明治民法(明治29・31年)

法典調査会 民法議事速記録 第119回

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第百十九回法典調査会議事速記録
出席員
箕作麟祥 君
土方 寧 君
村田 保 君
田部 芳 君
穂積八束 君
三崎亀之助君
奥田義人 君
都筑馨六 君
穂積陳重 君
富井政章 君
梅謙次郎 君
横田国臣 君
重岡薫五郎君
長谷川喬 君
尾崎三良 君
三浦 安 君
中村元嘉 君
議長(箕作麟祥君)
それでは会議を開きます。かねて御話申してありまする手附けに関する報告が梅委員から出て居ります。之は一旦仮りに議決になりました五百五十七条の通りで宜しいという報告でありますからして、別に梅君も御説明がなくて宜かろうと考えます。御異論がなければ元のままで済まそうと思いますが、御異論とか御質問とかありますればどうぞ・・・・・。それでは別に手附に関する報告に就いて御異論御質問等もなければ、仮りに決議せられた五百五十七条はそのまま其任ぜられたものと見て第五章不法行為の方に移ります。
〔書記朗讀〕
第五章 不法行為
穂積陳重君
本章は既成法典の財産編第二部第三章に当る規定であります。既成法典は義務の生じまする原因を合意、不当利得及び不正の損害の三つと致しまして、その他は法律上の規定とかいうものがありますが、この処に詳しく規定になって居りますのは右の三つと致します。で目録を議しまするときには本条の規定に当りまするものは、題号に就きましては規定になって居りまして、如何なる題号を用いるかということは吾々に於てなお篤と考えて定めるということになって居ります。第一にこの既成法典は「不正ノ損害即チ犯罪及ヒ準犯罪」という題号を用いて居りまするが、この不正の損害という題号は他の諸国に於きましても一所も用いた例を見ませぬのでありまする。吾々に於きましてこの題号を採りませなんだ所以は不正の損害と申しますれば、第一に徳義上の幾らか意味を含んで居る様に見えまして、法律上の題号と致しましてはむしろ他の言葉の方が適当であろうと考えましたのが一つの理由であります。元より不正に生じました損害でありましても、法律上の保護あるものも保護ないものもあるのでありますからして、それ故に唯不正の損害さえあれば直ちに債権が生ずるというように見える言葉は、外になお適当な言葉があれば採らない方が宜かろうと思いました。次にこの損害というものが債権の原因、斯ういう具合に聞えまするのも如何でございましょうか、その損害を生じまする行為というものが原因であって、その行為の結果としてやはり損害が生ずる。之に債権が生ずるという方がむしろ穏当ではありますまいか。合意、契約と申しまする行為よりして債権が生ずる不当利得という一つの是は、行為とも言いましょうし、事柄とも言いましょう。事柄が生ずる。とにかくに、この債権の原因となりまするものを皆是まで分ける例になって居ります。それ故に損害の生じまする元の方の名称を題号に附けまする方が、むしろその当を得ては居りはせないかと考えました。既成法典には「即チ犯罪及ヒ準犯罪」というあたかも説明の如き言葉がありまするが、是は元より言葉としても不適当な言葉でありまして、犯罪と申しまするとまず法律上では直ちに罰が生じまする。その原因を是まで指来ったものであります。それ故に余り強い且つ法律の眼から見、徳義上社会上から見ましても非常に悪るいように見えますから犯罪というような言葉は用いない方が宜かろうと思いました。特に犯罪及び準犯罪の区別の如きは、ただ今は学者が幾らか有意とか無意とかいう区別を附けまするけれども、その起った元はローマ法以来全く歴史上の原因があって、或事柄は損害賠償の請求の訴を許す、後に至って之に似寄りましたものに賠償の請求権を許しましたものを、追々是に準じてデリクトというものに用いた。それからヨーロッパ諸国で襲い来った名称でありまするからして、斯の如き区別を致しまするということも本案では採用致さなかったのでございます。で然らば如何なる名称がまず穏当であろうかと思いまして、諸国の例も色々調べて見ました。然るに不正の損害というのは前に申しました如く法律の題号と為って居りまするのは、既成法典に限るのでございます。犯罪準犯罪という名称はフランス、イタリア、ベルギーなどではそういう名称を用いて居ります。是は前に申しました如く不都合がありまするので採りませぬ。オーストリアには損害賠償の権利と書いであります。之は少し本条の規定に対して広過ぎる。オランダなどは法より生ずる義務という所に沢山不当利得と同じくこの規定が掲げてありまするが、是は本案ではそういう広い題号の中に種々の債権を入れるということは採りませぬからして、是も用いてあったのであります。その他ポルトガルでは権利傷害及び賠償とありまする。或はスペインなどは近頃出来ましたのには、過失及び怠慢より生ずる義務と書いであります。ドイツ諸国即ちプロンセス、ザクセン、バイエルンなとに於きましては訳して申しますると「許サレサル行為」、斯ういうことになって居りまする。スイス、モンテネグロなどは不法行為と書いであります。近頃出ました許されざる行為というものに不法行為ということであります。この債権の原因たる行為というものは本案に採りました主義にすると必ず他人の権利を害するものでありまするならば、他に法の認めた権利を害する行為でありますれば、必ず不法なる行為法に在らざる行為よりして損害が出ましても是は債権の原因と認めませぬからして、それ故に不法行為という名称を用いるのが中では一番穏当であろうと思いまして本案の如く致したのであります。
土方寧君
今の御説明に依って見るとこの不法行為という名称は既成民法にある「不正ノ損害即チ犯罪及ヒ準犯罪」という名を変えたという御話で、この調査会で確定になって居ります目録には、既成法典のようにはっきり義務の原因というものを合意とか不正の損害とか不当利得とかいうことには何処にも書いてない。ただ今の御説明の通りやはり契約というものが義務の原因でありまするが、債権の一般の規則を人権の部の第一章に掲げて置いて、第二章に於て契約の通則、それから各種の契約、第三章に於て事務管理、第四章に於て不当の利得、その次に至って今のその不法行為になるのでありますが、先に何とも書いてなかったように記憶しますけれども、御説明になった通り、この不当利得というものは多くの国では犯罪及び準犯罪に当るので、一種の義務の原因であるという御話でありましたが、どうも合意や不当利得などというものが義務の原因であるということとは違うように思われる。合意というものも一つの事実、不当の利得というものも一つの事実である。そういうような一つの事実というものはいわゆる人の権利を犯したとか義務を破ったとかいうことではない。不法行為の場合に義務が生じた時は、その義務の生ずる前に不法行為を為して人の権利を犯したとか義務を破ったとかいうことが仮定せられでありますから、どうも性質が違うように思われる。次の本文に這入ってからその点に付いて適用上意味が能く分りませぬから伺いたいと思うて居りましたが、若しこの不法行為というものを義務の一原因にすると云えば、行為が義務の一原因となるということと同じことではあるまいかと思います。この表題の所に於て伺って置いたならば、本条に至ってから御説明を省くことも出来ようと思いますからこの処でちょっと伺って置きます。
穂積陳重君
広く申しますれば合意というものも一つの事実であって、人の心に基く事実と基づかぬ事実とあるのでございましょうが、この不法行為でありましても広く申せは一つの事実であります。而して皆是に依って債権が生ずる。その原因を題号に揚げたというのは一つの事実であります。それで元より規定から同じものでないから別段のものに致しましたのでありまして、唯損害が生じたという広い案でもいかぬ。或不法のことに依て生ずる損害でなければいかぬ。この書き方より穏かな書き方がありませぬから、不法行為と書いたのであります。皆事実であって義務の原因が章の題号になって居るということだけは揃うて居る積りであります。
議長(箕作麟祥君)
標題に就いて別に御発議がなければ、原案通り確定して本条に這入ります。
〔書記朗讀〕
第七百十九条 故意又ハ過失ニ因リテ他人ノ権利ヲ侵害シタル者ハ之ニ因リテ生シタル損害ヲ賠償スル責ニ任ス
(参照)財三七〇、一項、フランス民法一三八二、一三八三、オーストリア民法一二九三乃至一二九五、オランダ民法一四〇一、一四〇二、イタリア民法一一五一、一一五二、ポルトガル民法二三六一、二三六二、スイス債務法五〇、モンテネグロ財産法五七〇、スペイン民法一九〇二、ベルギー民法草案一一二〇、一一二一、ドイツ民法第一草案七〇四、同第二草案七四六、プロイセン一般ラント法一部六章一乃至一七、ザクセン民法一一六、一一七、バイエルン民法草案五二
穂積陳重君
