明治民法(明治29・31年)

法典調査会 民法議事速記録 第120回

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第百二十回法典調査会議事速記録
出席員
箕作麟祥 君
本野一郎 君
土方 寧 君
村田 保 君
田部 芳 君
高木豊三 君
穂積八束 君
奥田義人 君
井上正一 君
都筑馨六 君
穂積陳重 君
富井政章 君
梅謙次郎 君
横田国臣 君
長谷川喬 君
中村元嘉 君
議長(箕作麟祥君)
それでは会議を開きます。
穂積陳重君
七百二十一条の但書の文章に付いて、長谷川君並に都筑君の御論と二つ出ました。それで我々はその御意見に付いて観察を下しましたが、都筑君の御注意はただ「過失ニ由リテ一時心神喪失ノ状況ニ陥リタル」というと余り心神喪失の状況の原因が広過ぎはしないか、やはり「酒類薬品又ハ之ニ類スル作用ニ由リ」ということにしては如何であろうかということでありました。それは一番初めに私共もそういう工合に書いて見ましたが、例の睡眠術の様なことでありましても、若し過失あり或は故意にそういうことをして、それで心神喪失の状況に陥って、それよりして大変損害を生じたというならばまず払っても宜かろうという考えで、実際上は格別適用のないことでございましょう。しかし払った所が一向差支ないことであると思いますから、それ故に是はやはり本案の如くまず広い方に致して置いても宜かろうという考えであります。今一つは「故意又ハ過失ニ由リテ酒類或ハ其他ノ方法ヲ用ヒテ」云々などと書くのは甚だ書き方の難義ということも一の理由であったので、それ故この但書を「故意又ハ過失ニ由リテ一時ノ心身喪失ヲ招キタルトキハ」としたら這入りますまいか。自ら知って酒を飲むという場合、たとい実際過失ということに言われなくても、斯の如き原因は自ら引起したという場合が嵌ります。この前御引きになりました故意でもない又過失でもないという場合は、まだ是れでは包含しないようでありますが、そういう疑いは含まなくて宜かろう。「故意又ハ過失ニ由リテ一時ノ心神喪失ヲ招キタルトキハコノ限ニ在ラス」としたら別に不都合は生じますまいと思います。まず斯の如く改めるということを原案として出します。
議長(箕作麟祥君)
ただ今のは原案ということでありますが、それで御異論がなければただ今のを原案とします。別に御異論がなければただ今穂積君から提出されました案は確定しまして、第七百二十二条に掛ります。
〔書記朗讀〕
第七百二十二条 前二条ノ規定ニ依リ無能力者ニ責任ナキ場合ニ於テ之ヲ監督スヘキ法定ノ義務アル者ハ其無能力者カ第三者ニ加ヘタル損害ヲ賠償スル責ニ任ス侭監督義務者カ其義務ヲ怠ラサリシコトヲ証明シタルトキハコノ限ニ在ラス
監督義務者ニ代ハリテ無能力者ヲ監督スル者モ亦前項ノ責ニ任ス
(参照)財三七一、三七二、フランス民法一三八四、オーストリア民法一三〇九、オランダ民法一四〇三、イタリア民法一一五三、ポルトガル民法二三七七、二三七九、スイス債務法六一、モンテネグロ財産法五七五、スペイン民法一九〇三、ベルギー民法草案一一三〇、一一三一、一一三三、ドイツ民法第一草案七一〇、同第二草案七五五、ザクセン民法七七九、バイエルン民法草案二編六二乃至六五
穂積陳重君
本条は財産編三百七十一条及び三百七十二条に修正を加えたものであります。既成法典は三百七十一条に原則を掲げまして、「何人ヲ問ハス自己ノ所為又ハ懈怠ヨリ生ズル損害ニ付キ其責ニ任スルノモナラス尚ホ自己ノ威権ノ下ニ在ル者ノ所為又ハ懈怠及ビ自己ニ属スル物ヨリ生ズル損害ニ付キ下ノ区別ニ従ヒテ其責ニ任ス」という原則を掲げてございます。本案はこの主義は取らない。それからこの場合に於きましても、やはり自分の過失がある。即ち七百十九条の故意又は過失に因りとございます主義、即ち過失主義というものが他人の過失の責に任ずるのではありませずして、やはり己が監督の義務を怠る時分に責があるという主義でありますから、三百七十一条の他人の所為又は懈怠に因りて責に任ずるという主義ではないのであります。その是れは近世諸国の立法例に於きましても多くそう説いて居りますので、己の威権の下に在り又権力の下に在る者のしたそれは、監督者が責任の元ではない、その故意又は懈怠というものを生ぜしめたのがその責任の元であるということになって居るようでありますが、それはもとより当然のことでありまして、ローマ法その他古代の法に於きまして、殆ど自分の威権の下にある家族でありますとか或は後見人が監督して居ります者とか、つまりその人の人格という者の中に埋没されて居りますような所の考えで出来て居ります所の法律では、斯の如き家族の不法行為は自分の所有物より生じたる損害或は自分の飼養して居る動物に付いて責任を負う。やはり自分がその責に任じなければならぬというようになって居るようであります。本案は第一項に自己の不法行為即ち過失に本づくものとしました。それ故に但書を加えましてその義務を怠らぬという証明があれば、その責任はないということにしました。是れが既成法典と異なります。次に既成法典は三百七十二条に於てこの威権の下にあるというものを列記しまして、面てその責任者を列記しました。本案は責任者は列記しませぬで、単に「法定ノ義務アル者」と概括的に之を規定しました。例えば父権を行う尊属親とか後見人とか、瘋癲白痴者を看守する者とか、教師、師匠とかそういう監督者の義務というものは自ら親属編に規定が出て来ます、又はその他の特別法から出て来ますから、親族編又は他の特別法からこの法定の義務ある者はその責任を負わなければならぬということを一般にこの処に規定したのであります。それから契約に因りて監督の義務を生じます者は殊更に規定する必要を見ませぬ。自分から己れを監督して呉れと言って頼みました。それはその被監督者と監督者との間の関係に止まるのでありまして、被監督者の不法行為に付いて他人に損害を賠償します者に責任の行為があります。又約定義務者にして親から頼まれた、後見人から頼まれた、という場合は約定義務者として、即ちこの法定義務者に代るのでありまして、本条第二項にこの規定が丁度当るのであります。その場合だけは第二項の方でやはり責任を負うということにしました。この責任の例外を既成法典は「防止スル能ハサリシコトヲ証スルトキハ其責ニ任セス」、斯ういう例外を設けてあります。フランス、オランダ、イタリア、ベルギー、バイエルンなどはやはり同じような例外を設けてありますが、この損害の所為を防止することが出来ぬか出来なんだかということは、実際上甚だこの問題が生じました時に之を決するに苦しむので、種々の困難な疑が生じますのでありますからして、それ故に却て他の国、即ちスイスとかスペインとかドイツとかポルトガルとかモンテネグロ等の規定の仕方に従いまして、その監督の義務を怠って居らなかったということを証明しましたならば、その義務を免がれると斯う書きました方が、却て穏かで監督の義務を怠って居るか居らぬかということは種々の事実に依て分る。その事柄を防止することが出来たか否やということは、今少し注意すれば防止することが出来た、或は前からそれだけの注意が立て居るとか立て居らぬときは、事柄に付いてどれだけの防止することをしたのやら、しないのやらということは甚だ難しい。一般の状況から是だけでは義務の怠りがあったとかないとかいうことで、責任の有無を定むるのが穏当であろうと信じます。
横田国臣君
この本条の幼者やら何やらに付いて、賠償の方法は誠に理論に適して、私は余程理論上に於ては一言もないように関するのであります。しかし実事はどうかと考えると余程疑を生ずる。是までの実際上に付いても非常に頭を悩ましたのであります。その頭を悩ませるというのは、どうも理論上通りには実事がどうしても往き兼ねる。それで理論上で往きますと自分の過失のあることならば償なう、過失のないことならば償なわぬというが、一方を害したということが判然した折は宜いが、そうでない場合は実事上は、大概の場合は、この過失の中に入れて仕舞うことになって居る。それでこの後見人が幼者の為めに責に任ずる場合でも、幼者を責に任じさせると言ってはいかぬから、後見人が責に任ずることになる。それで例えばこの通りの主義にしますと、私はまだ起草者の趣意が能く分りませぬけれども、幼者が損害を加えて若しこの監督者に義務の怠りがあったという場合は、監督者は自腹を切らねばならぬことであろうと思う。例えば煙草の商ないを子供がする。それに印紙を貼り損なうことがあっても、それは実事上罰金を取られる後見人の名前で払うが、その実は幼者の財産から取られる。それは是までの慣習がそうであると思う。しかし之を立てられた起草者の意はそうでなかろうと思う。今後税法などに過って随分背くことがある。そういう場合には監督者という者がその責に任じて幼者の財産から取ることは出来ぬ。自分が自腹を切らなければならぬという、それが果して事実に適するか。山の中で人を鉄砲で打つ、人が山の中に居ることは実は知るべからざることである。山中調べて人が居るか居ないか注意をすれば宜いがそんなことは出来ない。しかし打った場合は過失で賠償を取られて居るのです。又そうせねばこの方らに些つ共過失がないからと言っては、その事情幾分か許さぬのである。理論の方から言えば、私も起草者の通りで異論はないが、しかし実時はどうかというに許さぬ方の側であろうと思う。後見人の如きはこの通りになったならば余程困る場合が出て来はしないかと思う。
穂積陳重君
この幼者と後見人との間に付きまして財産上の責任の帰する所はどちらにどれ位あったら宜いかということは、実際の問題でありましょう。本案に於きましては、七百二十条で未成年者の場合に付いては随分責任が広くなって居ます。それで例えば或る仕事をするとか、財産上の取引をする、煙草商売をする、という位のことは大概の場合は、未成年者自身が負うことになります。それからつまり、煙草税則の罰や何かは不法行為でないから、本条の規定以外でありますから別でありますが、外の不法行為の場合でも大概の場合は未成年者に往ける。未成年者に往けるならば後見人が代って弁償するという様なことはありませぬ。それ故に既に財産上の損失をその未成年者に負わせるものであるならば、直接に往ける積りで、それで本条は御察しの通り十分に説明致しましたが、もちろん監督義務の怠りということがなければいかぬから、自己の過失でありました以上は自分が結局損失を蒙むらなければならぬというのがどうも道理であります。しかし一片の道理計りで実際は困ると言われるか知りませぬが、もう監督義務を怠ったということを証すれば、それだけの責任を負わせるということで実際上の差支はあるまいかと思うのであります。この場合に於て求償権を後見人与え様と思いますれば、七百二十条の規定を大変広くしまして、そうして幼者の責に任すべき責の場合も皆この監督者の方に向って請求するということに悉く致さぬとどうも権衡が出合いませぬかと思います。モンテネグロなどでは裁判所は事情に依って幼者に報酬を命ずることが出来るという特別の何か規定があります。或る場合には監督を怠った為めに自分が損失をするというのは迷惑であるという場合もありましょう。しかし迷惑だからと言っても一度びその義務を負いました以上は、その義務を怠ったならばその責に任ずるというのは当然のことであります。その当然のことは理屈計りだと言われれば閉口をしますが・・・・・・。
横田国臣君
