ往かぬと思います。何故ならば占有者へ全般の保存する行為まで為すの権利を与えてない。いわゆる所有者の方に通知するだけの義務を与えたのである。決して自ら修繕をしても宜しい、倉の壁が落ちたらそれを塗っても宜しいという権利までは与えてない。所有者をして怠りのないように通知をしろという所の義務が負わせてある。その義務を悉く尽して居るという証拠を挙げるに拘わらず、なお之だけの義務を負わせるという立法の理由は何処からも出て来ないと思います。それでありますから相成るべくは、ただ今議決になりましたように占有者というものを原則にして、但書を加えて「但占有者カ自己ニ保存ノ怠リアラサリシコトヲ証明シタルトキハコノ限ニアラス」として、その時は所有者に係って往けるというように一つ御修正になることを願いたいと思うのであります。
議長(箕作麟祥君)
今の但書の場合は、所有者が責に任ずるというのでありますか。
磯部四郎君
そうです。その意味にして貰いたいのであります。
梅謙次郎君
いよいよ決議になるのならばちょっと伺って置きたいのでありますが、借家人の場合の如きは私はそうなった所がさほど反対ではありませぬけれども、その他の占有者の場合には随分酷ではないかと考えます・・・・。
磯部四郎君
永貸借の場合でありますか。
梅謙次郎君
永貸借の場合であろうともその他の場合であろうとも、占有者が間違って占有して居るのは・・・・・。
磯部四郎君
悪意の占有者でありますか。
梅謙次郎君
悪意でも善意でも、所有者は丸で知らぬで居るに拘わらず責任を負う。先刻土方君は他人の地面の上に家を建ったのはそれは地面は人の地面であるから云々と言われましたが、将来は卒ざ知らず是まで議決になって居る所では、そういうことにはなって居りませぬ。例えば貸借権を持って居るが為めに工作物を建てた場合は格別、けれども権利なしに他人の所有の土地の上に工作物を建てたならばそれは、皆・・・・土地の所有者が責任を負うということになっては随分困りは致しますまいか。
磯部四郎君
その場合だというと、自分が一々所有者の方に通知したという証拠は挙らぬと思います。いわゆる明家でもあって、その所へ自分が住んで居る。そうして社会に向っては立派な所有者面をして居る。そうして黙って---善意でも何んでも宜い。その処に住んで居る先生が、屋根が壊われたから繕うて呉れとか、壁が崩れたから塗り替えて呉れとか、或は木が倒れ掛ったから何か一つ支へ枕でも当てて呉れとかいうようなことを通知することは出来ぬ。そういうときに私は程保存する為めになお占有者として所有者に対して通知すべきだけの事柄は充分致して居りましたという証拠は実際挙りますか。余程私は難しかろうと考えます。そうすれば立証のない話でありますから、従ってこの原則の制裁に依て賠償の責に任じなければならんか知らぬと思います。いわゆる占有主であって所有主が知れないから占有主が、そういう場合には唯通知したという証拠ばかりでない、保存の行為もして居なかったときはどうであるか。保存の行為もして居なかったときは、普通のいわゆる法定名義の占有者というような先生ならば、是は修繕も何もかも一切所有者の如くにしなければならぬという義務があろうと思います。そうすれば所有者と同様の責を負わなければならぬからして、私の今言うのは一々通知するとか何んとかいうことでなく、専ら占有者という文字を替えたいのは借家人というものを元とに取って言うて居ります。借家人以外の占有者に在ってはこの原則だけで充分であろうと思います。けれども借家人に対しては何んとかその責任を軽くしてやらぬと可哀想である。是は決して我田に水を引く訳ではありませぬが、何んとかして置かぬと往けまいと考えます。借家人以外の即ち時効にでも依て所有権を得ようとするような者に向ては、この原則だけで充分であろうと考えます。
梅謙次郎君
工作物の設置に瑕疵があった場合には誰か責任を負わなければならぬ。所が今のようになると所有者が丸で責任を負わなければならぬということになる。その場合と雖も占有者に過失があるということも強ち言えない。さきにどなたか仰った如く請負人に過失があったかもしれぬ、それでありますから今のように書いて、この七百二十五条で間に合わせるということは難しかろうと考える。
磯部四郎君
それならばなお宜かろうと思います。何故ならば設置の瑕疵に付いて所有者に賠償の責を負わせるのが可哀想というのならば、占有者に責を負わせるということは尚更気の毒な話だろうと考えます。何故ならば所有者というものは大抵家でも買うとかいうような時には、建築はどんな塩梅であってこの建築ならば年数はどの位は大丈夫であるというように充分に調べて買う人である。所が一方の借家主はどうであるかと申しますると、或は畳数位は調べも致しましょうが、どうも技師でも連れて行って残らず取調べるというようなことは恐らく普通の占有者にはなかろうと考えます。それで占有者は設置の瑕疵に付いては義務がない。即ち普通の借家人とかいう者には義務がないと言われるであろうと思います。若し工作物の設置に瑕疵あるに依て他人に損害を加えた場合に所有者をして責に任ぜしめるということは酷くはないかという御論になると、私は却て占有者に責を負わせるというと、なお一層占有者に対して気の毒なことになりはしないか知らぬと考えます。つまり是は所有者という関係的から来たものであって、所有者に過失があろうがなかろうがとにかく所有者という関係があるからして、自分が充分に知って居らなければならぬのにそれを知らなかったならば自分が悪るいのであるから責任を負うのか当然の話である。つまり是は便宜法でありますから、過失の程度如何ということになると難しかろうという考えを持ちます。