本条は財産編三百七十条に当りまするので、即ちいわゆるこの不法行為なるものに依って生きまする基礎を定めまする条であります。でこの規定に就きましても種々の議論もありますることでありますし、又不法行為なるものは一々場合を挙げずしてその原則というものが挙って居って、その原則に依りまして争いの起りました時は、裁判官が種々様々の社会に発生致しまする事実に之を適用するものでありますからして、最も能く御考えを願いたいと思うのであります。で既成法典の採りました所と本案の採りました主義のいささか違いまする所は、先ず本案の土台となりました所を説明致しますれば、略々自ら分かって来るだろうと思いますからして、本条の規定に就いていささか説明致そうと思います。本条は三つの要点があるのでありまして、第一には故意又は過失という一つの要素がある、第二には権利の侵害というものがある、第三には損害の発生、この三つのものが基礎となるという点よりして規定が遇って居るのであります。故意又は過失、之は既成法典には「過失又ハ懈怠」とありますのであります。元よりその範囲は違わぬのでありまして、故意というものもやはり過失の中に這入って居るのであろうと思いますが、是まで本案で執り来りましたのは殊更に目的を心に持ってその目的を成就させようと思うて或事を為した、それを故意と致した。それからしてその目的を直接に覊束致しまして、その為すべきことを為さぬとか或は為し得べからざる事を為すとか、又は為すべき事を為すに当ってその方法が当を得ないとかそういうような風の場合を総て、過失と致しましたのであります。ローマ法のいわゆるロルアズプルパアに当る積りであります。で不法行為より生じまする債権に故意・過失というものがそもそも要素として要るべきや否やということは一つの大いなる問題であります。もっとも過失が必ず不法行為より生ずる債権に入るという説は、いやしくも原因結果の関係あるならば故意・過失の有無如何に拘らず、この債権を生じさせるが相当であるというこの二つの学者の議論があります。立法例に就きましては、斯ういう過失というのは例外なしに故意・過失の要素となって居ると私は見て居ります。この故意・過失というものが何故に不法行為の要素でなけらねばならぬかと申しますると、元と不法行為の規定に依て保護せられますものは人に固有致して居ります所の権利----固有するというては穏かでありませぬが、生命、財産、身体、自由、名誉等は悉く持って居りまする。その他の権利というものがこの債権の規定に依って自ら保護されるようなものであって、言わば極く広い私法上持って居りまする各種の権利がこの債権を認められて居りまするが為めに、まず第一に保護されるものであろうと思います。そうするとその関係致しまする所が甚だ広いのでありまして、若し人が充分に注意をし又正当の方法を用いて行為を為しましても、それでも或場合に於てはこの不法の制裁とも称すべき一つの賠償の義務が生ずる。斯ういうことになりましては各人の働き、自由の範囲というものが甚だ不確かなものになります。各人の生活の範囲というものを互いに制限して之を調和し各人の権利の行施というものは互いに制限調和するというのは法の目的でありまするならば、どうしても充分なる注意を以ち充分なる精密の方法に依ってやるものまで、法律が或不利益な結果を負わせるということは出来ぬものであります。いやしくも人の行為というものが原因となってその原因よりして一つの損害が生ずる。その損害を賠償せしむるというのが若し一つの法の規定になりました時に於ては、取引の発達も害しましょうし、ダン々々各人が共同生活を致して居りまするに就いては種々の難しいことが生じて参りまして、人々が安心して、つまり生活を営むということが出来ぬ位のことになるでありましょう。もっとも反対の諸国に於きましては損害というものが出来ればその損害を元の通りに直すように、その損害の原因の正と不正とを問わず必ず元の通りに直す。その結果を元の通りに直すという方だけを見て居ったのでありますけれども、それでは近頃の生活の有様にはどうしても適いませぬのでありますからして、それ故に若し各人が充分に注意をし充分なる方法を以てやっても或事が起った時には、是が為めに損害を受けました者は、やはり天災と同じことで一つの遇然の出来事と見るより仕方ない。社会に住んで居れば、それだけのことは我も人も覚悟して居らなければ人と交際をすることが出来ぬ、社会に立って生活をすることが出来ぬ、という覚悟がどうしてもなけらねば徃けないと思うのでございます。で今度ドイツ民法草案などが出来ました時にも或学者は之に批評を加えまして、どうしてもこの過失主義とでも申しますか、斯ういう主義を執っては行けぬ、原因主義に因らねばいかぬという説を称えた者がありまする。けれども実際の立法問題となりましては、その説は遂に採用されることが出来なかったのでございます。諸国の法令もこの点に就きましては一致致して居ると思います。イギリスはこの点に於ては如何にも疑わしいようでありまするが、是も能く調べて見まするというと、どうしても過失主義に帰して居るものと私は考えまする。幾らも判決例などもありまするけれども、到底自分の過ちというものがない場合には決してその訴権というものが成立致して居りませぬのであります。又学者の議論もありましてもこのロルアズプルパアというローマ法の二要素を議論致したということに就いては、イギリスもその説を異にしない。唯之をホロスなどと申して居ります。イギリスでは未成年者でも責任ありと致した。それから心神喪失、気違いの如き者でも責任があるということの判決例があるという所から見ると、故意・過失などというものは要らぬことのように見えまするけれどもが、それ等の例に因ても皆それに就いて過失というものを認めて皆判決に為って居ります。唯この点に於て債権を認めまするに就いてはイギリスは最も諸国よりは広い範囲に認めて居るということであって、その理由に就きまして原因として故意・過失というものが要らないという方のことは幾ら調べて見ましても出て居ないようであります。それ故にいわゆる原因主義とでも申すべきものは今の所ではもう学者の議論だけに存して居るという位のものであります。吾々に於きましてもどうもこの故意・過失というものが何処までもなけらねば、之に依ってその心の有様というものがなけらねば、債権を要需されるということは不都合であるという考えよりしてこの原則は採りませぬ。この点に於ては既成法典とは異なって居りませぬ。又第二の要素は権利侵害であります。この点は是までの諸国の規定に於きまして、至って漠然と書いでありますけれども、しかしながら帰しまする所は皆権利侵害、その人の生命とか財産とか或は名誉でありまするとか、何か不法の権利と認めたものの侵害でなければ債権を生ぜしめないということには何れの国の規定も帰するようであります。既成法典も、つまりそれにはなることでありましょうが、しかしながらこの点に於て「他人ニ損害ヲ加ヘタル者ハ」と直くに結果の方だけに書いてありまするので能く明かではありませぬ。とにかくこの既成法典の三百七十条の規定はこの点に於ては甚だ不完全と申しましょうか不明瞭と思います。如何なる損害でも、如何なることに依って生ずる損害でも宜いか悪るいかということは、総て分りませぬ。一番諸国の規定の中で簡単な書き方の一つでありまする。でこの処の権利と申しまするは元より財産権ばかりの積りではありませぬ。唯の損害というものは、之は或は故意又は過失に因って他人に直接間接に損害を掛けることもありましょう。しかしながらその権利を侵すという程度に至りませぬ時に於ては債権を生ぜしめない。第三はこの損害の発生でありまする。「之ニ因リテ生ジタル損害」、この損害の発生ということに就いては幾らか諸国規定を異に致して居ります。既成法典はボアソナードの説明を読んで見るとその中にこの損害を加えたという字は財産上の損害に限ってあるようであります。名誉を毀損されたのでも、是に依って財産上に損失を蒙った、身体を害されたのでも是が為めに財産上に損害を蒙ったとか財産上の損害に帰するのでなくてはいかぬという風に限ってあるのであります。本案は元より損害と申しますれば有形無形等に含みまする積りであります。この点に於ては既成法典と既にこの債権の性質の所で範囲を異に致しましたから、この処もそれと同じことにするということは既に前より分かって居った積りであります。債権の目的等に就いては財産上の目的に帰するものでなけらねば徃かぬという方の主義を既成法典では採り来って居ります。本案ではこの目的は財産上の目的たることを要せぬという主義を採りました。それは既に吾々の中から前に説明致しました所であります。無形の損害というものを到底この賠償の一つの標準というものに入れることにしなければ、近頃の社会の需要には適わぬものと吾々は考えました。唯財産即ち物質上の人の利益というものだけを法が保護するということは如何にも狭ま過ぎることであって、人の生活上物質上の利益よりかなお他の利益を欲する人も幾らかありますからして、有形無形共に之を含む方が宜かろう。でこの権利侵害ということがありまして無形の侵害だけを生ずるということに付きましては、必ずイギリスなどにありました所の議論に付いて一つの疑が生ずるであろうと思います。即ち権利を確かに侵害した行為というものは故意又は過失に因るのであるけれども、物質上何も損害を蒙ったという証明は出ない、例えば人の境いに片足踏み込んだ、或は彼の選挙に際して投票を壊わされた、しかしながら選挙せんとする人は選挙された、少しも損害はない。是が必ず損害と言われるか言われぬかということに就いて実際上争いが生ずるかも知れぬ。しかしながら本案の如く致して置きますれば、必ず法を設ける目的だけは達するものと考えまする。でこの損害というものが有形のものに限りませぬ時に於ては、例えば片足人の地面に踏み込んだというような風のことが或は所有者の感覚を大変害するとか、或はそれが先例と為ってそれが為めに他の人も片足踏み込んで差支えなければ両足踏み込む。その境を屡々人に通行されて遂に境がなくなって損害を蒙る恐れがあるとか、そういうような風のことがとにかく権利侵害というものを発生するということが証明せられまするならば、この不法行為に依り訴を起すことが出来るということだけの範囲に致して置きますれば、充分実際上の需要に適するものであろうと思います。で権利の侵害それ自身でそういうような何も有形無形、少つとも侵害と称すべきものが何も無いのに訴えが起せるや否やということは、是は学者の議論に任せて置いて私は充分なものであろうと考えるのであります。故にその行為の基となりまする意思の有様というものは、積極的に消極的に故意又は過失でなけらねば行かぬ。行為というものはその行為が権利侵害にならなければ行かぬ。その権利侵害からして損害の発生というものがなけらねばならぬ。是だけの三つのことを要素と致しましたのでございます。財産編の三百七十条第二項第三項は前に説明致しました理由に依りまして本案には之を省きましたのでございます。
穂積八束君