それは道理上では一言もないのであります。後見人は土台義務を負うて居るではないか。自分は幼者をしてそんなことをさせぬ義務を負うて居るではないか。七百二十条もありますが後見人の附いて居る場合も役に立たぬ。日本では三つとか四つとかの幼者に後見人を附けて商売をさせることがあるが、他の場合は是は当らぬ。如何にも過失で人を殺したとか過失で人をどうかした場合はそれではいかぬ。それで後見人が商売のことを監督して損をした折には後見人が払う。儲けた折には幼者が皆取って仕舞うというのは怠ったから損をしたのでありましょうが何か少し緩みが欲しい積であります。
土方寧君
この七百二十二条の規定は既成民法の意味よりは監督すべき義務を負うて居る者の責任が軽くなって居りますが、まだ是れでも重過ぎはしないかという感じがある。横田君の御話の未成年者が監督されて営業して居る場合は、多くはここに請ふ不法行為の場合でないと思う。後見人が代ってするという場合にその結果が善かったら未成年者が取る、悪るかったら未成年者は知らぬというのはこの不法行為の場合ではないと思う。それでこの七百二十二条の一項を見ますと、つまり但書が主であろうと思う。七百十九条の「故意又ハ過失」ということがなければただ損害というだけでは責任がない。そうしてこの七百二十二条は他人の行為に付いてするのである。それから法定義務者の方に過失がある、それが為めに責任があるという議論を取った以上はこの一項の方は言うを待たず。但書があるが為めに証明の責任が変はって来る。若しこの七百二十二条を丸で削って置いて、既成法典に言う様な特別に監督者に厳重の義務を負わすという嫌な法律の規則を定めて、若ししなかったならば七百十九条に依て賠償を求める。しかし未成年者が他人に害を加えても父母後見人が監督の義務を怠らなかったということを証明すれば賠償せぬでも宜いということで、余程軽くなって居るようでありますが、それでも少し重過ぎて少し監督義務者の方に酷ではないかと思いますが、この条で他人の子でも自分の子でも監督して居る者が不法行為をする、その行為に付いて直接過失のあるということは実際ないことであろうと思うから、普段教育が足りなかったというようなことになる。それも著るしきことがあったら直ぐに被害者の方が証明する。あの人は一向構わぬで打捨て置くから悪戯をする、こんな風になったというようなことは却て長い月日に跨って居る間の事情でありますから、被害者の方から証明することはやさしいであろうと思うけれども、後見人の方からは実際私の方では当り前に監督して居りましたということは証明が出来憎い。普通のすることをしなかったという裏の方からは証明が仕易いと思う。それ故に七百十九条の趣意を七百二十二条にもその主義に本づこうというならば、やはり削って置いて被害者の方から証明して賠償を求めることが出来るという方が適当ではないかと思う。殊にこの一項の但書と本文と照し合せて見ますと但書の義務を怠らなかったということを証明することは難しい。怠る怠らぬということは判然しないと思う。本文の方はまず監督者の過失と見る。それから訴えられた、自分は義務を怠らなかった、監督するということに付いて相当の注意を施したということを言うのは少し文字が当らぬと思う。本文では被監督者が害を加えたならば、まずそれを監督者の過失と見るということを言って置いて、但書で義務を怠ったならばというように文字が見える。しかし監督義務者の義務というものは害を加えない様に監督するというのでなくして、ただ相当の注意を加えるということであるならば、少しこの文字が穏かでないように思います。或は監督者は相当の注意を用いてということになったら宜いか知りませぬが、私の考えではこの条は既成民法よりは軽くなって居るように思いますが、なおそれでも不法行為というものは実は監督の出来る性質のものでない。監督に注意をして居ればそういう結果は起らぬというので、その本づく所は長い月日の間教育が足らなかったということである。それは十人並の人のすることを長い間して居らなかったならば証明することは易いだろうが並のことをして居ったならば、それを一々言うことは難しいと思う。被害者に於て証明が困難なるが為めに監督者に賠償を求むることが出来ぬということは万々なかろうと思う。そうすればこの条がなくても七百十九条の適用ばかりで宜しいように思いますが、如何なものでありましょうか。
穂積陳重君
本条をこの処に置きます必要は色々あるのでございます。第一に之を削りますというと未成年者に付いては七百二十条それから心神喪失者に付いては七百二十一条に依て責任が定まる。未成年者若くは心神喪失者に責任があります場合は、もとより本条がありましても後見人には掛らない方が適当である。しかし若し本条がありませぬときにはやはり未成年者にも責任があったが、しかしながら後見人保佐人の如きものにもやはり注意がなかったということにやはり両方に掛れる結果になる。一方の者が責任を負うからと言ってその他の者が責任を免がれることは出来ない。それで心神喪失者にも責任がある、或は未成年者にも責任があるという場合に、やはり監督者に掛れる。之に反して或る人の解釈に依りますれば、現に本たる所の未成年者に責任がある。そうすれば監督者には掛れぬ。斯ういう解釈もやはり出得る。それ故に本条がとにかくありませぬと、斯ういう疑が生ずる。それで本条を削ると困るので本条は補充的の責任になって居る。前の規定に依て責任のある場合は斯ういう責に任ずると書いてあるのでありますから、本条を削って仕舞いますと無能力者に責任があるないということを問いませぬで、他の監督者が義務を怠った場合を問いますので本条より広くなりますので、隻方へ掛れるという利益がないのでありますから、「前二条ノ規定ニ依リ無能力者ニ責任ナキ場合ニ於テ」斯ういう範囲の幅が狭くしてあるのでありますから、之を除いても証明の責任が違うだけで外のことが変らぬということは実質の幅が広くなる・・・・・。今一つは疑を生ずるという事柄があるのでありますから、それ故にここに置いたのであります。義務を怠るということは例えば父母若くは戸主などが監督を怠ったという場合は随分幅が難しいか分らぬ。心神喪失者の監督を怠るというものは説明する事実があるか知りませぬが、是れは利害はどっちとも一概に言えぬと思う。
長谷川喬君
私は本条に付いて意味を伺いたい。第一項にある「法定の義務ある者」というのはまず父母とか後見人であって、既成法典財産編三百七十二条に請う教師、師匠及び工場長というものは含まないのであって、是等は他の規定に譲るというのでありますか。それからもう一つは第二項は「監督義務者ニ代ハリテ無能力者ヲ監督スル者モ亦前項ノ責ニ任ス」というと代って監督する者とそれから普通法定の義務がある監督者と共に責を負うというのでありますか。若し共に負うというならば義務の遅速に依て半分しか負わぬというのでありますか。その方はどうでありますか。
穂積陳重君
第一の法定義務者というのは、親族権或は瘋癲、白痴などは特別法が出来るかも知れませぬが、既成法典にいわゆる後見人看守者その他の者は当然に斯ういう責を負わせるのは不都合と思います。教師、師匠及び工場長とかそん者は法定義務者から託されました時にその義務を負うということになる。是等は第二項に嵌る積りであります。第二の点は義務を負いまする者が、監督義務者に代って居る者がありますときは、その者が責任を負う積りでその者と託しました者と財産上のことは別問題でありますが、直接に監督の任に当ります者が負います考えで、次条以下に付いても直接に損害を生ぜしめた監督者に責を負わしむることに皆なって居りますから、それ故に代って監督しますればその者だけが責を負いますのであります。或は文章が少し分らぬか知りませぬ。代って監督する者あるときは、と書かなければ意味が明かでないか知らぬ。若し悪るければ直しても宜い。
土方寧君
この条を削ると前二条から疑が起るということが一つ。それから今一つは幅が違うということでありますが、幅が違うということは削る削らぬに付いて大変問題が違う。私は削れた方が宜くはないかと思う。解釈上違うというのはどうでも宜いが、幅が違うというのは考え者であります。穂積君の言われるにはこの条は未成年者又は心神喪失の為めに害を与えた者に責任のない場合を限ってある。若しこの条を削って仕舞ったならばその無能力者にも責任がある、又監督者にも責任があるというように両方含むということで、それは正しいことであると思う。又そうなければ差支えると思う。例えば未成年者が害を人に与える。しかしながらその未成年者が稍長じて居って責任を弁識するだけの知能があったものと認定すると共に責任がある。後見人の自己の過失が幾分の原因を為して居るが独り後見人のみでない、未成年者にも弁識の知能があったという場合は隻方に責任がなければならぬ。所がこの条があると未成年者に責任があれば後見人は無責任ということである。そうすると若し未成年者が無責力であるとその責を全うすることは出来ぬ。それであるから穂積君はこの条を削ると幅が違うと言われるが、幅が違う方が宜いと思う。被害者は損害を払って貰おうと思っても払へぬ結果になるかと思う。外に理由があれば兎も角それでなければこの条が狭くしてある方が理屈にも叶って実際差支を生ぜぬと思う。
横田国臣君
ちょっと質問をしますが、この法典で見ますと未成年者が他人に損害を加えた場合に、その行為の責任を弁識するに足るべき知能を有したるときは未成年者が賠償しなければならぬ、それで未成年者という者は大概は財産を持たぬ者がある。例えば私の子供が人に害を加えた場合それは識別をして居れば償なわなければならぬが、償なうと言っても金も何もない。それで親に言うと親が言うには幼者が識別して居るのであるから賠償は出来ぬと言うであろうか。何処かに親が子の過失の責に任ずるということを御書きなさる御積りでありますか。それから今一つはこの但書でありますが、之を除けたならばどうか「其義務ヲ怠ラサリシコトヲ証明シタルトキハコノ限ニ在ラス」とあると却て監督者に証拠の義務を負わせるとかいう色々の問題が出て来て、ただ要らぬ言葉をここに附けただけのことであるから除けた方が宜い。
穂積陳重君
第一の点は、ただ今親族法を我々の方で起草中でありますが、親は子の不法行為に付いて子に特別財産がなくても代って償なうという規定が出来るか出来ないかそれはまだ確かに御答えは致し兼るが、求償権の方に親から求償が出来るという規則が出来るかも知れぬ。積り貧乏人に乱暴されたのと金持に乱暴されたのと被害者に取っては幸不幸があり得るのです。それから第二の証明ということは是れが贅語でありますれば御削りになっても遺憾はありませぬ。序に先刻の土方君の御議論に付いてちょっと質問致しとうございますが、例えば未成年者が暴ばれて他人の家のガラスを打破ったという場合に監督の不行届があった。未成年者もそれは悪いことをしたというその責任のあることも知って居る。斯ういう場合にはその損害をどういう工合にして償なわせるのでありますか。未成年者から償なわせるか監督者から償なわせるか実際上余程難しいと思いますが、その辺はどうでありますか伺います。
土方寧君