土方寧君
私は富井君の真の発意だと思って賛成をしたのでありますが、後で聞けば政略であったというような訳で馬鹿を見たようでありますが、或は政略であったかも分りませぬが私は本気であります。実にその意は大変に宜いと思う。若し占有者に責任があった場合に無資力であったという時にはえらいでしょう。私は磯部君の如くに修正して、随分占有者に過失があると見る、若し反証を挙げたならば占有者に責任はない、それで所有者が責任者になるその方は反証を挙げることを許さない。
穂積陳重君
御賛成になりましたのですか。
土方寧君
そうです。
穂積陳重君
そうならば反論する訳ではありませぬが、とにかく通れは能く承はって置かぬと困る。占有者に何時でも保存に就いて、何時でも義務があるということではないのですな。
磯部四郎君
そうです。
穂積陳重君
保存の義務は他の人に当然あるけれども、損害の発生に就て例えば、「但損害ノ発生ヲ防止スルニ必要ナル注意ヲ為シタルトキハコノ限ニ在ラス」損害の発生を止める義務だけを占有者に負わせる。
議長(箕作麟祥君)
「コノ限ニ在ラス」で宜いのでありますか。
磯部四郎君
占有者として尽すべき義務を尽したという証拠が挙った時には、それに向っては賠償の責を免ずというだけの意味であります。それから後は所有者に掛るということになるから宜かろうと思う、斯ういう考えであります。
元田肇君
今頃立つのも変でございますが、所有者に対する方の論者は最初は大変議論をされましたが、今になって見ると足らぬ時に出して貰うのは気の毒だというように余程変って来ましたか、私は先刻穂積君から修正文を言われて誰でも出し人もありませぬが一応決を採って頂きたいと思います。何方の議論も一理ある所がある。独り唯借家人とか或はこの占有のみが注意をするというばかりではいかない。所有者という者も注意するということになって然るべきことと考えます。それから富井君の御考えは、被害者を保護する精神に出たということでありますが、元と便宜上から出たものならば一向差支えなかろうと思う。それで「被害者ノ選ヒニ因リソノ占有者又ハ所有者ニ対シテ損害賠償ノ請求ヲ為スコトヲ得」と書いて置きまして、若し過失であるとか或は自分が少しも怠らなかったという所の反証を挙げることの出来る場合ならば、三項に於て「占有者又ハ所有者ハ之ニ対シテ求償権ヲ行使スルコトヲ得」、斯う修正致しましたならば一応は何処までも責任がある。その責任があるけれども、若し反証を挙げたならば第三項で救うことが出来るということになる。それから被告の居る場所が大変遠いと困るというような御心配もありましたが、なるほどそういうことも随分実際はあろうと思いますが、しかし「被害者ノ選ヒニ因リ」ということになって居ったことならば、それ等の心配も避けることが出来ようと考えます。とにかく「被害者ノ選ヒニ因リソノ占有者又ハ所有者ニ対シテ損害賠償ノ請求ヲ為スコトヲ得」、斯う修正を致したい。それから第三項の方は「占有者又ハ所有者ハ之ニ対シテ求償権ヲ行使スルコトヲ得」というとに修正を願いたいと思います。
穂積陳重君
「選択ヲ以テ」としてはどうでありますか。
元田肇君
それは、文字などは一向構いませぬ。
高木豊三君
ちょっと元田君に御尋ねをしますが、唯そうすると二人が連帯の義務になるのでありますか、半分づつになるのでありますか、又何れか責任があるということになるのでありますか。
元田肇君
半分宛ではない。一人でも皆出さなければならぬ。それで若し他に損害の原因に就いて責任者があって自分が出し過ぎたと思ったならば、即ち三項に依って求償権を行使することが出来る。
高木豊三君
それでは賛成して置きます。
長谷川喬君
私も賛成して置きます。原案よりかその方が宜かろうと思う。磯部君の修正説が倒れた以上は、むしろ元田君の説が宜かろうと考えます。
尾崎三良君
ちょっと私は今の修正説に対して少し質問致しとうございますが、「被害者ノ選択ニ因リ所有者又ハ占有者ニ対シテ損害賠償ヲ請求スルコトヲ得」、斯うなりまするとその責任者が極まらぬ。求償権があるとはいうものの責任者が極まらぬ。つまり先に訴えられた者の不幸になるようなことに見えますが、そうすると一向責任者が極まらぬ。被害者の選択で極まるということになるのでありますか。
元田肇君
もちろんそうであります。
尾崎三良君
私は不賛成であります。
横田国臣君
元田君に伺いますが、何れか選択は行くけれどもが、後で以てその所有者が不注意であれば所有者の方に求める。占有者が不注意であれば占有者の方に求める。それで完全に言えば、原則は今の不注意の者に行くのである。唯訴えるのをどれにても訴えて置いて帰する所は不注意の者に行く・・・・。
元田 肇君
そうなるけれども、実際は資力のない者に・・・・。
梅 謙次郎君
ちょっと伺いますが、そうすると選択で行ったときには、つまり何方か過失者ということに証明が出来ぬと、訴えられた者が損をするということになるのでありますか。