ちょっと質問を致したいのでありますが、是は私が修正の意見を述べるのではないのであります。大層詳しい御説明で能く分りましたが、今の御説明の中に「故意又ハ過失ニ因リ」ということの原因がこの義務の生ずる一つの基礎である、随分昔の法理に於ては損害があったならば賠償するという極く簡単なるものであったけれども、近世の法理に於ては故意又は過失に因って他人の権利を侵害した場合に於きまして損害賠償を請求する権利があるということが、たとい学者の議論は採らなくても実際上必要であるということに私は承知致しましたが、なるほど私は素人のことで能く分かりませぬが、何れ斯うなければ行けますまい。しかし又近来の学者の説を聞いて見ますると、随分有力なる人がこの民法の趣意に反対の意見を抱いて居るようであります。それが故に私が賛否を決する為めに今少し御説明を願いたいと思うのであります。その点は他でもありませぬが、近来の経済学者とは公法学者とかいう人の著書を見ましても大層近頃は是はヨーロッパ社会のことではありますけれども、社会的立法というものが余程実際問題となって居ります。それは民法や何かと法典には実例がないか知りませぬが、私は一々調べて来てこの処に申上げることではございませぬけれども、元より起草者も御承知の通りにドイツ辺りに於きましても、この損害賠償の請求というものは総て損害があったならば賠償をさせるというような主義の立法も随分あるように思います。蓋し社会の有様を見まするというとなるほど己人的の関係から申しましたならば、無論御説明の通りの理由でありましょうけれども或場合に於ては、社会の貧富の程度等が甚だ不平均になって来ると一方に於ては祖先伝来の財産を以て数万人の職人を使ふような者もあります。甚だ危険なる機械を以て危険なる事業を営む、侭かに一分一厘違えば忽ちにして命を捨つるような危うき仕事をするに僅か五十銭か一円の賃金で仕事をさせるというような者もあります。又随分鉄道だとか何とかいうものが盛んになって来た時に於きましては、一方に於ては又従って他人に危害を蒙らしむるような事が生じて来ようと思うのであります。そういうような大きな鉄道会社のような責任というものに就いてはこの故意又は過失等のことは問はずして、いやしくもたとい充分なる注意をし当り前の方法を以て営業をして居ったに致しました所が他人に向って財産その地のものに損害を蒙らしめたならば、それに就いて賠償をさせるということは則ち社会的の観察に於て公平であるというような考えが動々ヨーロッパなどの学者の間に行われて居るのであります。そういうような有様でありますから「故意又ハ過失ニ因リテ」ということはなるほど一般の規制としてはもっともらしくも採れますけれども唯御説明の中に立法例には殆んど之れに反対したものはないというような御説明もございましたが、随分そういうような立法は私は確かにあることと思うのであります。一方に於てはそういうような必要があるにも拘わらず、なおこの主義を執らなければならぬのでありましょうかその処等の所をちょっと一言附け加えて御説明を願いたい。
穂積陳重君
近来の立法が、即ちこの社会というものを余程眼目に置いて規則を立てるということはただ今御述べになりました通りでありまして、本案の執りました主義もそれに依って、やはり民法の規制として斯うならなければ徃かぬ積りであります。元より段々段々近頃に至りますると種々様々の営業又は種々様々の団体或は機械とか学問上の思想や何かの発達とかいうような風のこと、或営業を為し或生活を為しまするに就いて他人に特別なる危険を及ぼしまする場合が幾らもあります。それは鉄道であるとか或はその他の運送業でありまするとか製造業でありまするとか、そんなものに就いては並に生活を致して居る者よりは別段の有様に居る者でありますから、或場合に於ては故意又は過失というものが無くても、いやしくもその事業よりして損害が生じましたならば、必ず賠償をしなければ徃かぬというように特別法を以て義務を負わせるということは吾々に於ても少しも反対ではない。又そういう場合があるじゃろうと思うのであります。しかしそれをこの民法の規定として執るべきものであるか否や、通常の生活をして居りまする者を元として執るべきものであるかと云えば、それは執られない。それであたかも社会の発達上斯の如きものがあるからして、随分真面目にその事をして居っても時としては法律が損害賠償を命ずる。一般の為めにその人は少しも遇ちはないけれども損害賠償を命ずるというのは止むを得ざることでありまするが如き皆通常の生活をしてそうして同じ社会に居る人からして損害を蒙ったならば賠償を請求することが出来なければならぬという。この裏の方を咎めるのも止むを得ぬ話であって、個人主義に依れば原因結果を別にして如何なる損害があってもその損害を元の通りに直すという方が却って宜いかも知れぬ。しかしそれでは殊に生活に不便を生ずるものであるからして、あたかも或事業を為す者がその原因結果に拘わらず責任を負わなければいかぬという双方共社会の為めに止むを得ずそれだけの責任がなければいかぬということであって、表と裏とありまするが帰する所は酷く違わぬようであります。或場合に於きましては特別なる法律を以て特別なる生活を栄みまする者に就いて故意又は過失がなくてもいやしくもその生活の仕方よりして損害が生じましたならば、之を償わなければいかぬという特別法が出来て来まするのは敢てこの案がありましても妨げる所ではない。又或場合に於ては必要であろうと思います。
横田国臣君
今度の不法行為の賠償というものは、単に財産ばかりでない。その点に付いてちょっと御尋ねを致します。例えば悲みを受けるとか快楽を失うとかいうようなものも、やはりこの中に這入れる御積りでありますか。
穂積陳重君
それはその証明というものが出来まするならば、元より裁判官がこの中に入れるということは少しも搆はぬ。
横田国臣君
例えば、親が殺されたと云うのは・・・・・。
穂積陳重君
親が殺されたということは、金でその償いさすることは出来ませぬが事情を斟酌するということに就いては、裁判官が最も広い働きの範囲を持つ方が宜かろうと思います。本案の主義も略々その主義て居ります。イギリスなどでは公然と責罰賠償などということも法律文にはありませぬが、それ位に認めて居りますけれども、そう表向きではありませぬが、とにかく損害という方は裁判官に最も広い範囲を許す方の精神は執る方が宜かろうと考えます。
横田国臣君
その事に就いて御尋ね致しまするが、そうすると「他人ノ権利」というこの権利が幾分か狭められはせないかと思う。例えば、親が殺された、それはその親が権利を害せられたに違いないが、その子自身が権利を害せられたということになるだろう。それでこの権利というものはどうしても法律上で人の持つべきもの、持って居る権利と定まったものでなけらねばなるまいかと思うでありますが、そうすると快楽を失うとか悲みが生ずるとかいうような場合は、この権利というものに這入らぬ場合が多くはないかと思うのであります。それで若しそういうものまで這入って償わせるということになると「他人の権利」ということに少し障はりはせぬか、それともそういうことは最早許さぬことになるのであるかということを御尋ねを致します。
穂積陳重君
少し私は御問題を誤解して居ったかも知れませぬ。侵害という中にそういうことも這入るがそれが権利の侵害か侵害でないかと云えば、それは権利の侵害ではない。とにかく賠償させるに就いてはなるべく裁判官が広い範囲ということであって、例えば親が殺されるということは素より他人の性命に就いては権利は持って居りませぬ。それに就いて自分が扶養者を失ったとかいうことでなければ自分の権利になりませぬ。この損害賠償などというものはもちろん金が通則でありまするが、その金高を積りまするに就いてはなるべく裁判官がその額を斟酌するということの余地を存して、とにかく賠償しなければならぬということは悲みとか死亡とかそれは自身だけではいけないのであります。
議長(箕作麟祥君)
穂積さん、この権利というのは財産上の権利という意味ではないのでありますか。
穂積陳重君
もちろんその積りではないのであります。それ故にドイツなどでは第一読会の一番初めの条の末項に「生命、身体、名誉、自由の損害も亦権利侵害とす」とかいう文章が殊更にあるのですな。往々この財産上だけになって居ったものもありまして、それ故に初めはドイツの不法行為に関する規定を大分書いて見ましたが、それは略しまして終ひの七百三十一条なとで自らそういう疑いはあっても分りまするように、彼処へ殊更に数へ立てたのであります。
議長(箕作麟祥君)
それはなるほど七百三十一条はそうでしょうが、この七百十九条は不法行為の原則てすな。然るに民法でいう所の権利というのは財産上の権利であるようですが、この処の権利は財産上ばかりではない。大変広い権利というので宜しいということでありますか、それをちょっと伺いたいのであります。
穂積陳重君
多分斯う書いて置きましても、且つ七百三十一条などかありますれば、広い意味に読めようかと思うたのであります。なるほど民法上権利と云えば財産権のようでありますが、しかし監督する権利があるとかいうようなことなども親族方や何かからも出て来るかも知れぬのであります。若し之が不明でありまするならば明かにする方は如何様になりましても宜しうございまするが、とにかく原案は広い意味の積りではあるのです。
土方寧君