今の御問は未成年者にも責任がある、しかし監督義務者にも過失があったというときはどうなるということでありましたが、実際は別に疑いのない問題でありまして、監督者も未成年者も平等に不法行為の責任を負うのである。ただ本条の但書に依て監督者に少しも責任がないということにするのは、結果に於て被害者が損害を蒙むりはしないかという恐れがあるのであります。後見人の場合は未成年者に資産がありましょうが、親の場合に子が財産を持って居るということはまず少ない。そうすれば子が人に害を加えて前七百二十条にいわゆる弁識の知能があった、本人に責任があるべき筈であるが、責任を尽す財産がない。それでは被害者という者は賠償を求むる権利があって名だけあって実がないということになっては困ると思う。それで何しろ第一未成年者本人の行為が直接の原因である。それが責任者であるから、それが資産があったならば賠償しなければならぬ。それからもう一つ立返って見れば、抑々その無能力者即ち未成年者が乱暴をするというのは監督者が義務を怠ったのが原因であるから被害者はそこまでいかなければならぬ。左もないと有名無実になって被害者が大層迷惑をしなければならぬかと思う。之を削ったからと言っても当然そうなるということにはいかぬが、つまり私の考えは未成年者に責任を尽すだけの財産がなかったら被害者は迷惑だから次には監督者にも掛れるということにしたい。それは削り放しでは難しい。
長谷川喬君
なお伺いたい。この文章だけでは「監督義務者ニ代ハリテ無能力者ヲ監督スル者モ亦前項ノ責ニ任ス」というと二人が責に任ずるようであるが、そうすると権衡がどうでありましょうか。自分の代りの監督者を指名するに付いて過ちがあったならば、やはり第三者に対して責を負うということになるのが至当ではありませぬか。本人が指名上の不都合の場合には代理人の為したる行為に付いて本人が責を負うということにならなければならぬかと思う。例えば狂人の後見人の場合に、その後見人が監督を為すに相当の人であったら監督が出来たのに、詰らぬ女を監督者にして置いた為めにその狂人が暴行をしたという場合には、その初めの監督者に責がなければならぬと思う。然るにこの二項あるが為めにその責を負わぬ様になりはしませぬか。
穂積陳重君
御尤であります。監督者は自分に責を有して居るにも拘わらず人に代らせればもちろん相当の監督すべき人が代らなければ自分に責があるのでありますから、それはもちろん平等に責に任ずるという規則になっても或は宜いかも知れませぬ。理屈に於ては宜いか知りませぬが、実際は如何がでありましょうか。或る場合に於きましては、別して父がその子を人に託すというような場合には或る教師とか或る師匠に托して置きますときは、殆どその父母たる者はそれに付いては委せ切りというような場合がある。それでなるほど教師に頼んだという責がある。又は狂人や何かでも極不注意の者がある。その場合には御説の如く元の法定義務者が責を免がれるというのは甚だ不都合であるが、しかし直接に監督をして居る者に責を負わせる方が実際上便利であるという所から、そういう場合には監督義務者に代った者に責を負わせるとして置いた方が宜かろう。私は義務を怠ったけれども是れから生じた損害は頼まれた人の責任になるというのと自分の責任になるというのと余程違いましょうから、それで第二項を独立責任として加えました。文字はなるほど是れでは少し不明でありましょう。今長谷川君の言われましたように、或る場合は法定義務者も責任を負うということに実際が変われば別に修正を出して戴きたい。
梅謙次郎君
ただ今穂積君から御説明になりました点は、この案を定めるときには別段議論の目的になりませぬでありましたから、我々の間では意見を定めて居りませぬ。私はやはり長谷川君の御了解になって居るように考えて居った。それで宜い積りであります。ただ監督者が義務を負うべき場合に頼んだ人がいつもその義務を負うかというに、そうはいきませぬ。例えば親が自分よりも監督の能く出来る人を頼んで居って、それが監督の怠りで悪るいことをしたというような場合には、親はその責任がない。如何となれば親は自分よりも監督の能く出来る人を頼んだのであるから、決して監督の義務を怠ったのではない。しかし長谷川君の仰せの様に自分より監督の下手な者に委せたならば、それは監督を頼んだ者に義務のあるのがもちろんでありますが、義務者が二人あるという訳ではない。初め監督を怠ってそういう者に監督を頼んだというのは一つの監督の怠りである。又頼まれた者はその監督を怠ったという一つの怠りがある。各々独立して義務がある。但し損害があるから責任が生ずるのでありますから、どちらかが損害を償えばそれで宜い。一つの損害に二重の賠償を受くるのではないから、一方が履行をすれば損害という者がなくなる。若し一方が半分だけしか履行をしなければその半分に付いて訴えても少しも構わぬ。そうして両人の間の関係は初め監督を托した時の有様で極まるので、是れは場合に依て色々違うと思う。
長谷川喬君
少し穂積君に御相談でありますが、梅君の様に読めば宜いが、中々梅君の様に解釈するのは難しいと思いますが、如何がでございましょう。是れはもう少し明かにはっきりするようにしたらどうか。
土方寧君
二項はなくても宜かろう。
穂積陳重君
二項がなくては大変困る。
高木豊三君
梅君と穂積君と解釈が違って居るかと思いますが、つまり穂積さんの御説明は本条の第二項は監督義務者に代って無能力者を監督する者が全部の義務を負うという原則に定めたということであるが、梅君の解釈の稍違はうと思う所は若し全部の義務を履行することが出来なかった時には、そうして監督者の選任が悪るければ選任者に掛れるというのは、是れは普通一般の損害を加えた時の原則で往けるので、いわゆる不法行為の監督者の規定の適用ではあるまいと思いますが、どういうものでしょうか。若しそうでなくて二人が平等であるというならば、やはり長谷川君の言うようにならなければならぬと思いますが・・・・・。
穂積陳重君
平等でない独立である。
梅謙次郎君
原則に遡らぬでも宜い。それで適用は同じことになる。
井上正一君
そうすると例えば、父が子を教師に頼んだ、そうすると教師は父に代って監督する。教師に頼むということが監督の義務を怠ったということになるのでありますか。即ちここにある通り監督義務者に代わって監督するということしかない。この義務というものは即ち監督の義務を怠らなかったものということになる。そうすれば父が教師に自分の子供を頼んだということが監督の義務を怠ったということになりましょうか。
梅謙次郎君
監督すべき義務というのは余程広いのであります。この事柄は、範囲は、この父などで言いますれば親権の本体までも含んで居るように私共は読んで居ります。それでありますから監督義務の履行として自分自ら見張ることも出来る人をして見張らしむることも出来る。第二項の方は見張らせるという時の規定で、その人に頼んで見張らせるということは、やはり元の人が監督して居ると言っても宜しい。所で前の人が監督の義務を怠ったか怠らなかったかということは、何に依て定まるかというと父にもしろ後見人にもしろ遠方に住居して居るから十分義務が尽せぬというので相当の注意を有する人を頼んで置いたならば、それは義務を負わない。托する人を誤ったならばそれで義務を負うのである。
井上正一君
なお伺いますが、親族編の方がまだ定まらぬと分りませぬが、この監督する義務というのは法定の義務であろうと思う。そうすると今仰しゃった所の子供を頼むということも監督の義務ということに確かになれば宜いが、私はそれまでにこの義務が当るかどうかと思う・・・・・。
梅謙次郎君
なるほど人事編の監督という方は狭い意味に使ってありますが、親族編ではどうなるか知りませぬが、この処では監督という字が広い意味に使ってある。
土方寧君
私は、この条は監督者に取っては既成法典より余程簡になって居りますが、しかし削って置いて七百二十条の原則だけでも色々問題が起りましょうし、監督者の義務の性質に付いては立法例も色々になって居りましょうが、この七百二十二条の責任の理由は自己の過失にあるということを明かにする為めには置いて置くが宜いか知りませぬが、それにしてはこの文章ではいかぬ。何んとかして置かなければいかぬ。この文章にして置くと先刻申します通りに無能力者に責任があるというときは、監督者の方に過失があった場合でも責任がないということになろうと思う。そうして理屈の上では無能力者に責任があっても資産というときには誠に困ると思う。未成年者に後見人のある場合は多くは財産がありましょうが、親の場合は未成年者が親の監督の下にある者が財産を持って居ることは稀でありましょうから、子は責任はある、親は責任がないと言っても徳義上の制裁がありますから、親が払いましょうが、法律上の議論をすれば親は資産があっても子はないから払わぬということになるか知らぬ。それ故無能力者に責任があると決しても、資力がない場合は監督者に財産があればそれに代って責任を尽すというようなことにしたい。文章は出来ませぬがその考えが宜しければ趣意だけ極めて置いて、文章は後で起草委員に能く御考えを願いたい。
議長(箕作麟祥君)
それは人事編の戸主の所でどうとかするという御考えはなかったのですか。
穂積陳重君
まだそれは分らぬのであります。無能力者を監督します場合で横田君の挙げられた阿父さんの時は如何なる場合でも代って償なわせて宜さそうなものであるが、少し遠い所の親類や後見人に託したような場合はそう広くしたくないのであります。それからただ今の土方君の御説の通りに文章を直そうとすれば「前二条ノ規定ニ依リ」云々というのを「無能力者ヲ監督スヘキ法定ノ義務アル者ハ」と斯う書きますれば、その責任の有無に拘わらず償なうのでありますから、直ぐに御注文通りの文章になりますが、ただ少し広過ぎるという気遣いがある。
議長(箕作麟祥君)
ちょっと文字のことに付いて伺いますが、第二項の終りに「前項ノ責任ニ」とありますが、是れは「無能力者ヲ監督スル者ニモ亦前項ノ規定ヲ適用ス」ということ位ではいかぬのでありますか。
穂積陳重君
初めはそう書いたのであります。その方が宜ければそう致しますが・・・・・。
議長(箕作麟祥君)
是れであると、但書は除けた様に見える恐れはありませぬか。
梅謙次郎君
是れはわざわざ斯うしたので賠償だけならば賠償の責に任ずと書きますが、但書の場合も這入るからそれで前項の責に任ずとしたのです。
横田国臣君
証明という字はどうでしょうか。
梅謙次郎君
どうでも宜うございます。なお整理までに考えて置きましょう。
議長(箕作麟祥君)
その序に適用の所も考えて御置きを願います。
梅謙次郎君
宜しうございます。
議長(箕作麟祥君)
それでは他に御発議がなければ、本条は原案に決して次に移ります。
〔書記朗讀〕
第七百二十三条 或事業ノ為メニ他人ヲ使用スル者ハ被用者カ其事業ノ執行ニ付キ第三者ニ加ヘタル損害ヲ賠償スル責ニ任ス但使用者カ被用者選任及ヒ其事業ノ監督ニ付キ相当ノ注意ヲ加ヘタルトキ又ハ相当ノ注意ヲ加フルモ損害カ生スヘカリシトキハコノ限ニ在ラス使用者ニ代ハリテ事業ヲ監督スル者モ亦前項ノ責ニ任ス
前二項ノ規定ハ使用者又ハ監督者ヨリ被用者ニ対スル求償権ノ行使ヲ妨ケス
(参照)財三七一、三七二、四項、三七三、フランス民法一三八四、オランダ民法一四〇三、イタリア民法一一五三、スイス債務法六二、六三、モンテネグロ財産法五七四、スペイン民法一九〇三、ベルギー民法草案一一三〇、一一三四、ドイツ民法第一草案七一一、七一二、同第二草案七五四、プロイセン一般ラント法一部六章五三、六四、ザクセン民法七七九、バイエルン民法草案六六、イギリス Bayley v. Manchester, Cheff. & Lincoln. R. Co., L. R., 7C.P.415. Rayner v. Mitchell, L.R., 2C. P.D. 357. Limpus v. London General Omnibus Co., 11w. R. 149. Rapson v. Cubit, 9M. & W.710. Hughs v. Percival. L. R. 8 Ap. Ca. 443 使用者責任法 43 & 44 Uict. C. 42.