横田国臣君
左様であります。
磯部四郎君
ちょっと私は今のことに就いて申しますが、損害の原因に就いて責に任ずるものが何時でも分るものならば、起草委員が是だけの勢を御取りにならなかったろうと考えます。何故ならば、それだけならば第三項で充分である。実際は誰が損害に就いて責に任ずるか分らぬことが多い。それで損害賠償の責に任ずるものを極めて置かなければならぬというのが、この案のそもそも起った元だろうと考えます。占有者と所有者と合併して責を負うということであれば宜いけれども、一人だけであるとどっちか証明しなければならぬ。その証明の出来ぬ時には、つまり今の訴えられた奴が損をするという話になって、随分之は釣合が合わぬようなことになりはしないかと考えます。そこでこの第三項が、「前二項ノ場合ニ於テ損害賠償ノ責ニ任シタル占有者ハ所有者ニ対シテ求償権ヲ行使スルコトヲ得」ということになれば私は宜かろうか知らんと考えます。唯「占有者又ハ所有者」ということになると、占有者が訴えられた時は所有者に過失があったという証拠を挙げなければならぬ。又所有者が訴えられた時は占有者に過失があったということの証拠を挙げなければならぬ。若しその証拠が挙がらぬ場合に於てはどっちでも訴えられた奴の方が損をして仕舞わなければならぬという結果になる。それで末項の条文は、占有者が相手取られた時には即ち所有者に対して、とにかく求償権を持つというだけの条文に御変えなされたならば、或は完全無欠の法文ともなろうかとも考えますが如何でございましょうか。
元田肇君
それではまず第一項だけを先に御採りになって、彼の所は又別にして採決を願います。
議長(箕作麟祥君)
それでは二つ修正案がありまして、磯部君のと元田君のとは別々に決を採って貰いたいという、元田君から請求がありますから別々に採ります。
土方寧君
私は磯部君のに賛成を致します。
穂積八束君
私は修正説がはっきり分らぬのでありますが、どうかはっきり分るように仰っしゃって頂きたいのであります。
議長(箕作麟祥君)
どちらのでありますか。
穂積八束君
磯部さんの文章を一つ・・・・・。
磯部四郎君
序でに私は末項の条文を、「前二項ノ場合ニ於テ損害賠償ノ責ニ任シタル占有者ハ所有者ニ対シテ求償権ヲ行使スルコトヲ得」ということに改める修正説を提出致します。
梅謙次郎君
ちょっと伺いますが、それでは余程元田さんの御趣意とは違う。元田さんのは責任者の分かって居る場合はそれに対して求償権を行使することが出来る。その責任者の分らぬ時には選択に因ってどちらへでも行けるということで能く分かって居りますが、ただ今の磯部君の御説にすると、たとい占有者に過失のある場合でもやはり所有者に掛って行く・・・・・。
磯部四郎君
それはそういう訳にはいかぬ。
梅謙次郎君
それは何処で分りますか。私の解釈では占有者に過失があってもやはり所有者に対して求償が出来る。しかのみならず例えば工作設置、保存に就いての請負人その他の者に元来責任があるべきような場合でも、やはりそういうものに行かずして所有者の方に行く。斯ういうことになる。それは余程不都合であろうと思います。私は実は今の三つの案の中ならば、むしろ初めのが一番筋が通っておろうと思います。その趣意たるや、むしろ占有者に過失がないという証拠の挙がる時には、所有者が責任を負うということになりますからその方は分る。けれども今の二つは、二つの案に就てはなるほど便宜法に違いありませぬが、是は丸で運不運でどっちが訴えられるか、訴えられた方が損をするとか或は占有者の過失の有無を問わずとか、所有者の過失の有無を問はずとかいうことになる。そういうことであるならば、さっき潰れた案を又形を変えて御出しになったようなものであります。
富井政章君
私は磯部君のを誤解して居った。第一項に但書でも附加えて、占有者が予防に注意したということを証明すればこの限りに在らずとか何んとか云う。それから又一項でも置いて占有者に掛かれない、占有者に過失のないという証拠でも分った場合には所有者に掛かるということにして、それから「前二項ノ規定ハ竹本ノ裁植」というようなことに書かるでありましょう。そうすれば第三項というものは別条にでもして、「前条ノ場合ニ於テ」とでもしたら宜いか。そうすれば前の三ヶ条共に適用を致して、そうして「占有者ハ所有者ニ対シテ」というと狭ま過ぎはしますまいか。
磯部四郎君
そうなれば大変結搆なのであります。元田君の修正案が大変勢力を持ちますから、ちょっと政略上から言ったのであります。
富井政章君
その案ならば大変筋が通って面白いと思う。
議長(箕作麟祥君)
それでは決を採ります。元田君の説が一番原案に遠いように思いますから、それから先きに決を採ります。元田君の説に賛成の方は起立を請います。
起立者 少数
議長(箕作麟祥君)
少数であります。
元田肇君
磯部君のをもう一つ・・・・・。
議長(箕作麟祥君)
磯部君のは読むことは出来ないのですか。
磯部四郎君
私は意味だけ申上げますが、この七百二十五条第一項の本文はこの通りにして置きまして、そうして占有者にして己れには占有者として負担して居る所の義務の怠りかなかったという証拠が挙った場合には、その人が責に任ずるかというと所有者がその責に任ずる。それから所有者というものが自分で以て責に任じなくても宜い。他に損害の原因に就て責に任ずる者がある時には、その処へ掛って行くことが出来るということになったら宜かろう。斯ういう趣意なのであります。