この不法行為の箇条は十四個条か随分沢山ありますが、他の箇条は皆無能力者は責任はないとか、無能力者を監督する人に責任があるとか、或は使用人のことに就いて被用者が第三者に損害を加えたときには使用者が責任があるとか、注文者の責任とか、工作物の占有者の責任とか、色々責任の問題が書いてあるので、不法行為に就いての責任の規則はこの七百十九条一箇条であるように見えると言っても宜い。それで之は大変大切な箇条であって範囲も大変に広い。民法の規定の中で債権の方は債権債務と相対してこの関係も範囲も明かであります。法律の規定に依って充分に保護されて居るようであります。それでこの債権というものは権利の幅はどれだけであるかということは実際殆んど分らぬようになって居る。唯是は権利の理想を言い現はしたに過ぎないので、その為した事柄が果して権利侵害になるか否やということは問題が起る。その問題の決しよう次第で前に申した弁別した権利が定って来る。大切な範囲の広い箇条であってこの規則の書き方をどう書きましても多少の適用上疑いは生ずることであろうと思う。一箇条に色々なことを詳しく書くことも出来ますまいが、そうかと言って格段なる事柄に付いて不法行為というものを契約に於けるが如くに条項を多くして書く必要もないかも知れぬ。成文法の所に於てはそういう立法例もないようであります。イギリス法などでは各種の契約に於けるが如く沢山の規則があって、それが為めに債権の範囲なども他の国よりも一層明かになって居るようであります。それを成文法にして民法の規定にする必要があるかとかいうことは余程疑わしい。まず不法行為の原則を定めて置いてその適用は場合々々に依って裁判官に任せるというより仕方がありますまいが、そういうことにすればこの簡単なる箇条の意味だけはなるべくは明かにして置きたい。この箇条に就いては先刻の御説明になった所を聞きますと三つの要素がある。即ち故意又は過失、権利侵害、損害の発生この三つの要素があるという御話しでありましたが、損害の発生ずるというものと権利侵害というものに就いては御説明の通りで宜かろうと思う。故意又は過失というものに付いてもイギリス法はどうであるかという御疑いもありましたが、詰る所本案の主義と同じようなことであって、之も私は御同意するのであります。唯格段なる不法行為に就いて如何にも人に損害を及ぼしたのはいかぬ、なお過失があったと否とを問はず賠償をしなければいかぬということを認めて居るようでありますが、それは例外の話で原則としては故意とか過失とかいうことになって居ると思う。それで私は是で宜かろうと思いますが、唯この箇条で示さんとする所は即ち賠償の義務の程度であります。程度だけは何とか定めて置きたいと思う。どうも是では能く分らぬ、分らないのではない。即ちその不法行為というものが原因と為って損害が生じたならばその損害のあっただけの賠償をしなければならぬということになるであろうと思う。斯う書いてあれば、それは民法上の損害賠償の主義に適ったものであるかどうであるか少し疑わしいと思います。それに就いてまず本文の文字に就いて伺いたいのはこの他人の権利というのは財産上の権利のみに限らぬということは分りましたが、斯う書いては債権も這入りましょうか。債権に就ては債権の方の規則があるから自ら宜かろう。不法行為以外の原因より生ずる債権に違いないが、それもこの「他人の権利」という中に這入るか這入らぬか、つまり債務者か履行を怠ったというのは債権者の権利を侵害したものと見て宜かろうと思う。そうすればこの中に自然這入るが、しかしながら不法行為以外の原因より生じた債権に就いて債務者が履行を仕なかったその賠償に就いては他の規則があるからその方で行く。自然この適用がないという考えであろうと思いますがその点を伺いたい。
穂積陳重君
もちろん「他人ノ権利ヲ侵害シタル」とある以上は債権も這入るのであります。這入りますが相手方が之を侵害致しましたならば、特別規定があるものでありますから、その方に依るのであって、而してそれも不法行為たることはもちろんであります。それ故に御見解の通り、この処の適用が自ら無くなるのであります。それから債権も相手方以外の者が害したのはその成立を妨げるというようなことはもちろんこの処へ這入るのであります。
土方寧君
この「他人ノ権利」という中に債権が這入るのであって、債権侵害の場合には別に規則があるということは能く分りましたが、それにしても前後合はぬように思う。というのは債権の所の四百五十条には一つの義務の程度が極めてある。それから四百十六条には総て損害賠償の額は金銭を以て裁判所が定めるということになって居る。この四百十六条の方はとにかく七百三十条に於て準用することに為って居る。損害賠償は何も金銭に限る訳でもありますまいが、純然たる不法行為に基く賠償であってもやはり金銭を以て額を定めるという規則を七百三十条に於て準用するということにしてある。斯ういう風に四百十六条の規制を七百三十条に於て準用すると断って置いた所の趣意は、その他の損害賠償、四百十四条以下の規則というものは適用せられぬということであろうと思う。けれどもそうなると、この処にどうかという疑いがある。債権債務のことに就いては損害賠償を四百十五条に於て制限してある。当事者がその事情を予見し又は予見することを得べかりし損害というものに限ってある。債務を履行しない、債権を侵害した為めに生じた損害となって居る義務を怠ったということが原因でもちろん生じた損害が証明せられて、それを金に積ったならば大変なものである。実際証明せられたならば皆払うには及ばぬ。義務を怠っただけの損害、債権を侵害しただけの損害、それは予想して居ったものと見なければならぬ。損害だけで宜いというようなことに制限してある。然るにこの不法行為に就ては他人の権利を侵害して他人に損害を及ぼしたならば賠償をしなければならぬということが言ってあるだけで、是に関する制限の規則は少しもありませぬからして、つまり損害のあったということを証明する不法行為が原因で損害があったということを証明せられた以上は、その制限がない。それで債権の規則と債権以外の規則と権衡を得たるものであるかどうであるかというのであります。むしろこの処などの場合には賠償という他に幾らか加害者を責罰するということも這入って宜かろうと思います。けれどもそういうことは本来刑法の方に譲らなければならぬ。しかしこの不法行為に基く損害賠償に至っては無制限である。不法行為が原因て損害が生じたということが証明せられた以上は無制限であるというのは、債権の方で制限した理論と如何にも権衡を失するように思う。つまりこの七百十九条のままにして置いたならば四百十五条にあるような制限はないということに解せらるると思う。それがどうも理屈が分りませぬからその点を伺うのであります。起草委員はそうなっても宜いという御考えでありますか、如何でありますか。
穂積陳重君
本案の採りました所は、略々その御質問の中にありました御論に含んで居るのであります。元より原因結果の関係がありまする以上はその原因に就いては一つの他の標準が定めてあってその結果たる者が証明せられます以上は、その結果の全部はその責任者が賠償の責に任せなければならぬというのがどうも相当であろう斯ういう考えてありまして、なるほどイギリスなどにも損害の沿革とかいう議論もあり又そういう規則もあるのであります。或点にまで及んでその処で打切らなければならぬ。しかし是も損害の沿革などを能く調べて見ると、畢竟余程の論理の力を用いぬとその結果は入れぬということに帰するようであります。間接の結果という位に帰するのであろうと思います。どうも是だけの予想が備はって居ってそれから損害が生じたという以上は、どうもそれを何処から切るかと言うことは法の規定としては難しいのであります。その処等は生きて居る裁判官に原因結果の関係があるかないかと言うことを任せて置く方が穏当であろうと思うて、斯ういう工合に案を立てたのであります。土方君の御議論も実際上大切な御議論でありまするからして、そういう御意見でありまするならば、損害賠償の標準の為めに七百三十条が丁度場所でありますが、彼処をも少し広くする方の修正を御持出し下すっては如何でありましょうか。それからこの処の債務の不履行の場合と権衡を得ない、是はなお御修正でも出まするならば能く自分の考えを伺かって置かなければ行けませぬが、この四百十五条の場合は当事者が或事を双方で目論んで是をやろうと思いました時に於ては、初めからの債務の性質というものが通常生すべき損害の場合に於ける賠償というものに限ってだけにあるものであります。それから唯前から双方の中にある目的を定めずして、一方が他人の身体を害するとか財産を害するとかいうことであると、どれ位のことが生ずるやらその場合に依って一向分りませぬから、いわゆるこの不法行為は千態万状の有様に於て生ずるものでありますから、通常生ずる損害を賠償すると云って置いた所がやはりどの位が通常生ずべきものであるかということか誠に分りませぬ。それで特別の事情から生じた場合でありましても、その時と場合或は損害を受けました人の有様であるとかそんなことであってどうも斯ういうことがあったが為めに斯ういうことが生じたということがあれば、その原因たる加害者という者も或場合に於ては大変に不運になりますのであります。それ故にこの方は原因結果を確かに証明しなければ裁判官は裁判をしますまいが、しかし原因結果の関係を予言することが出来ると出きないとかいうことは言いかねますることでありますから、斯の如き区別をせずしてやはり之はエラスチックになって居る方が宜かろうと思いました。殊に合議裁判や何かで大勢の例の賢明なる裁判官が裁判されるものでありますから、それに任せた方が安心と思うて斯うしたのであります。若し先刻の如き御意見がありますならば、七百三十条を修正する案にして御出しになっては如何でありましょうか。丁度彼処に四百五十条見たようなものを持って来れば・・・・・。
土方寧君