穂積陳重君
本条は一見致しますると他人の不法行為に付いて責に任じまする如き規定でありますが、本案に於きましては前条と同じ主義に依りまして、やはり不法行為なりと致してこの規定が立て居るのであります。財産編三百七十三条に於きましては、「主人親方又ハ工事運送等ノ営業人若クハ総テノ委託者」斯ういう工合に列記してありますが、しかしこの様に分けて書きますとその幅に付いて疑が生じますから、それ故に「或事業ノ為メニ他人ヲ使用スル者ハ」と広く書きましたのでございます。それから既成法典は、他人を使用致しました者の責任に付きましては非常な厳酷なる主義を取って居るのでございます。もっとも外国の立法例に於きましても、この責任を非常に厳酷に致します所とそれから余程寛にします所と二つありますので、慨してフランス法典の系統に属します国はこの使用者の責任を非常に厳酷にして居ります。之に属しませぬ国は例えばバイエルン、スイスなどは軽い責任に致して居ります。既成法典も「受任ノ職務ヲ行フ為メ又ハ之ヲ行フニ際シテ」とあってやはり厳酷なる主義を取って居る。その事柄を行います為めに生じます損害は是は申すまでもないことでありますが、「為メ」だけでは余り狭過ぎる。「際シテ」では少し広過ぎる。それ故に「使用者カ其事業ノ執行ニ付キ第三者ニ加エタル損害」という位の程度に本案は止めましたので、概して厳酷の主義を取って居ります国では、何故にその業を行うに際してやったという事までも含ませるかというと、この規定の基礎は全く選任の過失で選任が当を得なかったのであるから、若しその者が不注意のことをやったならばその者のやったことに付いて責任を負うのが当然であるという、斯ういう議論になって居ります。いわんや前の場合は未成年者に対する父でありますとか、後見人でありますとか、そういう様な者は之を止めることが出来ない、離れられない関係があるから猥りに止めることは出来ないが、この処の場合はいつでも止めることが出来るのであるから、若しそういう人を用いた以上は、たといその事柄に直接の関係がなくても責に任ずるが当然である。或る人を使いにやった、その人が向うの家で盗みをする。そういう者はもちろんその責に任じなければならぬ。或人を使いにやった、その道で悪るいことをやった。是れもそんな人を使いに出すのが悪るいのでありますから、やはり之を広くした。広くした諸国の法典は選任に付いて過失があると、斯う見たのでありましょう。本案に於ては、やはり前の方は過失に依て居りますが、選任の過失のみならず選任して監督する義務が元となって居ります。他人をして或る事を為さしむるには、適当の人を選びさえすれば宜いということだけではありませぬ。その人は適当であるや否やということは大変分り憎いことでありますから、相当の監督をし相当の注意を加えなければならぬという考えで、独り選任の義務ばかりでなく、監督の義務ということもあるということが元になって居ります。それ故にその事業の執行の時に関係して居らなければ、その為めにでも何んでも宜い。之に際すると言うのでは少し広過ぎると考えまして、既成法典よりその範囲を狭くした。次に既成法典より本案の方が余程簡になって居るのは、この但書を加えましたことであります。財産編三百七十二条に於きましては、妨げることが出来なかったならばその責に任じないと書いてある。それから三百七十三条に於てはこの例外がない。主人が妨げるということがなくても、なんでもその責に任ずる。総てその例外を認めない。之に付いてボアソナード氏の説明を読んで見ると、やはり選任の義務に帰すると思います。後見人とか父権を行う者とかいう者は、いつでもその選任者を止めることが出来る。この場合にはいつでもそんな者を用いたのが悪るいから、注意を加えたとか加えるとかいうのは問題にはならぬ。いやしくもその之を行うに際して損害を生じたら、悉くその責に任じなければならぬということになって居る。本案に於ては、いやしくもその自分の為すべき事業を他人にさせるとか他人に頼んでさせるという者は、その事業が適当にせらるるということを注意する義務がある。その義務を怠り又選任に付いても過失と称すべきものがあるときはその責に任ずるが、注意を加えて選任したときはその責に任じないという点は、既成法典とは余程その主義を異にして居るのであります。諸国の法典も多くはこの選任という方に基礎を取って居るようでありますがドイツの法典は全く選任とそれから監督両方を基礎として居る。選任に付いても注意を加えてあります。之が何事に付いても、例えば大工を雇う、その大工という者は大工の事に独り適当なるのみならず、外の仕事にまで相当の注意を加えて或る仕事をするということは望むべからざることである。之に外の責任を多く持たせては、近頃多く人に仕事を托する世の中に於ては、安心して人に物を托することは出来ぬ。何もかも自分でしなければならぬということになる。それだから相当の注意ということがあるなら責任を負わせるというのが至当であると思いまして、本案も亦そういう主義に基づいたのであります。第二項はやはり前条と同じ趣意であります。第三項は却て前条にはこの求償権のことを申しませずして本条に求償権のことを申しましたのは、随分近頃の諸国の法典には、この場合に求償権があるとなって居ります。是れは至極適当のことでありまして、その仕事をする為めに他人に対して責任を負うた、又それに付きましても全く自己の過失ばかりでないというような場合に於ては、使用者又はその監督者というものからして求償権を行わせるというのも通常取引に於きまして公平なことと思いまして、この第三項を加えたのであります。
穂積八束君
この条の適用に付いて簡単に伺いたいのでありますが、この使用人と使用者に代りて監督する人との関係の規則という者は政府と政府の使う所の官吏その他の使用人にもこの原則が当るという御考えでありますか。どうかということを確かめて置きたい。もちろん民法という者は一個人相互の関係ばかりで、政府と一個人との関係に付いては別に規定するということに全く一刀両断に言えるものでありますれば疑のないことでありますが、或は解釈次第で政府と一個人との間でも政府を法人と見ればやはり民法の規則を適用されるという議論も出来ようと思う。若しその様なことを言いますと、この規則などが果して政府が一個人に対してその使用人の不法なる行為に依て損害を加えたときは、政府が被害者に対して責任を負うや否やということが必ず問題になると思う。もっとも政府の使用人と言いましても色々種類があります。警察官その他の者もありましょう。色々なる関係もありましょうが、それ等の委しい所まで考えて質問をするのではありませぬが、ちょっとその点を御尋ねしたい。
都筑馨六君
ちょっとそれに附加えて同じ問題でありますから伺いますが、土地収用法に依て収用を許されて居る所の公益上の事業、是れが政府でやります場合又郡市町村その他の公共団体でやります場合は、一私人が内閣の許可を得てやります場合に、公益の為めにする事業でもその起業者が使う所の人間が過失でやった他人に損害を与えたる場合は、その起業者がその責に任ずるのでありましょうか。果して然りとすれば、土地収用法との関係はどうなりましょうか。土地収用法の精神では、私共の考えでは、独り取上げる土地に付いての損害ばかりに止まって居りませぬ。起業の性質に依て生ずる損害まで規定を設けてある。収用法の精神が、あの法律に規定してある者を除くの外、事業に依て生ずる損害は弁償するに及ばぬということに止まって居るらしい。若し之が及ぶということにしますれば、随分大きなことになりましょう。官吏のやりそこない、公吏のやりそこない、若くはその他の事業者の過失に依て、私が是だけの損害を受ける。例えば例を挙げるまででもありませぬが、木曽川の工事がへたにやってある為めに沿岸の土地に砂が這入る。それが為めに損害がある。その損害がちょっと二百万円掛る。そういうことを始終申出して来ることがある。それから又一つ土地収用法にしても、この補償金額は民事裁判所にいけるようである。そうすれば一審裁決としては該金額に付いては普通審査会に附せらるる様に思う。したがって鉄道を起し道を開く、是までは運河を掘る時分に掘り方が悪い為めに周囲の井戸の水がなくなる。就ては井戸一戸に付いて幾ら出すということに付いては審査委員会に於て、土地収用法を解して日く、土地収用法に規定してある事柄を除くの外は、過失があっても補償金をやらなくても宜いということになって居る。然るに今度之に付いて過失さえあれば賠償金をやるというと、その辺の関係は如何になりましょうか。又是まで一の町村会の違法処分にある裁判例又取扱を見ましても、官吏公吏が職務上為したことに付いて多少違法のことがあるにせよ過失があるにせよ、それが為めに他人に損害を及ぼす場合でも賠償の責に任じないということが習慣法になって居りますが、その辺の所はすっかり変って来るのでございましょうか。
穂積陳重君