横田国臣君
それで宜かろう。
議長(箕作麟祥君)
それでは趣意が分ったならば決を採ります。磯部君の説に賛成の方は起立を請います。
起立者 多数。
議長(箕作麟祥君)
多数であります。それでは文章は御苦労ながら起草委員にこの次までに御願い申すことにして、先に行きます。
〔書記朗讀〕
第七百二十六条 動物ノ占有者ハ其動物カ他人ニ加ヘタル損害ヲ賠償スル責ニ任ス
但動物ノ性質ニ従ヒ相当ノ注意ヲ以テ其保管ヲ為シタルトキハコノ限ニ在ラス
占有者ニ代ハリテ動物ヲ保管スル者モ亦前項ノ責ニ任ス
(参照)財三七四、フランス民法一三八五、オーストリア民法一三二〇、オランダ民法一四〇四、イタリア民法一一五四、ポルトガル民法二三九四、スイス債務法六五、モンテネグロ財産法五八二、スペイン民法一九〇五、ベルギー民法草案一一三五、ドイツ民法第一草案七三四、同第二草案七五六、プロイセン一般ラント法一部六章七〇乃至七八、ザクセン民法一五六〇乃至一五六四、バイエルン民法草案九八四、九四九、イギリス Cox v. Burbidge, 13 com. B. N. S. 430. R. v. Huggins, 2 Ld. Raym. 1583. Baldwin v. Casella, L. R. 7 Ex. 325. 28 & 29 vict. c. 60. s. 1.
穂積陳重君
本条もやはり前条に等しく、その基きまする所は過失でありまする。しかしながらやはり前条の場合の如く、どうも動物の所有者とか動物の占有者とかいう者が自分で為すものでもありませぬからして、屡々証明の困難又は争い等の生ずることもありますし、それのみならず動物が他人に害を加えるということは屡々あることでありますからして、それ故に殊更に明文も要するという理由もあるのであります。動物に関する特別の箇条というものは、殆ど各国の規定に漏れなくあるようでございます。で動物が加えました損害に就きましては、やはり色々に諸国の規定が為って居るようでありますが、その第一種は、動物の所有者又は占有者に過失のあるないに拘わらず誰かに責を帰する、斯ういう主義に規定致してありまする国がフランス初めオランダ、イタリア、スペインそれからザクセンなどがやはりそういう風になって居って、過失の有無には関せぬ、その所有者が責に任ずるということになって居ります。是はやはり一つの便宜規定でありまして、随分一理あることであります。第二種は、専ら保管及び監督に関する責任があるものと見て、保管及び監督に過失があれば責に任ずるという方の恰度反対の規定になって居りまする。その国は例に見ましたのはオーストリア、プロイセンの二ヶ国でありまする。他に言わばやはり責任に基いた折衷主義とでも申すべき規定があります。是はドイツ民法草案だとか、バイエルン、スイス、ポルトガル、モンテネグロ、イギリスもやはりその主義の一つと思いまするが、責任の帰する所を予め極めて置いて、しかしながらその義務を怠らぬとか或は過失がない場合にはその責を免がれることが出来る、即ち過失なきということを自分で証明する、そうして責を免がれるという方になって居ります。証明のことに就いては、イギリスは一つになって居ります。それで第一に、責の帰する所を占有者と致しましたのは、やはり前と同じ主義に依りまして一番その損害を防止するに近い所に居る者で予防致しまするにもその者が一番能く出来るものでありますからして、占有者と致したのであります。既成法典は所有者又は所持者と書いてあります。所持者はもちろん、やはり占有者に代って之を占有するものは悉く含む積りであります。是は所有者の方が宜いか悪るいかということは、なお御考えを願いたいと思います。それから本案に於きましては、随分屡々起りまする所の動物が損害を加えました場合は、第一にその占有者というものに責があるということを本則と致しまして、しかしながらその動物の性質に従い即ち、極く荒い動物、危険の動物でありますれば、それだけの保管の方法を致さなければなりますまいし、又平生は人を害するなどということは決してないというような性質のものでありますれば、自らその注意の程度も違いますから、それ故に動物の性質に従って相当の注意を以て保管をしたという場合には責を免がれることが出来る、斯ういう風に規定したのであります。第二項の規定は、占有者に代って保管致しまする者、是は動物の占有者は極まって居っても、例えばちょっと人の犬を引張って往くとか、ちょっと羊を率いて往くとか、或は馬に乗って出るとか種々のことがありましょう。その場合に現にその動物を使用して居るとか保管して居るとかいう者がありましたならば、その者もやはり責任を負うと言いまする方が、前から損害を予防する義務は誰でも持って居るという主義に適いましょうと思いまして、斯ういう工合に規定致しましたのであります。
土方寧君