私の意見は七百十九条がこの通りであって見ると、つまり原因結果の関係が証明せられる以上はどれだけ大きな損害でも賠償しなければならぬというので無限になる。それは裁判官の認定次第で実際吾々の見た損害というものには出来ぬものだというので打切って仕舞うかも分らぬ。多数の裁判官が適当と思うた所で打切って仕舞えばそれが一番人に満足を興へるようになろうと思いますから格別のことではありませぬが、どうも理屈が合はぬように思う。債権の場合は御説明の通り合意に依って債権債務の関係を生じた時には当事者が債権債務の関係はどれだけのものであるかというと程度を見込んで居なければならぬ。しかしこの不法行為に倣って損害を生ずるということになると故意の場合であったならば、加害者の方はどうか分らぬけれども被害者の方は一向見込みはないと区別はありますけれども、しかしながら場合に於ても全体不法行為を為した者が無意であったならば、責任はないそれは過失のあった人の行為と見ることが出来るかも分らぬが、行為というものに就いては当事者が当時どれだけの結果を来すということは、それを目的として居ったとか希望して居ったとかいうことがないにした所が、誰れでも行為に伴ふべき結果は生じて居るべき筈である。自分の為した事からして以外の結果を生じた。能く考えて来たならばそれも前から見て居らなければならぬということも言えるでありましょう。或は注意深い人と麁粗つかしい人とあるから吾々人々に依って違いますけれども、つまりそうなって来れば一般の人を標準にするより他に仕方あるまいと思う。問題になった所の総ての事実というものに就いて仮定する話で加害者の格段なる人に就いては言えぬが、普通の十人並の人がその位置に立って居ったならば、斯ういうことをしなかったらば斯ういうことをすればどういう結果が生ずるということを想像して居ったものと見なければならぬというようなことで句切りを立てなけらばならぬ。たとい不注意過失があったにした所がその結果というものは被害者の位置に依っては大変違う。元と損害を受けたものを賠償するという趣意ですから、それで被害者の位置に依って加害者の払う額というものが大きくなったり大きくならなかったりするのは、理論から云えば正しいでしょう。けれども、それでは加害者の責任が大変重くなる。つまり刑法の制裁よりも重くなると思います。私の考えた所では、不法行為の損害賠償の責任を生ずる時にはその責任の程度は、その不法行為を為した当人だけに就いて言う訳には行きますまいが、その不法行為を為した当人と同じような日本なら日本の社会十人並の位置に立って居った人がどれだけのことは予想してどれだけのことは予想しないものと見なければならぬというような、その十人並の考えを標準にして程度を定めなければならぬと思う。その程度を定めて置けば即ち無限ということがなくなる。そうでないと民法上の制裁というものが重くなって、刑法上の制裁は重い筈であるのか却て軽くなるというようなことになる。どうもそれは如何であろうかと思う。それで文章には困りまするが、恰度七百三十条の方に往って、或は不法行為以外より生ずる債権債務に就いての賠償の責の規則をやはり七百十九条に準用するということにすれば、能く趣意が通るのであります。とにかくこの処で心配をするのは民法上の制裁が重くなるというだけの懸念である。この文章をどういう風に変えたら宜いか、まだ私は出来ませぬがなお多数が是で宜いということであれば、この箇条はこのままにして於て七百三十条に至ってなお考えて見て、その意見を出すことに致しましょう。なおちょっと伺って置きますがこの七百十九条は、例えば甲なる戸主があって役人か何かして居って一定の俸給を貰って居る、その者を過失できずを付けた、それが為めに役人が勤まらなくなった、その過失の為めに役を失う、それで今日の生活に困る、戸主に家族がある、その家族は戸主の俸給を以て食って居ったのか今度食ふに困る、というような場合には元より戸主は傷けられたのであるから、無論の話、それからして戸主から養料を受けて居った家族なども同じ人の過失の為めに権利を害されたというようなことになるには違いないと思います。そういう場合には戸主がまだ生きて居ったならば戸主自身から或は家族なら家族から加害者に対して、凡そどれ位のものを取れるということになりますか。或は又戸主が死んだ時には本人から請求のしようはないから相続人から請求する相続人が戸主の生きて居ったと同じような位置に立って、被害本人の権利を主張しその他の家族等もやはり加害者に対して損害を請求するそういうような場合、俸給を取って居った者が傷けられて死んだという場合にはどれだけのものを払ってやるという凡そのことでも分りますが、そういうような場合に就いてのこの七百十九条の適用は何うなりますか。
穂積陳重君
その問題に就きましては往々近世の法典に於ては箇条を置いてある国があります。吾々も初めはもっと大分詳しい案にして置かうかとは思いましたが、しかしどうも置かぬでも宜かろうと思いましたからして、それ故に遂に之を止めました。「権利ヲ侵害シ」と斯うあるのであります。それ故に戸主というものは、例えばその過失に対する扶養の義務があるとか或は或尊属親に対する扶養の義務があるとかいうようなもので己れの権利を害されるというものがあるならば、例えばその戸主自身という者が傷けられた場合に損害賠償を得て、それからしてそれで扶養の義務が続いて行きまするならば、それで一向差支へないが死んで仕舞うと仮底する、或は戸主からはそれが為めに扶養の義務を尽すことが出来ぬというようなことになると、扶養の権利と言いますかどうですか、権利者は権利を害されたに依って生ずる自分の損失だけはもちろん受けることが出来る。年金者なども前に明文がありましたならば当然年金を受ける権利がある。その年金者が他人の不法行為の為めに死んで仕舞ふて年金を受けることが出来なくなる。そうすると己れの権利を害された、それが己れの権利を害されたという範囲内に於ては行ける積りであります。唯私が書生を救助して居った並の救助であって、例えば私が傷けられて勤めらすることが出来なくなったというような場合には、是は権利でないからどうもその加害者に対して損害賠償を請求することは出来ない。畢竟権利の有無でもその境いが定まりまする積りであります。
議長(箕作麟祥君)
是は大変に漠然とした広大無辺の条でありますが、どうですか。この権利のことをもう少し伺いたいのでありますが、幅がないというと、例えば火事を出して一万戸も焼いたというと、残らず償わなければならぬのですね。そうするとどうせ銭の無い奴は償いは出来ないけれども岩崎が火事を出した。そうすると理屈は岩崎が一万も二万も皆身代を振って損害を償うということになるのでありますか。
穂積陳重君
何もないと、そういうことになります。
横田国臣君
今の失火のような場合には、大概予知すべきと予知すべからざるという所で、それは悪意とか唯の火事という所で行かれはしませぬか。過失である場合には東京中焼けるとかいうようなことには行かすして、ホンの接近して居るものが焼けるとかそれが若し悪意であったならば予知すべからざる処まで往くというような説は立てられますまいか、左もないと失火に就いては一つの何がないと今の箕作さんの言われる通りに、詰らぬことで妙な結果が起りはせぬかと思う。それは三菱であるならば幾分か分ける程の金があるか知らぬが少々の金持ならば分け折には十銭か二十銭になって仕舞うけれども、その位のことでその為めに身代を失うようなことになろうと思う。
穂積陳重君
損害賠償の標準に就いて或制限を設けるということは土方君から御論が出まして、吾々も能く考えて見なければなりませぬが、横田君の御説は予知することを得ると否との境でやってはどうであるかということでありますが、損害賠償に就いては心の働き即ち予知すべきと予知すべからさるということを以て定めるのとそれから丸で以外の結果、通常一般生ずべき結果斯ういう工合に簡単に定めると両方あります。両方ありますが火事などはどっちにしても困る。火事があれば何処まで焼けるというようなことを予想するということは誠に難しい。大変乾いて北風でも吹いて居る時に火を失したら沢山焼けよう。雨の降る時若くは雨上りの時は沢山焼けない。それを予知するに就いて大変広くその事を予知しなければならぬものですから、それから通常生ずべきと云っても客観的の働き、一遍火を失すれば通常何処まで行くかということは誠に分り憎い。とにかく制限を加えないということの利害得失は中々一言で断言わ出来ませぬが、火事というものは是は随分屡々あるものであります。若し必要でありますれば何か特別な箇条でも設けなければ行けますまい。どうもどっちでも消し止めは途中で消し止めるということは中々難しい。若し何があるならば何処までで火災を止めたならば宜いかそれは分らぬが何か明文がなければ救ふことは出来まいと考えます。
長谷川喬君
ただ今議長からの御尋ねで失火の場合もやはり之に含むという御答えでありましたが、私はそうではないだろうと思いますが、若しそうなるならば一つの例外がなくては不都合だろうと思います。私のそれが這入らぬであろうという考えは恰度刑法附則の五十九条に「但失火ハコノ限ニ在ラス」ということがある。この精神はたといこの民法に書いてなくともやはり刑事上の即ち失火の場合には適用になるのであろうと思って居りましたが、それは適用になってはいけないのでありますか。それからもう一つ序でに伺いたいのは「他人ノ権利ヲ侵害シタル者ハ之ニ因リテ生シタル損害ヲ賠償スル責ニ任ス」とある。他人の権利を侵害したのでなければ賠償の責任がないとなると、例えば伜が殺された、それが為めに葬式費用その他種々の費用が掛かる、殺されたが為めにそういう費用を生じたのである。それでそういう損害を親が受けて居る。けれども親の権利は何も害されたのではない。そうするとその費用の請求というものは親たる者が出来ないことになるのでありましょうか。或は葬式費用というものは必ず誰にでも一度は生ずるものであるからそれの請求権がないというようなことがあるかも知れぬが、しかし私の採った例にすると伜であるからして伜が成長さえして呉れたならば葬式費用は伜自身で持つのみならず、なお親に対して養料を給する等の義務まで持つのでありますから、親はそんな損害を蒙らぬのである。そういう場合は之に含むことは出来ないのでありますか、如何でありますか。
穂積陳重君