本条に付いて第一には、政府の官吏がその職務を行うに際して第三者に加えた損害賠償に之が当るや否やということが、第一の御質問でございます。それに対しましては一の明文がありませねば、もとより政府の事業と雖も私法的関係に付きましては本案は当らなければなりませぬから、他に特別法がない場合に於ては本案は当ると御答えしなければなりませぬ。が、しかし本案が当るが良いか悪るいかは第二の問題であります。が、この案を立てますときにも政府の官吏がその職務執行に付いて過失があったときには、その責に任ずるや否やという箇条を置こうかと思いました。が、しかし之を民法に置きますのは不適当の場所であると考えます。一般の賠償の通則としますれば公けのことであるから、それ故に一個人にその職務の執行に付いて非常に損害が生じても、是は御上のことであるからと言ってそれは償なわぬ。斯ういうのは憲法の精神にも余程戻るものであろうと思う。大変論から言えば、所有権は侵害されぬという精神の方から言えば、戻る話であろうと思う。しかしその主義を適当とすると、今も例に御挙げになりましたような非常なことが生ずるかも知らぬ。しかしながら公益上是はどうも官吏の職務上のことであるから、過失があってもそれは賠償をさせぬ方が宜いということは、是れは例外であって一つの特別法を以て定むべき事柄である。一般に掛ることでない。別して是れは公法にも関係のあることでありますから、それ故に若し斯の如きことがありますれば、その事柄は特別法の所に規定になる方が宜い。その職務に付いて過失があるというときに於ては、之を用いる人が償なうというのが原則であるということは動かぬことであろう。之を定めて置くが宜いと思う。又民法に但政府の官吏がその職務を執行するに対して加えた損害に付いては、過失ありと雖もその責に任ぜすということをただ書き放しましては、どうしても万般のことに当るまい。なるほど今の大きな公吏に付いても固りやむを得ないということもありましょう。又一個人一個人に付いてもやむを得ないという場合もありましょう。是れは程度で公益上一私人に迷惑を掛けるのは良いことではないが、やむを得ずやることでありますから、その分界を附けるには随分細かいことも要りましょう。それでそういうことは特別法に譲る方が宜いという考えであります。それがなければ本条の規定が当るということで、それはなお勘考すべきことである。それから第二に都筑君の御質問に付きましては、私も少し計り前から聞きましたこともありますが、この土地収用法の補償というものは決して損害賠償というものを排斥して仕舞うという考えとは私は読んで居らない。しかしこの事は都筑君は専門家のことでありますし、実例も意味も亦能く解釈して居られますから教えを請はなければなりなせぬが、その例は補償額見積りで公益事業を起すに付いては一個人にどれ位の迷惑を生ずるだろうということを初めに極める。そうしてその見積り額を初めやる。その中に籠める。是れで打ち切ってその外に補償額を一文もやらぬということの精神には文字は読めませぬ。土地収用法の補償額を西洋でもそうは解して居らぬ。日本ではどうか知らぬが、それで土地収用を政府が自らやりますとき、或は公けの法人のやりますときとその時に依て理論は違いますまいと思います。是まで政府の事業に付いては公益の為めであるならば補償を許さぬというようなことも、それは立例がありますか知らぬがそれだけを特別にするということはまだ承わらぬのであります。それから官吏が職務を行うに際して一個人に損害を与えた。之に付きましては千島艦事件の時分に大審院などに参りましたが、随分数は少ないそうでありますが、或る裁判所には責任があるという裁判所があるようであります。畢竟日本ではちゃんとした原則は定まって居らぬようであります。それで若し官吏の職務の執行とか或は公益とか、是だけは取除に致しますならば、是は土地収用法に規定になりますとか或は官吏責任法という特別法が出来ることを私は希望するのであります。収用法の解釈法に付きましては、たとい是れがそうなりまして居っても収用法に当ります方は例外になって、やはり本案は是れで一切の官吏職務執行の場合にまで当らぬというので、官吏職務執行の場合はこの限に在らずということは自ら出て来まいと思うのであります。
横田国臣君
私はこの箇条は極賛成の方であります。是までの広い方は大変困ったので、この方らが使った者が盗みをするというような場合、それで今御両君から官吏のことに付いて御尋ねもありましたが、それに付いても殆ど今は私はこの規則の方が適当に当って居る様に思う。それで官吏がその職務上ですべきこと法律規則に依てすべきことをして損害があった折には、それはどうも官が償なうが当り前と思う。例えば検事が没収物を返さなければならぬのを返さぬで焼いて仕舞ったならば、検事がその人に償なわなければならぬ。この規則は大抵のことは官吏の職務上の過失に付いて当てても宜かろうと思う。又呉服屋の番頭が品物を持って来た、その者が何か悪るいことをするという場合は幾分主人に償なわせたいと思う。それで私は「或事業ノ為メ」とあるが事業というのは少し広くはないか。或は会社を起し商売を起すというように見えるがそうではあるまいと思う。私が今庭の柳の木を伐って売出すというような場合でも、私が之を命じたならば償なわせたが宜かろうと思う。それを事業と言っては少し広くはないかという考えがある。
都筑馨六君
今の土地収用法の補償ということが賠償を意味して居らぬということは、今まで岐阜内地の人民が一つも賠償の訴訟を起したことはありませぬ。それから又補償金額に漏れるものは賠償の方で往けるということならば、何故に行政の手続で、審査委員会で判決するかということが理由が立たぬことになる。それから今一つは、ついこの間名古屋の地方裁判所の判決が補償金額に対して裁判所に訴えたときに、是れは第一審に、土地収用審査委員会の裁決を受けて居るからいけぬという抗弁が成立った。之を以て見ても、土地収用法に依ると公益に関する事業は、初めに規定してある事柄の外は賠償を与うるという精神はなかったろうと思う。収用法を拵へるときに若し之があると土地収用は出来なかろうと思う。それから今一つは官吏の違法処分に付いて賠償を求むる者が、行政裁判所に往くのが年に二百位ある。その度毎に損害を賠償しなければならぬということになったら、えらい高になります。もっとも今までの判決例の御話もありましたが、私の目に触れて居りますのでも民事上の契約とか民事に近いことで、それで過失があって損害を加えたならば賠償して居る。しかし公法上の職務執行の過失から、違法のことから、他人に損害を蒙むらせても或は公法上の執行に依れる過失でも、とにかく公法上の職務執行の過失に依て損害を蒙むらしめても、やらぬという風の例になって居るように私は心得て居ります。
穂積陳重君
お答えする程でもありませぬが、この事業という字は大袈裟に聞えるということでありますが、もっとおとなしい字があればなお宜かろうと思います。もちろん大仕掛の物ばかりを見たのではありませぬ。柳の枝を伐る位のことまでも這入って居ります。土地収用法に付いての解釈は都筑君の解釈の方が確かでありましょう。果してそうならば土地収用法は理屈の分らぬ収用法と言わなければならぬ。畢竟補償金を定めるというのも一個人に迷惑を掛けぬということを見込んでやる。初め見込んだにはその事業を起すに必要なると思ったけれども、その人の不注意であとでそうでなかったという理屈は補償金額の見積りということに付いては出て来ないと思う。都筑君の挙げられました御論には服されない。何ぜならば、どれ程利に悟くても政府の仕事と言えば人民は相手にしてもいかぬと覚悟して居る。岐阜愛知の人民が土地収用法にしたがって居るのもその為めであると思う。それから行政上の手積で、土地収用法で審査委員会に往くというのが本条と精神を異にして居るので、初めの補償金額というのが全く行政上のことで、初めその事業を起すに当って一個人の損失を見込む。それから行政手続から初める。その事業をするに付いて他に損害を及ぼしたならば、それは司法裁判に出て往くのであって損害賠償の関係ではない。それで是れは初めに見込んだのであって、その見込んだだけは初めから必要な部分であるから宜いが、それを見込んだのを外の司法上の裁判を仰ぐことは少ない。それからその公益事業のやり方に付いて外の者が損失を受けても、初めに見込んだものだけを補償して、後とから見込んだのは償なわぬというのは随分主義に於ても如何がはしいと思う。若し都筑君の御解釈の如くなれば、やはり償なわなければならぬと私は思うのであります。
高木豊三君
私はこの条は全く疑問はない積りでありましたが、色々御質問が出まして穂積君の御説明を承わりましたが、今の御答に依ると政府と官吏との間の関係、即ち官吏の過失行為は政府が代って賠償するかどうかという問題も本条に含むかの如き御答になったようでありますが、私はそうは解し兼る。穂積君の御答えでは、政府が自ら若し民法でいわゆる使用人を使って事業でもやって居るときは、即ち監督者という者が受負人の取締とか何んとかいう者が負うものであろうと解して居ったのでありますが、若しそうでなくして政府の官吏というものが職務執行に付いて第三者、即ち人民に対して損害を加えた場合に、この原則に依て政府がその賠償の責に任ずるや否やという、斯ういう問題をこの条で暗に極めたものということであるならば、私共の解釈して居るものとは大変極意が違いますので、その問題ならば大に是は論ずべき事もあり研究すべきこともあろうと思う。ただ今出た土地収用法の例などは、是れでは一向当らぬと思う。つまり問う所と御答えになって居る所と意味が違うのであろうと思う。ただ今承わった官吏の職務執行に付いて、人民に損害を加えたときに政府が賠償の責に任ずるや否やという法律上の大問題を極めたものであるかどうかということを先に一つ伺いたい。
穂積陳重君
何も外の条がなくして出たらば、裁判所では普通の不法行為の箇条を適用するものであろうと斯う考えまするのであります。それ故に若し官吏の職務執行に対する云々ということが必要であるならば、それは特別法を出される方が宜かろう。本案で是非そうしなければならぬということではない。しかし特別法が出なければ裁判官は本条に依て裁判なされるであろうと思う。しかしあなたはどう裁判をなされますか。
梅謙次郎君