本状はやはり占有者で宜かろうと思う。どうも他の条と違って、この場合には動物が他人に害を加えないように注意するのは占有者より仕方があるまいと思いますから之れで宜かろうと思いますが、しかしながら本条の適用に就て伺いたいのは、占有権でなく占有者というと、二項の方の占有者に代って保管する者は占有者でないということになりはしますまいか。占有権というものを正当に有して居る者は、そうでなしに唯占有して居る者との区別がありましょうが、唯広く占有者というて仕舞うと占有者に代って保管するものは、即ち事実占有者でないというような疑いが起る。是は文字の遣い方に就ての疑いであります。もう一つは無論占有者に責任があるということには宜しうございますが、時としては所有者に過失があることがあろうと思う。所有者が癖の悪るい馬なら馬、羊なら羊というものを占有者に知らせぬで貸して居った。所が元来癖の悪るい動物であるから、動もすれば他人に害を加える。そういう場合には所有者の方に実際過失がある。即ち癖の悪るい馬とか羊とかいうものを黙って貸して居ったという過失がある。それを証明したならば、七百十九条の原則に依て所有者に責任があるというようなことに解釈することが出来ようと思います。けれどもしかし、前条で責任者は占有者ということに極まった以上は、やはり占有者だけで所有者は事実知らぬということに解釈されそうで余程疑わしい。私の考えでは、そういう場合には所有者が責任を帯びるということは原則上もちろんと思いますが、どうでありましょうか。もう一つは、この但書の場合であります。「動物ノ性質ニ従ヒ」とありますが、危険の動物、人が飼って居る馬、牛、猫とか犬とかいうものの他に、虎とか獅子とかいうものを物好きに飼って居る。そういう動物は他の物とは違って何れ大変厳重な鉄か何かの箱に入れて置くでありましょう。それも当り前の時には人に害を加えるようなことはありますまいが、時に依てはどうかすると獅子とか虎とかいうような、いわゆる猛獣は暴れて箱を破って出るようなことがある。その時には非常に害を人に及ぼす。なるほどそういうような動物は動物園とか或は見世物などで人に見せる為めに飼って置くのは、場合に依っては公益にもなりましょうが、一私人には殆ど用がない話である。即ち通例人がそういう動物は飼わない。万一の恐れがあるような虎とか獅子とか狼とかいうようなものを伺って居るのは、自分が危険を冒して飼って居るものとしなければ、但書だけは制裁が薄過ぎはしますまいか。この三点を伺います。
穂積陳重君
初めの点は本条がありまする以上は、直ちに被害者からして所有者に行くことは出来ぬと思いますが、しかしながら必ずしも前条と同じく、占有者だけで所有者には行けぬということはないだろうと思います。例えば、その動物が危険なる性質を有して居るものを隠してやりますとか、或は占有者はその動物の性質に従って保管して居ったとか言うような場合でありますれば、無論占有者は損害賠償の責に任せずして所有者が任ずる。即ち前の原則の七百十九条の当りまする場合は随分あり得るものであろうと思います。でこの占有を移しましたとか、前のことは知って居ったが今のことは知らない、その場合には何時でも前のものに及べるということに致しますると大変な細かい難しい規定が出て来まするので、前条と同じ場合に、ドイツ民法草案などに於ては占有者、他人から占有を譲り受けた場合に於てはその譲り受け前一年間に生じた瑕疵に就いてはやはりその責に任ずるとかいうようなことが第二読会の草案に加わって居りますが、やはり本まで遡ると難しいと思いますから、是もやはり一つの便宜規定でありますから、直接の関係を持って居るものに打切るということにするのが宜かろう。必ずそうでなくてはならぬということは申さぬのであります。それから第二の点の危険なる動物、即ち猛獣、それは周囲の有無を問わぬ方が宜くはないか。是は一つの御議論でありまして、随分御承知の通り諸国で猛獣だけを退けてある国もあるのであります。プロイセンでありますとかザクセンでありまするとかバイエルンでありまするとか、イギリスなどでも猛獣に就ては一向過失を証明しなくても宜いということになって居ると、私は解釈して居ります。そういうことを極めてもそれは宜しうございましょう。しかしながらどうも獅子であるとか虎であるとか大蛇であるとか色々なものを持つということ自身が、どうも不法とは言えぬ。唯そういう者を持つに就いては、相当の注意をなさなければいかぬ。自分には少しも過失がない。虎なら虎に相当の檻を造り、獅子には獅子に相当の檻を造ってそれを入れて置いた。所がその虎なら虎獅子なら獅子が暴れ出して他人に怪我をさせたならば、それを償わなければいけぬということにするならば、他の爆発性の物を持って居るとか、或はその他の危険物を持って居るとかいうようなものに就いても、いやしくも他人に損害を及ぼすべき物を所有する者は、如何に過失がなくても如何にその物の性質に従って相当の注意を加えても賠償の責に任ずるということにせないと行けない。独り動物だけに止めるという訳には行けまいと思います。それで猛獣なら猛獣だけに限って置かなければ宜しいと思うて、この通りにして置いたのであります。それから占有者のことは、本案に於ては占有の所に規定がありますので、即ち「自己ノ為メニスル意思ヲ以テ物ヲ所持スル」ということがありまするからして、それ故になるほど如何にもまだ占有権は持って居ない、けれども占有者でないということは本案では言えない積りであります。第二項の場合や何かは、私が自己の為めに馬を飼うて居る、そうして馬丁にその馬を牽いて迎いに来らせるとかいうようなことは私に代って保管させるのであって、そういうのは他人の為めにする意思を以てするのであるから、占有者とはならぬ。通常の所持者の積りであります。