失火のことは私は気が付きませなんでありましたが、賠償処分、之は犯罪となった場合は附帯事項として何時でも訴えられるのですな。それで失火が丸で犯罪となりませぬ場合までに之を及ぼして行けるかどうかということを甚だ疑いまするが、多分精神的解釈を行けようと思いますけれども、こんなものはとにかく特別の場合だけに挙げてあるものでありますから、なるほどこの箇条が挙けでありますれば、失火がいやしくも犯罪になってその附帯事項となり得べき場合であり得れば、この箇条で行けましょうがしかし之で皆往けましょうかどうであるかちょっと私は疑います。故意の失火、故意ではもちろんいけますまい。それから過失は大概行くじゃろうと思いますが実際に於ては是は不都合はないかも知れぬ。それから葬具費のことは御もっともなことであります。是は一番疑いがあるのでありましてドイツ民法、スイス民法、その他ザクセン、プロイセン、バイエルンなど皆特別法があります。特別な箇条がありまするのは御察しの通り葬具費というものはどうせ受持たなければ行けぬものでありますから、葬具費を受持つ義務者というものは損害を蒙って死亡した為めに持ったのではない。そういうことがあるから殊更に葬具費というものは負担しなければならぬ明文のある所は皆そうなって居ります。明文を以て断わるというのは若し明文がなければそれはいかないからという所以であります。是も色々吾々の方で協議致して見ました所が若し例えばそれが為めに親が殺される時には・・・・・。
長谷川喬君
伜であります。
穂積陳重君
そうです、伜が殺される。しかしながら通常の場合に於てはもっと長く生きて居れば自分が受持たぬでも宜いのである。是であると葬具費は何時も受持たなければいかぬという議論が這入るのでありますから、そういう場合には損害を蒙ったのであるということが言える。それからどうせ自分に来るものであるというような場合であれば、是が為めに損害を受けたというようなことは言えない。そうすると治療費や葬具費色々のものを持出さなければならぬ。葬具費の費用というものは加害行為があった為めにその人の負担に掛かるという場合には、それは取れるということで宜かろうというので遂に明文を置かなかったのであります。
長谷川喬君
そうすると親に請求権はないのでありますか。
梅謙次郎君
その場合は無論ある。
穂積陳重君
随分それは実際上問題になり易いことではあるのです。
土方寧君
失火の場合でありますが、過失の失火で類焼した者に総て賠償しなければならぬということになっては大変であるという点から議論が出ましたが、刑法の附則では失火は宜しいということになって居る。しかし刑法の附則があるからこの条は広くなっても差支へないということは分ったようでありますが、それは似寄ったことが沢山ある。鉄道会社とか汽船会社とかいうものなどにある。例えば過失か何かで以て一列車に乗って居る人か皆死んで仕舞う、一汽船に乗って居る人が皆死んて仕舞うようなことがある。それは会社の傭員たる所の船長なら船長の過失であるから、それだけの資産があって総て賠償することが出来るならば賠償させて宜いという公益上の議論はありましょうが、しかしながら随分それはえらい話である。失火の場合は多くの家を焼いて仕舞うのでありますが、それでなく人命に関することで刑法に過失殺傷の罪というものがあって、その制裁は二十円以上二百円以下の罰金で済むことになって居るのに、民法の規則では無限のことになって居る。是はどうも権衡を失うだろうと思う。人命に関しては他のものに就いてよりも余計注意すべき筈であるとすれば、刑法の制裁を重くして置いた方が宜かろうと思う。幾ら民法に制限を附して置いても、若し幸にして会社が有資力者であったならば被害者は賠償を受けることが出来るから、被害者に取ってはそれは幸福である。それが為めに或は加害者の身代を倒すようになるかも知れぬ。しかしながら加害者が無資力者であったならば仕様がない。本来人間がこの社会に居る間に於て若し類焼することが厭やだと思うならば、東京などに居らぬで田舎に往って一軒家を建ててその処に居れば宜い。しかしながらそうではなくして都会に住んで居る者ならば、元より覚悟の前で住んで居るものと見なければならぬ。そういうような議論から云えば人の過失に困って生じた損害は何処までも賠償しなければならぬという議論は間違って居りはしますまいがと思う。しかしとにかく私は失火の時には刑法の附則があるから是で宜しいということでは、まだ安心が出来ない。外の場合に於ても広く皆損害を賠償しなければならぬというたならば、実に大変なものである。それは加害者の普通の者に就いて言うたならば殆んど有名無実になろうと思う。加害者が有資力者であったならば、それは損害を賠償することも出来ましょう。それが為めに遂に身代を倒すに至るかも分らぬ。そういう場合に被害者は幸であるけれども、しかしそれは決して普通の人に就いて言うべきものではない。どうも普通の汽車とか汽船とかに乗って死ぬようなことがある場合には、それは多少危険を見込んで居るのだけれども、しかしその汽車とか汽船とかいうものに就いては大変に重い義務を負わせるということにしても公益上必要でありましょう。若しその義務を怠った時には刑法の制裁を重くして置いで宜しい。この民法の方の程度は十人並の人に就いて制限を設けなければ全く有名無実というようなことになって、殆んど空文に属するだろうと思います。
穂積陳重君
ただ今のことは後に実際の議論が必ず出るでしょうから、格別詳しく論するには及びませぬが、しかし権衡云々のことはなお御一考を煩はしたい。丸で権衡を得ないでも宜い。丸で無債の時に千円払はせることがある。刑法としては僅かの違警罪とか或は二三円の罰金で済む時も一万円も払はせるということもありますから、刑法が二三円で済むのにこの方が一万円も二万円も払はなければならぬ。即ちその権衡を得ぬということは一向搆はぬものじゃろうと思います。
梅謙次郎君
まだ修正案が出て居りませぬから今までは拝聴して居りましたが、しかし土方君の如きはしきりと修正案でも出そうかという語気で御熱心に御述べのようでありますが、之は随分主義問題で中々大切な問題でありますから、私の意見を述べさして頂きたいと思います。私は債務不履行の場合にも損害賠償の所の制限は省いて頂きたいという考えを持って居ったのであります。それは債務者はいやしくも債務を負うて居る、債権者は債権を持って居る、債権というものは著しい権利で法律が保護するものであるならば、相手方が債務を負うて居りながらその債務を履行しない以上は、それより生ずる費用は総て負担しなければならぬのは当然であるということで、現にあの損害賠償の所で制限は私は省いて頂きたいという考えであったのです。之は外国にも例が少ないとか又実際の上からそういう場合になって居るという話で、とにかく吾々三人の間でも私の意見は採用せられず、又この議場に於ても採用せられなかったのであります。私もそれは初めから予想して居りましたから、修正案も出しませぬでありました。幸いに当時土方君が修正案を出されましたが他の御方は賛成なさらないで潰れたのであります。そこでも債務不履行の場合は純然たる理屈から云えば、私の申した通りであります。けれども是は二つのことを考えなければならぬ。一つのことは債務不履行という場合は法律家の眼から見れば、なるほどそれは一つの過失がある不履行という以上は、で初めから履行の出来ぬということは知って居らなければならぬ。それを知らないで出来るだろうというので約束をしたならばそれが過失であるから、たとえどういう事情で制限に至って履行が出来ぬからと云ってもそれを止むことを得ざる事情の為めに履行が出来ませぬと言って不履行の責を免がれることは出来ぬ。それはそうなくてはならぬと思います。けれどもしかし是は純然たる理論からはそう言えるけれども、それは随分酷な話で今土方君の言われたような論拠から云えば、債務不履行の場合には初め債務を負う時には予想して居らなかったのである。後日事情が生じてどうも履行が出来なかったというような場合は、随分無責任で宜いという理論が立たぬこともない。しかし無責任ということは法律上認められますまい。けれどもそれが為めに債務不履行の場合は不法行為の制裁より緩くして置く理由がある。如何となれば債務不履行というものはこの処にいう不法行為よりか事情に於て多少違う所がある。それからもう一つの理由は之は契約上その他法律行為より生ずる債務に就いてしか適用のないことであります。けれども法律行為から生ずる所の債務に就いては当事者が初めどれだけのことを望んだかということを見るのが一つの標準であろうと考えます。たとい債務を履行するに就いて以外の事が生じたにせよ、それは以外のものであるから言わば転債である。初めに予期した事柄だけに就いてさえ責を尽せば宜いという議論も私は正確とは思いませぬけれども、多少理屈があるとその事を認める。この二つの理由から、前には予知し得られるような、即ち通常称ずべき損害だけを賠償するということになって居ってそうして特別の場合に限ってそれに余計の賠償を為すということになったのは私は不賛成であるけれども、多少の理屈のあるということは認めて居ります。之に反して不法行為の場合はそういう事情はないのです。他人の権利を侵したということに余議なくなったのではない。自分でそれは避ければ避けらるべきことをやったので、それは求めてやったか不注意でやったかそれは知らぬ。とにかくやったのである。この場合に於て自分の怠り又はこの処に関係のない人の権利を侵して置きながら、避けられるのにそういう権利を侵して置きながら、そうして後からそんな損害が生じたか知らぬが、自分はそんな損害を生ぜしめる積りでない、そういうことは思いも寄らぬことであると言って責任を免れようというとは無理な話であります。それ故に法律の表から、たといそれが為めに自分の身代を皆出した所が、向うの損害を償う訳にはいかぬにしても、それは身代のあらん限りは出して償わなければならぬ。それが厭やならば初めから他人の権利などを侵害せない方が宜しい。故に私の考えでは法律上の表面からは失火の場合と雖も、岩崎の如き大きな身代が丸で無くなって仕舞っても止むことを得ない。