大変大問題になりましたが、私はこの問題は嘗て法人の所の四十六条で決したことと思います。又この処で議論が出るのは如何がかと思います。政府は法人でありますから、この一箇条に付いて過失があったとか賠償の責任があるとかいうことには見ないから、この規則が当嵌らぬと思う。ただ四十六条の規定が一般の法典に於て是れと同じ様な規定になって居る。ただ、しかしながら、この法人の規定は無論、国に嵌らぬということは私の言を持ちませぬことで、国に関しては特別法が出るでありましょう。不法行為の原則から考えて、それから法人の所の四十六条の規定を考えて見れば、国に関する特別の規定があれば当らぬことは分る。若し明文を以て定めなければ、国も亦法人であるから四十六条の規定が嵌るということは決して無理からぬことと思う。しかしいずれそれは特別法に依て極ることと信じて居ります。又この箇条で都筑君の御疑いになった一個人が公益事業を起す場合に適用すべきことはどうかというと、その場合は本条がそっくり嵌る。一個人が会社を立てる場合に商法で法人会社はどうなるか知りませぬが、会社などが事業を起す場合も同じであろうと思う。直接にこの規定が嵌る訳ではありませぬが、会社法人の規定が当ると思う。会社が一個人に損害を与えた場合に、土地収用法に依てその収用より生ずる損害は土地収用法に依て賠償するから、それより外に一切賠償しなくても宜いか、或はこの七百二十三条に依て賠償しなければならぬかということは研究しなければならぬことであると思う。私は土地収用法を特に研究したこともありませぬから間違って居るか知りませぬが、収用法の損害賠償というものは収用それ自身より生ずる損害を極めたもので、一旦収用して事業を起して居る最中にその使用者が他人に損害を加えた、その場合にまで収用法は当るべきものでないと思う。その場合は若し特別法がなければこの七百二十三条が当るのであろうと思う。又当らなければ不都合と思う。普通の会社又は商人が自己の商業の為めに人を使う。その人の選任が悪るかった為めにその人が他人に損害を加えたならば、本条に依て賠償の責に任ずるのである。例えば私設鉄道会社はその事業は公益の事業であるにしろ、その目的は金を儲けるにある。それが人を使ってその人が不都合のことをして第三者に損害を加えても、無責任ということであってはならぬ。その場合にはやはり、責任を持たせて置きませぬと不都合である。如何に公益の為めであっても、土地を収用するに付いて一文たりとも一個人に損害を加えたくない、多少無形の損害はあるか知りませぬが、少なくも有形上の損害は一文でも加えたくないというので損害賠償の規定が土地収用法に設けてあるのでありますから、その会社が会社の事業に必要でもないことにまで他人に損害を加えたのも、やはり無責任であるということではどうも不都合であると考えます。それは私も穂積君と同意見であります。
都筑馨六君
土地収用法に依て裁決すべき条件の所を御覧になると、起業の方法ということがあります。あれは決して土地収用のこと計りでない。収用すべき地区々域及び許可を得て執行すべき工事の方法までである。それで審査委員会は何を審査するかと言えば、その事業を為す為めに土手を造って人民の持って居る所の用水路を立切るというような場合には、その土手の下に用水路を附けてやるというようなことを審査して居る。それで収用に依て起る損害計りでなく、起業の順序方法に依て起る所の損害は必要の程度まで予防する為めに審査会で裁決する。而して区裁判所の方はそれは果して補償すべき事柄かどうかということは、第一審に審査委員会の裁決を受くべきものという解釈になって居ります。とにかく収用すべき土地の価格若くは土地の収用に依て起る損害のみを補償すべきものではない。
横田国臣君
今都筑君の御話がありましたが、土地収用法のこと計りをこの処で論じても詮がない。土地収用法が都筑君の言われるが如くそれだけのものであれば、それだけのことである。この七百二十三条に於ては公法と私法の区別は必ず分ると思う。例えば陸軍の馬車が往くべからざる道を往って家を壊わした。それは法律か何かで往くべからざる道ということが極めてあって、それを往ったならばこの処を通るべからざる所を通ったのが不法であるならば、行政裁判所に出る。ただ家を壊したというに付いて官が壊したからと言って公法だというのは分らぬ。必ず是れは国との関係が出て来ると思う。今の砲兵工廠辺りから、がたがたやって外の家を壊したならば、之に依る外はない。若し悪るければ土地収用法を襲へるより外はない。それらのものを論じて斯う解釈すると言って、土地収用法をまだ能くも見ないで論ずる。しかし国と人民との間に之を用いることはないということは決して言えないと思う。
高木豊三君
私の言いましたのも、国という法人が民法上の事業の関係に付いて、この条が当るか当らぬかということに付いて、無論当るということは一点の疑いがない。ただ私の先刻申した官吏が職務を行うに際して、私法上の関係でなくして公権の作用と言いますか、余り裁判官が裁判をする、警察官が人を捕えるというようなことも之に当るというようなことに聞えては甚だ困る。若しそういう間題が之に依って居るならば、大問題だというのでありまして、もちろん裁判官と警察官計りでない、地方官の如きもやはり人民に対して損害を加えたというような場合も、この条の適用があるかというと、それ等の場合には済用することが出来ぬ。即ち特別法を以て定める。民法には之を見て居らぬということの起草者の御説明を願って置きたい。そうでないと県令が斯ういうことをして、人民が損害を受けた。この条に依てそれは政府の使用人であるから、第三者に損害を加えたならば罰金を出せ損害を出せということになっては困る。おまえが裁判するときはどうだと言われましたが、穂積君の言われた如く日本には是は極まって居らぬのみならず、ヨーロッパの法律に於ても未決の大問題と言っても宜いと思う。日本では判決例が僅に一二あるだけで、それも大審院まで来て、政府の官吏が職務執行の場合に人民に損害を及ぼしたというときは政府がその責任を負うということの明かな判決例はない。一般の場合は官吏の職務上の過失は政府が責を負わないというような今日は傾きになって居ります。ただ誤って県令が人民に損害を加えた場合に賠償をしたというような一二取除けのことがあるに過ぎぬのであります。
穂積陳重君
斯ういうのであります。官吏の職務執行の場合に是れが当るが宜いと我々は極めて居らぬので、我々が研究して見ると、時としては民法に書いて居る国もありますから、是れも書こうかと思うて相談して見ましたが、いづれ特別法が出来るだろうと思いましたから止めたのであります。特別法が出来ぬということを予想して是で突き通すというのではない。若し特別法が出来なかったら是れがどう解釈されるかということを問われますから、特別法がない以上は例えば軍艦が一個人の商売船と衝突してその船を沈めたとかいう、そういう様な場合に賠償を求めるというにはこの条が当りはしないかという御相談をしたので、特別法を作らないで是れで押通して仕舞うというだけの決心は我々三人共なかったのである。しかし若し特別法がなかったらば、是れが当るじゃろうという考えは三人共持って居る。
高木豊三君
ただ今の御答で能く分りました。官吏に対して賠償を求めるということを御書きになろうかということで、ドイツの様にしようという御趣意でありますか。
穂積陳重君
そうです。
高木豊三君
それならば宜い。そうではないこの場合はどうかと言えば、或事業の為めに他人を使用する使用者と被使用人と二つある場合、被用人が第三者に害を加えたときは如何という問題を極めてあると思う。それ故官吏が過失に依て人民に損害を及ぼしたときは政府が損害を賠償するの責任があるかどうかという問題が起ったのであるが、巡査が誤って人を縛って損害を加えたということは言われぬということでありますれば、私は一向差支ないのであります。
都筑馨六君
色々御説がありますが、イギリスでは金持が公吏になって居る。官吏になって居る様な者でも随分身代限をする者が多いから、到底日本の如く貧乏書生が官吏をして居る者に行われる話でないからどうか、官吏が職務執行に依て生ずる損害はこの限でないということを加えるかどうかということに付いて、決を採って戴きたい。
横田国臣君
もちろん政府という者が監督者になる。それから使われるのでありますから、是れで丁度宜くはないか。
都筑馨六君
私は違います。官吏には懲戒法というものもあって、行政上の責任というものがある。且又刑法というものがあって、その上に民事上の責任を負わせるという場合には、丁度明文を分けて之を規定すべきものであって、一般にそういう民事上の責任を負わせた国は滅多にない。
横田国臣君
しかしそれでは大変な話と思う。それは外の特別法で極めらるるならば兎も角だが、それがなければ官吏が職務上執行を為したその者に過失があれば、官から償ないを求められるのが当り前である。官吏のしたことで損害が起ったと言っても、それはそのままということは今日でもありはしない。或る特別のことで警察官が人を見損なったと云うのは過失でも責に任ぜぬが、しかしながらただ不注意からして、外に損害を加えても官はそれを償なわぬということは出来ないと思う。それが出来れば行政裁判所は要らぬように思う。
都筑馨六君
公益の為めには多少の損害は人民が蒙らなければならぬ。人間であるから多少の過失があるということが二つの原則で、それであるから行政裁判所を儲けて、その場合には之を救済するの手続が設けてあるそれが何んでも要求されるならば行政裁判の手続も何も要らない。
土方寧君
この箇条は色々面白い議論を伺いましたが、起草委員の御考えのようになっても一向差支ないと思う。この七百二十三条の解釈が、起草委員の言われるように官吏が違法処分をした時分に責任を負わぬということであっても、特別法を設ければ宜いということでありますから宜いが、それならばもう一つ外の箇条で伺いたいのは七百十九条。この場合には問題が起らなかったが、やはり是も特別法がなければ大変困ると思う。私の希望する所では七百十九条では官吏の違法処分に付いて政府は責任を負わないということにならなければならぬと思うが、如何がでありましょうか。七百十九条に付いて伺いたい。
穂積陳重君
官吏自身に付いては七百十九条が這入るということは我々も粗々考えましたが、その場合は故意であっても過失であっても官吏の無責任の方が宜い。その方が公益だということは別に我々相談も話もしませぬから、我々の意見を代表して御答えは申上兼ねますが、私一人の考えでは一向公益にも何にも関係しないというようなときは、七百十九条を直くに当てて身代限をさせるということに解釈して居ります。
長谷川喬君
この問題は大層大きな問題であって、そうして判決例等のことも屡々出ましたから、私の存じて居る判決例をちょっと御参考までに申します。それは一昨年の十月頃でありましたが、或る人が神奈川県の知事を相手取って損害賠償を訴えた。それはどうかというに、神奈川県の巡査が或る酩酊人を連れて来て、そうして拘留所に入れて置いた所が如何にも乱暴をして仕様がない。そこで柱に縛り付けて置いた所から、その妻が神奈川県知事に対して損害賠償の訴を起した。それが大審院に来ました。大審院の判決では請求権がない。何ぜないかというと巡査が乱暴人を柱に縛って置くのは職務としてやったのであるから、その職務執行より生じた過失に付いては県知事たる者に責がないということである。それが正しいと思う。