高木豊三君
原案賛成。
菊池武夫君
何だか今の御説明では疑わしいように思いますが、一体猫なら猫というものはふだん穏かな動物であるというのが性質でありましょう。例えば先刻例に御出しになった馬であるとか犬であるとかいうようなものを、どちらかと云えば動物の性質上から言えば、まず危険の少ないものと言える。しかし馬や犬というものも時に依っては随分人に喰い付くようなことがある。そういうものもこの性質という中に這入りますか。
穂積陳重君
ただ今の御問いは、固有の性質かどうかということに帰しまするようでありますが、是は固有の性質の積りではなかったのであります。或は文字が悪るいかも知れぬ。
梅謙次郎君
性質と云えば、固有の性質と特有の性質と両方含むと思うて私は賛成したのでありますが、固有の性質が這入らぬでも実際差支えありますまいか。
土方寧君
なるほど、この占有者という文字は既に規定になった所を見ると之で差支へないようでありますが、この一項は二項との関係に就いては、前の七百二十三条と同じように解釈するのでありますが、この案に依ると、占有者に責任があって所有者には責任がないという解釈になりますが、然るに占有者が一時人に持たせて居る、保管者が別にある、そうすると保管者が責任があるということでありますが、若しその保管者が不適任である、即ちその選任を過ったという時分には、占有者に責任があるということになって、やはり七百二十三条と同じことになるのでありますか。
穂積陳重君
それは同じでなくては行けますまい。自分の馬丁は荒い馬であるけれども、それを御することが出来る。それに私が宜い加減の人に馬を扱わせて置く。そういうような場合には無論責任がある。
土方寧君
それはそれで宜しうございます。七百二十三条などとよく釣合って宜いように思います。是は如何にも便宜法であるけれども、若し所有者に現に過失があって占有者の選択を過ったならば、それはやはり所有者の方に責任があるということにならなければ行かぬと思う。占有者の過失で保管者の選任を過ったならば、占有者が責任を帯びる。しかし所有者の過失で占有者の選任を過っても、やはり占有者が責任を帯びるということであっては、如何に便宜法と云っても論理を貫かぬと思う。何れにしても過失を証明したならば、本人が責任を帯びるということにしなければならぬ。どうも如何に便宜規定だと言っても、余り勝手過ぎるように思う。私は過失を証明した以上は、特別法の範囲外であるという原則を適用して行くという論を執ろうと思いますが、之を書いた御方も又この原案を見る御方もそうでないということである。しかしこの条は二項が一項と相持って両方に責任があるということであれば尚更そうである。動物の性質には固有のものもあるし、特別の場合に第二の性質と見るべきものもあるということでありますが、そういうことならば、「動物ノ種類及ヒ性質ニ従ヒ」となった方が宜かろうと思います。
穂積八束君
私はこの条の適用のことを伺って置くのでありますが、果して之に関係があるかないか私にはよく分りませぬから、それを伺いたい。この条の趣意は、主として今の御説明や何かを伺って見ましても自分が馬を持って居るとか犬を飼って居るとか鶏を飼って居るとかいうような場合を見たようでありますが、実際の場合になりまするというと、彼の猛獣とかいうようなものでなくても或一定の区域を限って、即ち猟区というものを設けてその処に鳥や獣物を飼うようなことがあるのであります。そんなものは日本にないことのように思われるのかも知れませぬが、実際それが為めに損害を受けて困って居る者があるという実例も私共は聞いて知って居ります。この処で申すのも恐れ多いことではありまするが、官内省などの猟区というものがある。その処の鳩などが飛んで来て麦とかその他の穀物を食うが為めに、その近傍の百姓などが困って居る。そんなような場合に於て、その損害賠償というものはこの条に依って訴えられるものでございましょうか。又は他の条に依って行くものでありましょうか。この条に依って見ますると「動物ノ性質ニ従ヒ相当ノ注意ヲ以テソノ保管ヲ為シタルトキハコノ限ニ在ラス」とありますが、今の猟区のような場合などにはやはり相当の注意を用いれば宜いということになるかも知れませぬが、どうもこの動物の性質に従いという中には含まぬということになりはしますまいが、ちょっとその処らのことを伺いたいのであります。
穂積陳重君