自分がそういうことをしたのがわるい。又船を覆へすとか汽車の軌道を外すとかいうが為めに数十人数百人の生命を損して、又それが為めに荷物でも汽車一杯の荷物をヒツクリ返へせば大概の身代は潰れて終ふ。そういう場合は無論過失又は故意であったならば責は負わなければならぬ。それに法律の表から制限を附するということは、如何にも法律というものは人の権利を保護しないということになって、そういうことは面白くないから民法に書くのは大不賛成である。それから日本の家屋に就いては構造から言っても誠に家が焼け易いのでちょっと火を失したと云っても石造とか煉瓦造とかいうものであれば、家の内部が少しばかり焼けて済む。日本の家であると風でも吹く時には数千戸数万戸を焼くようなことがある。そういうような家の構造の所であって見ると、なるほど幾分か今土方君の言われたように東京に住まう者は自分の家を人に焼かれることがあるということは覚悟して居らぬければならぬような事情もある。又一方に於ては元より過失者又は悪意者というものはどんな責任でも負うて宜い理屈ではあるけれども、日本には失火というものが毎度ある。その失火の度毎に何時も身代を残らず差出さなければならぬということになるのは随分酷な話で、そうして見た所が火を失するような家は金持でないのが多い。金持などの家であると取締がチャンとしてあるから滅多に火を失するようなことはないのでありますから、名義だけで実際何にもならぬであるから詰らぬということは随分日本では言えるのであります。それで刑法附則の例外があるのは私の希望を言えば削って貰いたい。若しこの規則が出て特別法は廃せぬということになって、多分廃されぬという方になるであろうと考えます。施行条例などで如何様になるかは存じませぬが、外の場合に及ぶまで今の例に御出しになったように汽船汽車の損害に至るまで、やはり制限を附する方が宜かろうという考えは私にはどうしても了解することが出来ませぬ。一言意見を述べて置きます。
横田国臣君
私は先刻も申しましたが、この処に「他人ノ権利ヲ侵害シタル者ハ」とある、それでこの他人の権利と誠に是は明細にされたのは、私は甚だ有難いことであるけれども、この権利を明かにしたが為めに漏れるものが出来て来るのが甚だ遺憾であります。それでどうも権利の侵害という所から見れば、則ち損害というものは権利なるものに限らねばなるまいと思うのであります。しかし起草者の意見はそうではなく悲みとか或は苦みとかいうものも籠めるということである、私は是を籠るのは宜いのでございますけれども、唯この処からずっと見るとどうしても「権利ヲ侵害シタル者ハ之ニ因リテ生シタル」とありますがそれまで籠めるというようには解し兼ねる。それは今の親が殺された。殺されたに就いて何分親は年寄りであった。償うのは唯葬式費用、或は妻が殺された、妻は又娶りさえすれば宜いか知らぬが、子が殺された、子は又産むという訳には往くまい。けれども兎も角その子は自分は金持であるから・・・・・・。残るものは葬式費用、葬式費用の如きは先刻長谷川君から御話もありましたが、それはそれで権利を害されて居るのであるからそれはそれで宜かろうと思うのである。もっとも起草者は斯ういう文の書き方にして、既成法典よりも広くなったというけれども、この文の書き方は狭くなって居る。却てこの処は「故意又ハ過失ニ困リ他人ニ損害ヲ加ヘタル者ハ其賠償ノ責ニ任ス」とかいうような風にする方が私は広くなって宜いと思うのです。それで自分がちょっと気付かないで居った苦みとか悲みとかいうようなものは償ないを求むることが出来る。そうして子が殺されたとか親が殺されたとかいうような非常な悲みの方は、取れないというのは面白くないと思います。その上実は深く論して見たならば、それも権利があるのじゃと思うのでは今の法律社会ではそれには権利というものはない。能く穿鑿して見たならば、自分が親を持って居る権利、子を持って居る権利というものはあるべきであるが、如何せん今日の法律上ではそういうことは出来ぬ。それで私はこの「他人ノ権利」とかいうような字を取って終っても決して害はない。是は「損害ヲ加ヘタル者ハ」というようなことにした方が宜かろうと思うのです。損害がなけらねば出る訳はない。どうか起草者に於ても御同意を願います。
穂積陳重君
横田君に御答え致すと共に御相談かあります。なるほどこの前にも申しました通り、権利侵害ということがありました以上は、その損害賠償に就いては七百三十一条に「生命、身体、自由又ハ名誉ヲ害シタル場合ト財産権ヲ害シタル場合トヲ問ハス裁判所ハ財産以外ノ損害ニ対シテモ其賠償ヲ為サシムルコトヲ得」とありまする以上は、大変そういうような悲みとか苦しみとかそういうような風のことまでも或場合に於ては裁判官が入れる余地がこの処にあるじゃろうと思いまして、それ故にその御趣意には吾々三人共そういうようなことがなくては損害賠償というものが如何にも唯売り買い見たようなことになって、動かぬものであるというので七百三十一条に一項を加えて置いたのであります。是は何にも例があるのであります。とにかく権利侵害という事だけの事実が通則としてありませぬと誠にその境いがありませぬのでありまして、幾らか社会に住んで居る以上は他人に損害を及ぼすということが度々あることでありますから、その境いだけは存して置いて貰いたいと思います。しかし斯の如くして置くと御説の通り外の何か子が扶養の権利を害されたとか致して、それに償わなければ不都合であるようですな。それでは横田君の御考えでは不都合でありましょう。それも方々に規定が随分あるのであります。外の権利は何も害されては居らぬ、でも或極く密接の関係であって非常に感覚を害された、非常に悲みがあるとかいうことに就いては、その事柄だけで賠償の責を生じさせるという特別の一ケ条を置いたならば、それはやはりそれだけは例外として、そうしてその箇条に依ってそれだけの権利が始めて認められたということになるのでありますから、理屈が通るじゃろうと思います。是も多分議論があるようであります。ローマ法などでは御承知の通りレクシヤクーリヤ、どうしても特別の権利を害されないと請求権はないのでありますが、例えば夫が殺された場合には未亡人、子が殺された場合には親、親が殺された場合には子とか、極く直接に生活上依頼すべき場合、又その被害の場合に於ては人情として非常に感覚を害される、そういう場合だけを特別に規定するということは諸国に往々あるのであります。例えばドイツの普通法ではその請求権がそれだけ特別にあるという方に一般になって居るようであります。それからドイツの判決例では未亡人と親の殺された場合には子と、それだけは他の財産権を害されるとか或は扶養の権利を害されるとかいうことになっても、未亡人と子だけは未亡人と子だけ、オーストリアもそうなって居ります。オランダでも未亡人と子だけに限ってあります。ポルトガルは子の死に致した死亡の場合だけであります。横田君の御考えも大概死亡の場合に限るでしょう悲みとかいうことは、未亡人が一度ひ傍に嫁に往ったならばその権利を失うとか、之は未亡人だけになって居ります。それからモンテネグロの法文は余程之には断はりが附いて居りまして、貴重なる人の死というものを金で買えるということは大変面白くないことである。是は論文見たような条文があります。「人ノ貴重ナル死ヲ金ニ云々穏カナラヌコトナルニ拘ハラス相続人ハ」と書いであります。プロイセンも未亡人と子、ザクセンは相続人、それからバイエルンの草案では、やはり未亡人が一度び他に嫁するまで、それだけは国々に於ては特に極く親族上近い関係のある者に、言わば悲みの償いとして独立の請求権がある。妻が殺された場合には夫の方で堪えるが宜い。夫の方には一つもありませぬが未亡人、父母、子というものには特別の明文がある。若しそれが宜いというのならばその一ケ条を置くということにして、この処では範囲を「他人ニ損害ヲ加ヘタル者ハ」とボンヤリいうよりは、むしろその方が宜くはありますまいか。
重岡薫五郎君
少し御尋ねをしまするが、私の信ずる所では、凡そ秩序の立って居る社会に於て生存する人間というものは、他人に不当の損害を加えることは出来ぬという一つの義務があろうと思う。それに対して一方から言うと、猥りに他人から損害を受けないという権利が必らず胚胎して来ようと思います。果して世の中に不当の損害を受けないという権利があるとするならば、つまり損害があったならば直ちに権利の侵害という事柄は起って来るものであろうと思います。して見れば、この他人の権利の侵害ということは殆んど無用に属しはしなかろうかという考えがある。或は起草者の御説明に依ると、この権利は広いものである。生命財産権はもちろんであるということであれば、無論猥りに他人から権利の侵害を受けないという権利も御認めになって居るだろうと思う。然るにこの権利の侵害ということを書いたが為めに、大層本条の法文が明かになって立法の趣意が宜いとか何とかいう御趣意が私には解し兼ねるのであります。元来損害があれば、その損害からして権利の侵害ということが必然起って来ようと思いますが如何でございましょうか。
穂積陳重君
損害の生ずるということと、それから権利の侵害ということとは必ずしも伴はぬ。過失ならば大概の場合にはありましょう。この処の場合に於ては自分の行為に依って他人が商売上損をする。随分非常な不徳義な軽躁の挙動をやらせて、それが為めに随分得意を失うとかいうことがあろうと思います。法律上損害ということを言うのならば、並の損得の場合であって、遂にそれに帰するだろうと思うのであります。唯損害さえあればと斯ういう風に致して置きまするというと、権利の侵害はなくして損害を他人に及ぼしたという場合までも這入って、その不法行為に依る債権というものの範囲が甚だ不明瞭になりは致しますまいが、不法行為というのは元々題号に於て説明致しましたが如く、既にありまする権利を保護する法であります。是に依って新たに権利を創設するのでない。是に依って権利を保護するのでありますから、それ故に如何なることに依っても自分の故意・過失等に依って他人に損害を及ぼす、それに就いて債権を生ぜしめるということになりますると、是まで認めてない所の権利までも創設する場合がある。その創設する場合というものが甚だ範囲の分らぬ広いものにはなりはしまいかと思うのであります。