土方寧君
そうすると違法処分というものは殆どないことになる。
高木豊三君
判決例の話が出ましたからちょっと一言します。事実は今長谷川君の言われた通りであります。しかしそれが犯罪人でもなければ何んでもない。つまり全くの行政警察の範囲である。行政警察の範囲であって人を縛するとか打つとかいうことは職務の執行ではない。それで彼の外国でも言う法律に違犯の行為というのは、是れは一個人の行為で、国の為めにやる行為でない。ただその職務を適当の場合に執行し得べき権利を持って居る者が、行う可からざる人に行ったというのでありますから、無論職務の執行でない。法律違犯の行為である。それであるからそういうことに政府は責任を負わない。但本人に対して賠償を求むるのは格別である。たとい是れは政府が責任を負うという主義を取っても、この様な場合にまで責任を負うということにはならぬと思う。そうなれば穂積君が言われた如く、ボアソナード氏の説明の如く、選任の過失で官吏が泥坊をしても政府が責任を負わなければならぬということになろうと思う。とにかく私はこの処ではそういうものは一切含んで居らぬということに願いたい。
本野一郎君
ちょっと承わりますが、鉄道会社の過失で旅客貨物に非常な損害を蒙むらせた。その場合には会社が損害を償なうということは極まり切ったことであります。官有鉄道で同じ場合が生じたときはどうでしょう。私の考えでは七百二十三条の規定が適用されると思いますが、例えば駅長の明白な過失に依て差図の仕方が間違った為めに汽車が衝突した。それが為めに非常に死人が出来た。貨物を壊わしたという場合には、この七百二十三条は適用されるものでしょうか。
穂積陳重君
私共の見解は、外に規定がなければ適用されようと思いますが、大審院に往くと適用されぬと思います。
本野一郎君
大審院はどうでございましょうか。
高木豊三君
私一己の議論でございますが、ただ今の裁判所一般の傾きは穂積君の御話の如く、役人と言えば同一様で責がないということになりましょうが、私の考えでは政府の事業でも営利の事業を目論んで、ああいうことをやって居る者は官吏と言えば官吏であるが、その事業は決して法律にしたがってやって居らぬのである。私はどうするかと言えば、私はそんな者は無論会社のようなものと同じに扱う。それだから財産上に損害を加えたならば無論やるのが当然で、しかし是れは公権の主体たる者にやらせるのでない。私の言うのは私法上一個人に対して賠償をするのである。だからそういうことは一切是れは入れぬことにしたい。
穂積八束君
先刻の御話に「事業」という字は少し広過ぎはしないかということの御尋ねがありましたが、解釈上大きな事業というのでなくして、つまり一事件というのと同じであると思いますが、何か修正案が出ましたか。
土方寧君
私も事業という字は何んとか御考えを願いたいと思います。下女下男車夫が車を引くのも事業になりますが・・・・事業と書いて置くと感触かも知れませぬが、如何にも大袈裟に聞える「事」だけではどうでしょうか。
議長(箕作麟祥君)
他人に委任せられたる者がその職務を執行するに付き、ということではいけませぬか。なおもう一つ御考えを願います。
梅謙次郎君
そう致しましょう。
長谷川喬君
前条では法定義務者の監督という中には、代理人の選定というものも含むということに御説明になりましたが、そうすると本条に言う事業の監督という中に又代理人の選定ということも這入ると斯う御弁明にならなければならぬと思います。そうして見れば被用者の選任は事業の監督であるから、被用者の選任は事業の監督であるということにならなければならぬ。しかし代理人即ち被用者の選任というものは、事業の監督ということになると窮屈ではありませぬか。それからもう一つは、この使用者が任じたる代理人の過失の為めに使用者が責を負わねばならぬ、斯ういうことになるというとその使用者が代理人に掛って求償権があるかどうか、即ち代理人が不都合なことをした為めに使用者が第三者に対して責を負うとか、代理人に対して求償権があると、若しあるというならば二項に加えなければならぬではありませぬか。
穂積陳重君
初めの事業の監督と申しますることは、もとよりこの前の「之ヲ監督スヘキ法定ノ義務」とは又少し範囲が違うのであります。その事柄だけに付いてするという積りであります。それで初めの方は選任というだけで、事業の監督をするに付いては斯ういう人を使わなければならぬというのは事業の監督という方で、人を用いることは十分含み得られるでございますがどうでございましょう。殊に直接に責を負わせてありますから別に何を申しませぬ。でもそれ程撞著することはあるまいかと思いますが如何がでしょうか。なお御考えを願います。それから第二の点はこの求償権というものは、あります場合とない場合があるだろうと思う。使用者という者がその使用する事柄の権限等に付いて、外の者を用いるということもやはり使用者の権限の内に這入って居るならば、やはり求償権がある方が穏当であろう。初めの使用者という方には少しも過失も何もない使用者自身が或る人を用い、それからその人が自分の勝手に人にやらせるということでありますと、もとより元の使用者という者にまで掛れぬ場合があるだろうと思います。
長谷川喬君
どうも私が御尋ねしましたことが能く意味が分りませぬように思います。第一の問は前条と衝突することを申したのではありませぬ。前条に於て「監督スヘキ法定ノ義務アル者」という中には使用人が代理人を選任する行為も含むということであれば、この処に「被用者ノ選任」とあるが是れは要らぬのではないかというのであって、つまり事業の監督という中に代理人の選任ということまで加えるというのは無理ではないかというのが主であります。第二には、今御説明が能く聞取れぬようでありましたが、使用者から代理人に掛って求償することが出来る場合もあるし出来ない場合もあるというように聞えましたが、出来る場合もあり出来ない場合もあるというのはこの七百二十三条に明記してある如く、監督者が被用者に対する場合も同じである。如何なる場合でも求償が出来るというのではない。求償されるときは求償が出来るというのである。被用者の行為に依て第三者に損害を加えたならば、使用者は第三者に償なわなければならぬ。それは何ぜかと言えば代理人が悪るかったのであるから、使用者は第三者に対して賠償しなければならぬという場合があるとすれば、被用者監督の義務も是れと同じことにして、権利のあることを示すべきではないかという御尋ねであります。
穂積陳重君
第一の点は、事業の監督という方は被用者の選任ということだけに付いて誤りがあってももちろんいかないのでありまして、もちろんその代理人の選定という者は斯う書いてありますと別のことになりますから、それで本条の別の規則を適用することになる。それから使用者から監督者に対しまする求償のことは、この処に別に挙げてありませぬ。でも出来る場合は出来ると云うことは当然のことであろう。それでこの処に書きませぬのであります。明文がなければ出来ぬということならば、書かなければなりませぬ。ただ第二項に掲げてあることは、使用者責に任せず監督者が責に任ずると打切って仕舞うと使用者は賠償しないように見える。元使用者の責任は直接でありませぬから是れは別にしたのであります。
梅謙次郎君
ただ今の穂積君の御説明で私共無論満足でありますが、或は長谷川君の御問になった全部に対する御答でないかと思いますから、私の了解して居る所を御答えしたら或は全部の御答になろうかと思う。事業の監督と人の監督とは大変違う。事業監督はその事業だけ、人の監督と言えばその人、総体の監督はもちろん人の選択までも這入る。之を監督するに付いて自ら監督する場合もある。又人を使うて監督さする場合もある。人の監督という方から言えば皆監督の中に這入る。けれども事業の監督と言えば、この人が既に学校に這入って本を読んで居る、それを監督するというのである。それに付いて私が或人を選ぶ、その選ぶということがこの処に謂う被用者の選任である。学校で本を読ませる、その子が一体どういうことに往くかということが事業の監督である。監督という方から言えば同じであるが、人の監督と事業の監督とは違う。文法からどうなるか知らぬが「被用者ノ選任及ヒ其事業ノ」というと被用者が為して居る事業というように読める。そうすると選んでからでなければこの適用はないから至極文字は都合が宜いと思いますが、なお御考えを願います。さてそう考えて見ますと、初めの被用者を選任ずるということはこの処に謂う事業の監督以外になるけれども、その事業それ自身の内には往々自分の従事すること計りでない、人にさせることもある。その事業の執行の為めに人を使うという場合ならば、その使うということもやはり事業の中に這入ります。そうすると前条の監督という字と稍々同じことに帰着する。つまり監督ということに二様の意味があるのでなくて場合が違うのである。前の箇条とこの箇条と使い方が悪るい積りではない。意味に於ては私だけは明瞭の積りである。第二の点は、間に監督者のある場合この監督者が又実際仕事を為す人を使う、その実際仕事を為す人を使うに付いて選任を誤った、それに付いての責任を使用者に対して負わなければならぬということであって、それは無論でありますが、それはやはり七百二十三条が当嵌まると思う。その場合は監督者自身も被用者である。監督することに用いられて居る。行為の適用から見ると例えば家を建てるということであれば、家を建てるという事業の監督の為めに使用されるからやはり本条が当てはまります。今の場合は監督者が被用者の位地になって第三項の「使用者又ハ監督者ヨリ被用者ニ対スル求償権ノ行使ヲ妨ケス」ということになる。
議長(箕作麟祥君)
他に御発議がなければ原案に決しまして次に移ります。
〔書記朗讀〕
第七百二十四条 註文者ハ請負人カ其仕事ニ付キ第三者ニ加ヘタル損害ヲ賠償スル責ニ任セス但註文又ハ指図ニ付キ註文者ニ過失アリタルトキハコノ限ニ在ラス
(参照)Rapson v. Cubitt, 9M & W. 710., Pearson v. Cox, L. R. 2C. P. D. 369. Allen v. Howard, 7Q B. 960.