この動物の加えました損害に付いては外国でも難しい問題になって居るのでありますが、しかしながら例えば、自分の所有の山林に獅子であるとか虎であるとか或は雉でありまするとか鹿でありまするとかいうものが居る、それでその獅子が畑に出て芋を掘るとかいうような場合には、第一に、平生自分の持って居りまする土地に栖んで居る動物はその土地の所有者の動物であるや否やということを考えて見なければならぬ。特にそれを囲うとか特にそれを繋ぐとか致しまするまではその者の所有物ではなく、いわんやそれを所有する意思を持って自分がそれを現に保管して居るということではない。そうすると占有者でもなし所有者でもない。それ故に当らぬということに向うでも通常なって居るようであります。かかるが故にドイツ民法草案などの第二読会などに於ては特別の規定が設けでありますけれども、随分この特別の規定を設けるというとめったに大きな山林を持つとか何とかいうようなことは出来ないようになって参りまするのであります。それで本案の意味は、このことに就いて吾々は詳しくは相談を致して居りませぬが、斯の如き場合に於ては前に申しましたような事実があるまでは、その土地に栖んで居る、或はその土地の本に常に巣って居りまする鳥とかいうようなものはその人の占有物ということは出来ぬ、即ちそれには当らぬという積りである。多くは今御述べになったように、馬に乗って往く、そうすると非常な不注意であったが為めにその馬が子供を踏倒したとか、或は猟犬を率いて往った、そうして自分の不注意で以て畑の中を無暗に走り廻らしたとかいうような、そういうような場合を見たものであります。
穂積八束君
今私の尋ねましたる所と御答えと少し往違って居るように思いますから、なお念の為めに伺いますが、今の御話では例えば、私が山を持って居る、そうしてその山に居る動物はいわゆる野栖のものであって、何人も占有権も持たなければ所有権もないということで、それは誠に御もっともでありますが、私は猟区の御話をしたのであります。自分がその処にことさらに種を蒔いて鳥や獣物を繁殖させる。それはどうも唯山に栖んで居る動物とは違うように思うのであります。そこでその繁殖した動物が他人に損害を加えた。その場合はこの中に含まぬことになりはせまいかと思うのでありますが、そうではありませぬか。
穂積陳重君
ただ今隣りから承わりますれば、猟区というものは日本にはないということでありますが、あるとした所がその猟区は所有者が他の者に対して立入ることを禁ずる、だけのものであろうと思います。その猟区に居る所の動物の占有者となり所有者となるとは思わないのであります。それから自分が猟を致してそれを専占する為めにその処へ兎を放してそれを殖す、或は或種類の鳥をその処へ殖すということでも、まだそれはあたかも或川へ魚の卵を放しますると同じようなもので、それに依って占有することは出来ぬ。占有者となる訳にはいかない。あたかも牧場に於て羊を育つるとか或は牛を育つるとかいうようなもので、その目的物が定まってそれを一定に保管するということでなければ、占有者とは言えないと思うのであります。
元田肇君
先刻の御説明中に、動物の癖のあることを隠して知らせずに保管をさせたというような場合に、損害を加えたならば所有者に向って損害賠償を求めることは七百十九条で行かれるという御説明であったかの如く承はりましたが・・・・・・。
梅謙次郎君
それは占有者から所有者に対してでしょう。
元田肇君
それで私は伺うのであります。七百二十五条の法文に依りますると「他ニ損害ノ原因ニ付ソノ責ニ任スベキ者アルトキハ占有者ハ之ニ対シテ求償権ヲ行使スルコトヲ得」ということが書いてあって、始めて往かれるように法文がなって居るのであります。然るにこの法文に於きますると「他ニ損害ノ原因ニ付」云々という明文を待たずして、直ちに七百十九条で行かれるということが質問或は議論の種になるのではなかろうかということを伺いたい。それから文字のことでありますが、「但動物ノ性質及種類」という修正説が出ましたが、「ソノ」という字を御入れになったならば、いわゆる癖まで含むようになりはしまいかと思われまするが、如何でございましょうか。
穂積陳重君
前の七百二十五条の方は、設置又は保存の瑕疵ということが謡うてあるのですな。それが損害の原因になる。それから私が荒い馬を黙って、之は特別に危険なる馬で暴れたり喰付いたり何かする馬であるということを言わぬで、実におとなしい馬であるというて貴方に御預けした。所がその馬が喰付いた。そういう場合に於ては、荒い馬というその性質が損害の原因ということでもない。又私が貴方に御預けしたということが損害の原因でもない。その損害の原因というものは即ちその馬が暴れたとか喰付いたとかいうことが原因でありまするから、それ故に前から原因が来て居るという場合とは違うのでであります。損害が発生ずる時に原因が来るのであります。それ故に前と同一の文章に書かなかったのであります。それから「ソノ」という字はもう少し考えさせて貰いましょう。
議長(箕作麟詳君)
他に御発議がなければ確定して、もう一箇条先に行って見ましょう。
〔書記朗讀〕
第七百二十七条 数人ガ共同ノ不法行為ニ因リテ他人ニ損害ヲ加ヘタルトキハ各自連帯ニテ其賠償ノ責ニ任ス共同行為者中ノ執レカ其損害ヲ加ヘラルカヲ知ルコト能ハサルトキ亦同シ
教唆者及幇助者ハ之ヲ共同行為ト看倣ス
(参照)財三七八、オーストリア民法一三〇一、一三〇二、イタリア民法一一五六、ポルトガル民法二三七二、スイス債務法六〇、モンテネグロ財産法五七二、五七三、ドイツ民法第一草案七一四同第二草案五七五三、プロイセン一般ラント法一部六章二九乃至三二、ザクセン民法七七七、七七八、一四九五、一五〇〇、バイエルン民法草案二編六九、イギリス Mitchell v. Tarbutt, 5. T. R. 649. Patrie v. Lamont, Car & M. 96. Mereweather v. Nixan, 8 T. R. 186.
穂積陳重君
本条は是までの箇条とは少し性質が違いまして、或場合に於ける不法行為より生ずる債務の性質を定めましたものであります。即ち財産編三百七十八条に当りまする。元とこの共同不法行為、数人の行為よりして権利侵害の事実が生じた、斯ういう場合に於きましては、たといその不法行為を為しました者が数人ありましても、その行為は一つである。行為が一つでありまする以上は、その人の多い少ないに拘はりませず、是に生ずる債務というものもやはり一つでなけらねば行かぬ。しかし唯その責任者が多いと一つの連帯がありまする故に、その債務というものがどういうものであるか、その債務の程度及び性質というものはどういうものであるかということを定めなければならぬようになって参ります。元より数人の共同不法行為に就いて、損害の郁分を知るとか権利侵害の部分を知るとかいうことが出来ますれば、特別不法行為でありましても別に箇条は要らずして権利侵害に対して一人々々訴えるということも出来ましょう。既成法典はこの場合を二つに分けて居ります。各自の過失又は懈怠の部分を知る能わざる時は各自全部義務である。それから共謀の場合でありますれば連帯義務である。斯う致しでありまする。是はボアソナード氏の一看初めの草案にはないようでありますが、後の改ったものと見えまするが、藍この区別を致しましたのは、連帯義務というものは代理関係が存するという考えからしてこの区別を後にしたのではないかと察せられまする。数人の間には共謀がなければどうしても代理ということが出来ぬ。共謀があれば不法行為に代理があるかそれは分りませぬが、とにかく代理を推定して連帯債務というものにしたのではないかと思います。連帯の方に就いては、その代理の推定があるからというようなことが書いてあります。本案では全部義務というものは別に設けてありませぬ。且つ代理の推定に依るという主義も明かに採用は致して居らない。又数項独立の義務が合うのであるかと云えばそうでない。即ち一つの義務に就いての請求法に就いては通常の義務と異ったものである。普通の請求法又は弁済を致しました後の相互いの求償権などのことが規定致してありまするからして、互いに共謀があったとかそういうようなことを有無を論ずる必要は本案に於ではないようになって居るのであります。若しこの通常の義務と異って居りまして、而してその債務というものがたった一つであると致しますれば、前の連帯債務の規定に因るのが一番双方の便利であります。訴えられる方の便利ということはないかも知れませぬ。けれどもしかしながら一つの行為に付きまして、各々働きましたる部分というものは違いまするけれども、皆の行為が重なって権利侵害の事実が生じたものでありますから、それ故にどの人でもやはり不法行為を為して、そうして不法行為に就いて損害を生ぜしめたものである。その幾分をやったものであるということは出来ぬのでありまするから、何れに掛って請求しても又は順次に請求しても宜しいと斯うするのが一番便利であろうと思います。是に就いて請求権はないと規定致してある国もありまするし、又はスイス、モンテネグロの如き国では相互いの間に求償権はない、しかし事情に依て判事が求償を命ずることが出来る。とにかく皆が同じように悪るいのでありまするからして、それ故にこの連帯債務の規定をそのままに当嵌めて差支えはないように思います。諸国の例も連帯債務に就いてはこの処に挙げてあるのは一つも例外はありませぬ。求償権のことに就いて幾らか国に依って違うだけのことであります。イギリスに於きましても、この連帯債務とその帰着する所は殆ど同じう致して居ります。それ故にこの場合に於てはやはり単に連帯ということで宜かろうと思います。で斯の如く規定致しました。それからこの「共同行為者中ノ執レカ其損害ヲ加エタルカヲ知ルコト能ハサルトキ」即ち大勢が寄ってたかって人を打つ、しかし誰の手が当ったのか誰の拳が当ったのか分らぬというような場合に於て、若しその加害者というものを差示す、直接に害を加えた者だけを差示す、ということを要するとなりますれば、多くの場合に於て大勢が乱暴を働いたとかいう、そんな場合には実際その証明が難しくして害を受けました者はそれだけの損をしなければならぬ。その場合に於ては法律の保護はないということになります。それ故に公益上からして、斯の如く規定するのが相当であろうと考えます。それから理由もないことではないのでありまする。即ち大勢が寄って或行為を為した、一人々々ならしないかも知らぬ、大勢の行為でやはり或事をするのでありますからして、直接に手を下したと下さぬとに拘らずやはり勢いを出して、その事に就いては何処までも法律に違うて居る結果を生すべき事柄、それを覚悟して自分がしたのでありますから、やはり斯う致して置きまして、全く純然たる道理も立たぬこともない。しかし主として公益上からして斯の如き規定を置いたのであります。第三項の教唆者及幇助者ということでありますが、之は唯独立のものと見倣すことも出来る。又明文がありませなんだならば、独立のものとなるかも分らぬ。しかし幇助したということが直接の原因、損害の原因と言えないというような疑いも起り得るのであります。又は教唆したというような風のこともそういうことがあるかも知れぬ。それ故にやはり是も責任があるということを言わなければいかぬ。多くの場合に教唆者、幇助者共に責任がないということにはなりますまい。本文がなくても、しかし共同行為者で連帯債務者になるかということに就いては、多分明文がなかったならば連帯債務者とならぬという解釈が立ちは致しますまいが、とにかく結果が一つである、その行為の目的それから往き道の筋というものも一つでありまするから、それ故に連帯債務者と致すのが一番当然のことであるじゃろうと思います。でやはり是も共同不法行為の一人と見做ということに致したのであります。
横田国臣君
この条に就ては随分質問もごさいますが、如何でありますか。ずっと御遺りになりますか。
議長(箕作麟詳君)
長い御質問或は御議論等が沢山出るようならば、今晩は是で散会致します。