穂積陳重君
本条は前条との関係に依りまして実際上必ず疑いが起るべきことでありまして、又イギリスなどでは余程疑いが起って居ることであります。それ故に特に之を載せますことが必要であると認めたのであります。或事業の為めに他人を使用すると言いましても、その事業の事柄が被用者に於きましては、自分が商売柄のことであるとか専問の事柄であるとかその他その人をこっちが使用するというよりはむしろその仕事を誂えるという註文の方になりましたことに付いては、どうも選任ということも甚だ素人の目には当を得て居るや否やということは見分けが出来ぬ、監督に於ては益々出来ぬことがあるかも知れませぬ。小さい事柄に於きましては、例えば人力に乗ってステーションに往くということがある。随分その道で人に怪我をさせる或は屋台店に突掛る。徳義上では乗って居る旦那が払ってやるということになって居るが、しかしながら性質上向うは全く独立営業を為して居る者であります。而してその仕事はこちらで註文をするので請負仕事をして居るのでありますが、その場合に人力車の挽き方とか注意とかいうものは法律上乗客が責任を負うということは道理上、よろずないことであります。しかし但書の場合は、大急ぎでやれとか或は人通りの多い所であっても構わずに大急ぎでやれという時分に過失があった場合はもちろん指図をした者に責がありますが、彼の普請の場合に大工を頼んで普請をさせる、その大工が屋根から道具を落しますとか、材木を落しますとかいうことがある。それに付いてその屋根の持主或はその註文者に損害賠償の責があるかどうかという、そういうことに付いては実際上幾らも問題が起ります。それらがどうも前の「或事業ノ為メニ他人ヲ使用スル者」という一般の規定に当って、その註文主という者が損害賠償の責任を負わなければならぬことになるから、明かに仕事を請負う場合は是れよりして除外しなければ不都合である。極鋭い法律の解釈に依り何処までも論じ詰めて往きますれば、その結果は斯うなりましょうと思いますが、しかしながら何処でも他人を或る事に用いるということに付いての区別に付いて非常に疑いが存して居ることであります。又実際上屡々起ることでありますから、それ故一箇条置きました。
土方寧君
この七百二十四条の趣意を御説明になりまして分りましたが、御説明中にこの条がなくても外の条で能く精密に解釈して往ったならば結果は七百二十四条の通りになるであろうが随分疑いが生ずる恐れがあるから念の為めに置いたということでありますが、私はなくても宜さそうに思う。外の国の立法例にはあるかどうか知りませぬが、イギリスの立法例は参照条文に引いてありますが、外には明文はないことと思う。例の少ないことならば、余程のことでなければ削除しで宜しい。この七百二十四条の趣意は私も大体賛成であるが、この七百二十四条を読んで見ると前と同様で、つまり人を使用する者は責任を負うというのは、つまり自己の過失であるというように定めて仕舞った以上は七百二十四条は要らぬと思う。イギリスでは疑いがあると仰しゃいますが、この請負人という者はどういう者を言うか、若し請負人をインボンメントラクトと訳して見ますれば、この請負人が人を使ったならばいわゆる註文者と見るがそれも見様に依ては違う。イギリスの規則に依れば、被用者の所為に付いて使用者に責任があるということに付いては選任の過失があるということになって居るが、理由は区々になって居る。理由は区々になって居るが被用者が他人に加えた損害は使用者が責を負うという規則は動かすべからざることで使用者の責任を重くしてある。之を重くする理由は公益上の理由は、使用者は概して有資力者であるが被用者は無資力者が多いものであるからという考えであったろう。そういうような考えが交って余程厳重な責任になって居る。その主義に依ると請負人は、多くは資産のあるものでありますから、そんな厳重なことをせぬでも宜いということになる。七百二十三条に言う様な注意を欠いたならば責を負うので、それは被害者を保護する為めにやむを得ぬという精神から来て居ると思う。そうすればたとえ請負人でもその人の選任を誤ったということは、註文者の方に過失があればその損害の責を負わなければならぬということにして差支ない。元々自分の過失に依て生じた損害であるから責任を負うということにして差支ない。請負人を外の使用人と区別する必要はない。イギリスにこの七百二十四条のような規則があるのはそれは一種の便利主義でで来て居る。それは場合に依ては余り厳重過ぎて必要を見ないから、この条は削って宜かろうと思う。
穂積陳重君
本案は、イギリスで事業家が他人を使用するという為めに、余程厳重の規則になって居る。それは御説の通りでありますが、この前条の書き方を御覧下さると稍本条の必要が分ろうと思います。しかしながら請負人、例えば大工に自分の屋敷を立てることを命じてその屋敷の煉瓦を隣へ落したというときは、註文者がその責に任じなければならぬという。実質上御反対でありますれば致し方がないが、前条は他人を使用すると書いてあって、ただ雇傭雇ままばかりとは読め憎い書き方になって居る。殊に横田君が事業という字は大き過ぎると言われましたが、とにかく或る事の為めに仕事をするということに広く書いてありますから、それ故に本条がないと註文の場合でも何んでも、例えば大工が普請その他の工作に付いてやはり是れが嵌りはしないか、随分大きな請負仕事の為めに人を使うて、それからして色々の損害が出て来る。それは請負人がその賠償の責に任ずるのが相当であって、殆ど之を托します人はその事を知らぬ、全く委せるという位の性質のものでありますから、その被用者の選任ということも誠に分り悪い話であります。イギリスのインボンメントラクトに付いては大きな請負師と称する者だけではもちろんないので、独立職業をして居る者ならば何んでも宜い。人力車でも馬車でもやはり之に当るのであります。その下の方のイギリスの理由というものはちょっと私は御同意致し兼ねますが、とにかくこの実質上、例えば大きな工事をさせるとか或は建築工事をさせるとかそういうことまでもやはり註文者が責任を負わなければいかぬ。選任が不注意であったという実質上の御議論から削除になるならば、是れは一つの御論でありますが、この事柄が宜いというならば是れは存して置いて御貰い申したいと思う。
土方寧君
この請負人というものは身代のある者ということに限れますまいが、概して身代のある者であるから責を負わしてあるので、私の考えではこの条を削って置いても些っとも差支はない。それが為めに実質が変っても宜いと思う。若し前に謂う所の請負人のことが前条に謂う所の被用人ということに這入るものであったならば、その請負人を選任するに付いて不注意があったならば、それは責任を負わせて宜しい。それが当り前であるけれども、若し請負人が前条に謂う所の被用人と言えない独立した対等の相手方ということであると、前条の被用人という中には這入らぬ。その場合に被用人と見るべきものであるかどうかということは、場合に依て決することは決して困難でない。ここに謂う請負人が被用人でなければ箇条は当らぬからそれ故に本条は要らぬ。
長谷川喬君
土方君とは違いますが私も疑がある。本条に謂う所の請負人という者は六百三十九条の請負の定義にある「請負」は「当事者ノ一方カ或仕事ヲ完成スルコトヲ約シ相手方カ其仕事ノ結果ニ対シテ報酬ヲ與ウルコトヲ約スルニ因リテ其效力ヲ生ス」ということであろうと思う。この請負という定義に付いて論をして今に範囲が分らぬ位でありますが、しかしまず仕事を是だけということを極めた場合は請負で、それから仕事を極めずして日に幾らやる或は月に幾らやるという場合は雇傭ということで、大体の所は済んだようであります。そこで本条の場合で、請負の場合は斯ういう例外があるが雇傭の場合はどうでありますか。やはりその場合も同じではありませぬか。ただ契約が、仕事それ自身を目的としたか労力自身を目的としたかというので違いがあるので、註文者の位置にある者の注意の度合という者は一つであろうと思う。一の普請をしたに付いて、斯ういう家を建てて呉れ土蔵を拵へて呉れと言えば請負で或は日々来て働いて呉れというと雇傭になるから、雇傭と請負とは性質は違うが註文者の方から言えば同じものであるが、本条に一つは例外を置き、一つは例外を置かぬというのは権衡を得ないと思いますが如何がでありましょうか。
穂積陳重君
請負という仕事自身を目的として、それを契約いたします場合は多くは自分が指図するとか自分が監督する選任の義務の方で往くか知りませぬが、事業の監督ということはありませぬ向うでしますから、----例えば仕立屋に衣服を仕立させますとか、大工に家を建てさせる、向うに仕事を任せますからその損害は註文者にない方がどうも適当と思う。その仕事自身を請負いますものであれば、十中八九はその人に責任を負わせる方が穏当であろうと思う。例外がないとは申しませぬが極わめて少ない。それからその他の場合に付いて使用致します場合は、是も十中八九ある。その被用者にその仕事を託するか否やということの見極めを附けるとか或は事業の監督をすることが出来るとかいうことが多くて、その仕事自身を向うに任せない場合が多いから、自ら区別するが穏当ではないかと考えた。多く仕事の請負というと向うに任かせて仕舞う。結果の出来るまではまずこの方は知らぬ位で、別段註文をしなければ----それでこの区別をして置かぬと一番賠償をし安い者とか金のある方とかに掛られはしないか。又大きな仕事に付いては註文した方に掛られては大変困るのでありますから、それ故に斯ういう区別を設けた方が至当であろうと考えます。
梅謙次郎君
本条に付いて段々御説が出ましたが、解釈が私の信ずるようになれば削除になっても異存はありませぬが、先刻の土方君の御趣意を伺うと私の考えで居る所と違った結果を生ずるから、そこを一言確かめて置きたい。私も之を削られましても是れはこの通りになる。請負人という者は自分に責任を負うべき者であって、その責任に付いては註文者が負わなければならぬ。しかしその註文又は指図に付いて過失があれば、その部分だけは註文者の過失で人に損害を加えたということになるから、それは註文者に責任があるという積りである。所が土方君の御説では、請負人は前条の被用人の中に這入ることがあろう。そういう者には前条が這入るが宜い。この中に這入らぬ者は普通の原則で宜しいということであるが、それでは困る。土方君は御入れになるか知らぬが、請負人までもこの中に入れるということは我々が七百二十三条を書くときにはそういう考えはなかったのであります。既成法典は土方君の言われるようになるか知りなせぬが、例えば人力車を雇うてただ一日幾らと言って勝手の所に雇うて往くのは被用者であります。それは契約の上から言えば雇傭になるそうでなくして、この処からこの処まで幾らで往くかと言ったときに参りましょうと言って往く。この場合は私はただ車の上に乗って居って車夫は何処を通っても宜い。私が車夫を雇うときに、例えば怒りっぽい人間を雇うた。それから車の上に乗って居った処が人の足を踏んだ。何ぜ注意して踏ませぬようにせぬかと言われては困る。そういう場合にも請負であれば被用者の中に這入らない。大工でも大工に是だけのことをして呉れと言って任せるのと、そうでなく日幾らで之をしろあれをしろという雇傭と請負と区別が難しいというように、この前にも議論が出ましたが極標準は明瞭である。契約それ自身の上に於て不明瞭なことは少しもありませぬ。車夫と雖も日幾ら月幾らと言って雇われた場合は使用者が責任を負うが、請負の場合は責任を負わぬが宜いと思う。既成法典の如きはそれが一様になりはしないかと思うので、そういうことになっては困ります。若しそういうことでない請負の場合は、いつも被用者が払うということになるならば、強いてこの箇条はなくてならぬとは申しませぬが、しかし土方君でさえそういう解釈をされる位でありますから、ポンと之を出すとやはり既成法典の如く、被用者の中には雇傭者の外に請負人までも一部分は這入るという解釈をする人が起って来はしないかと思います。それ故削られることは不賛成であります。
土方寧君
私の言い様が悪るかったが、結果は梅君と同じである。この条があると請負人であるか被用人であるかという疑が生ずる。或場合に於ては是は被用人である、或場合には是は請負人であるということに場合々々に依て決することになる。請負人という者は被用人でない丸で別なものでありますれば、註文者との間には前条の使用人と被用人との関係はないから、自分の方に責任があるべき筈がない。但書の様なことは本文があるから出て来るので、之を削っても宜いと思う。この条があっても被用人であるや否請負人であるやという問題が出て来る。被用人であれば前条に這入るから書いて置かぬでもこの通りの解釈になるという考えであります。
長谷川喬君
私は不権衡だと思いますが、そうでないということでありますが、梅君が例に出された人力車に付いて言えば、請負は何処から何処まで往く、それで幾らで挽いて往くと言えば請負ということに言われましたが、そうすれば何処から何処まで挽いて往くこの車夫が怒りっぽくて人を害したという場合と、今日貴様を雇うから己れを挽いて往けと言って挽いて往ったその車夫が怒りっぽくて人を害した場合と、その時の註文者は同一の責に立つべき位置であろうと思う。ただ何処から何処までと言ったから軽くして宜いということはあるまいと思う。然るに今梅君の言う如く、雇傭という者になると例外がない、請負という者になると例外があるというのは不権衡の結果を生ずると思うから、請負に付いて例外を設けるならば、之に均しい例外を設けて、つまり同一の地位に置いたら宜いと思うから、つまり七百二十三条に籠ると見て本条は削って宜いと思います。
議長(箕作麟祥君)
それでは七百二十四条は土方君から削除説が出ましたから、決を採ります。土方君に賛成の方は起立を請います。
起立者 小数
議長(箕作麟祥君)
小数でございます。他に御発議がなければ原案に決して今晩は散会します。
土方寧君
ちょっと文字に付いてまだ色々質問があります。
議長(箕作麟祥君)
それでは原案に決したと言いましたが、残して置きましょう。