重岡薫五郎君
なお伺いますが、そうするとこの財産上とかその他に損害を受けないとか斯ういう権利は御認めになったのであるかどうか。斯ういう簡単なものは権利でないかどうであるか。
穂積陳重君
権利を侵されないという権利は認めて居りますが、社会に住んで居って人にどんな損害でも蒙らぬ権利というものは認めて居らない。斯ういう積りであります。
土方寧君
大変議論がありましたから私はもう長くは言いませぬが、この処で言わずに先の七百三十一条の所に往って案を出せという御話でありましたからそうかとも考えましたが、何しろただ今議事中のこの七百十九条が原則で、この原則がこのまま決するというと後で動かすことは難しいように思いますから、文章は今出来ませぬが、若し賛成者があれば、この処で意味だけ決して貰いたいと思うのであります。この条の他人の権利というものは大変広い意味を以て居る、債権も這入って居る。けれども債権の場合は、他に債権の規定があって、自らこの適用を受けないということになるという御話でありましたが、そうすると七百三十一条の生命、身体、自由又は名誉、之も仮りに権利とする、是等の権利は空漠たるものである。物権でもそうです。債権に比ぶれば、権利という言葉は一致して居りますけれども、その権利を区別すれば債権がある、物権がある、生命権がある、身体安全の権利がある、ということになって来ると是は権利そのものが大変違って来る。本当の権利というものは債権だけであろうと思います。物権というものは或は狭くして物に就いての権利があるということは言えるかも知れぬけれども、それも言葉の上だけの話である。所有権というものに就いて言っても所有権という一つの権利があるのやら、一つの法律の理想で人と物とに就いての関係の事実である、それを保護するに過きない、どれだけを保護せらるるかということは分かっては居ない。所有権既に然り、その他の生命権身体権などに至っては漠然たるものであって是等の権利は皆一様に持って居る権利である。財産権は財産のない人があるから、ない者もありましょう。けれども生命権のない人はない。身体自由の権のない人はない。皆が持って居る権利である。皆権利を充分に行使しようと思ったならば衝突して仕舞う。衝突しないようにするというのは、権利義務の幅を定めなければならぬのでありましょう。けれどもどうもその境界が分らぬと思う。自分が害せられた、それも人の権利の行使の結果であれば仕方ない、それで人を害せないように自分の権利を行使するという、その境界が難しい。それで実は不法行為で定めようとするのである。それであるならば、その定め方は充分にして置かぬといけない。充分に出来ぬで若し一歩誤まれば、非常な制裁がある。財産上であれば無限の責任がある。故意の場合は宜しい。殊更に人を害するという有意の場合は宜しいが、過失の場合過失を大変に厳格に梅君は見られるけれども、私はそれは酷に失すると思う。誰と雖も過失のない者はない。それを過失より生じたるものは皆責任を引受けなければならぬということは、随分酷な話と思う。同じ過失から生ずる結果でも事情に依っては賠償をしないでも宜いようなものがある。又過失より生ずる結果で以て著しいものがある。それは失火であるとかその他人命に関するものであるとか、是は非常に非常に被害者の方の位地に依って違う。特別の事情があるから過失殺傷と言われることが、随分刑法の罰は余程軽くなって居る。その場合に就ては私は取り除けのある方が宜かろうと思う。失火の方は刑法附則で以て規定になって居るから宜しうございますが、私の思い出したのは、過失に依って人を死に致した場合、この場合に於ては特別の規則が出来る方が宜かろうと思う。遺族というものがそれに就いてどれだけの権利があるということを法律が定める、そうすれば七百十九条の権利というのは大変広くなって居るけれども、今たとい致命の過失に就いては制限が附く。又そうでなければなるまいと思う。つまり余り厳重にすると人間は生きて居ってもあたかも死んで居ると同様なことになる。生きて居っても何もせずに死んだ積りで居れば間違いはないけれども、そういう訳にもいかぬ。それで言いたいことも言いしたいこともする。その結果過失で以て他人に害を加えると非常な制裁がある。そういうことになると言わず聞かず見ずに居って唯三度の飯を食って家に寝て居れは宜い、ということになる。結果は、それは本来の吾々の希望することではない。過失というものは誰でも免かれない。そういう場合に無限の責任があるということは実に酷な話と思いまするから、この場合だけは特別の規制が出来る方が宜かろうと思う。文章は今出来ませぬが、この条のままであると今言うような人を殺したというような場合は不都合と思いまするから、それは制限するという趣意で或は不法行為の中のどっかに過失で殺した場合は取退げにして、別に規則を設けるとか或は又それは民法で断らぬで特別にそういう規則を設けるとかいうことにして貰いたい。それだけのことであります。
都筑馨六君
私も少し疑いがありまするから伺って置きます。それは外でもありませぬが、火事と好一対の水害であります。日本の川の区域内には民有地というものが沢山あります。従って川の区域と流水の区域とは一致して居らぬ場合が沢山ある。それで川の中の地面を保護する為めに堤防の中に又堤防を築くことがある。そうして掻上げ堤というものは自分の地面に自分の責任で作るのであります。併この責任というものは、自分の地面のみならずと自分の後の地面と大きな区別を自分の地面を保護すると同時に保護して居る。それで過失に依ってその堤防を打壊わした時には、無論自分の所有地のみならず後の所有者の地面もそれが為めに損害を被る。又保護する為めにその掻上げ堤を故意に壊わす。それが為めにその堤防に沿うて居る後の地面の所有者というものが大変な損害を蒙る。それ等に就いても刑法に制裁がないから、総て損害を賠償しなければならぬという結果になるのでありますか。元来その堤防を維持する義務がないのみならず、自分の地面に作った堤防である。恰度土方君の出された疑いに能く似て居る疑いではないかと思います。
穂積陳重君
それは斯の如き目的を以てやった堤防を故意若くは過失に依って破壊し、それからして損害というものが生じました場合に於きましては、その責に任ずる本案の外に何も修正案がなけらねばその通りになるのであります。もっとも川の流れとかそういうような風のものに就いては、他にも或は鉱山とか何とかいうものがあるかも知れぬ。一つの過失というものに就いて大変の損害を生ずる。それを一遍の制限で程宜い所までに止めようということは誠に難しいのであります。例えば火事の場合でも何処まで止めて宜いものであるか、その程度というものが分らぬと思いますが、それは無責任とするか無責任とするのも酷い。最も著しい場合或は損害が非常に多人数に及ぶとか非常に大きいとかいう場合にはそれは特別法ででも行きませぬと到底民法の手には合はぬであろうと考えますので、それ故に或特別の場合に於ては特別の規則が出来るということは元より本案で咎めるということはチットモないのであります。この処では一般の規定にした以上は元より当然のことであろうと思います。そういうような保護の為めにしてあるものを故意とか過失とかいうもので議論する。それから自分の是まで拵えて居った掻上け堤とかいうようなものを自分の保護の為めに拵えて居る。しかしながら他人もそれに依って利益して居る。他人より請求されることもない。又他人に対してチットモ保存する義務もない。それならば自分で取除こうが、又は自分の過失に依って破壊しようが、少しもそれが為めに他人の権利を侵害するということにはなるまいと思うのであります。畢竟掻上げ堤というものの性質を私は能くは存じませぬが、それはもちろん自分の所有物を或有様に変えると他人が迷惑をする日除けを拵える都合に依ってその日除けを止すそうすると大変に向うの屋根が破れたとか火事があった際に類焼に早くしたとか色々なことがありましょうと思います。とにかく権利の侵害になれば本案ではその結果の大小に依らずその責を負わなければならぬという立て方になって居るのであります。
富井政章君
ただ今の場合は、権利を侵害したということにはならない方ではありませぬが、自分がその堤防を築かなければならぬという義務がある。即ち後の所有者は堤防を築かせる権利を持って居ってその堤防を取って仕舞ったのならば、他人の権利を侵害したのである。けれども、そういうことではなくて所有者が勝手にしてもせぬでも宜いというようなもので、その間接の結果として他人に損害を加えたというのならば、それは他人の権利を侵害した方にはならないと私は思います。但し今の場合に斯ういう堤防を築かなければならぬということであれば、それは違うのです。
議長(箕作麟祥君)
大分本条に就いては御論もありまして、土方君から大分長い御論がございましたが、別に賛成という声も聞えないようでありますから、他に御発議がなければ先に行かうと思いますが如何でございましょうか。
土方寧君
穂積君が幾らか制限するということに就いてなお考えて見ても宜いということであれば、七百三十一条に往って論じてその結果が七百十九条に及んで来てもそれは宜いでございましょうか。
議長(箕作麟祥君)
それは宜しうございます。それでは本条、他に御発議がなければ原案に決して次に移ります。
〔書記朗讀〕
第七百二十条 未成年者カ他人ニ損害ヲ加ヘタル場合ニ於テソノ行為ノ責任ヲ弁識スルニ足ルヘキ知能ヲ具ヘサリシトキハ其行為ニ付キ賠償ノ責ニ任セス
(参照)オーストリア民法一三〇八、ポルトガル民法二三七七、二三七九スイス債務法五八、ドイツ民法第一草案七〇九、同第二草案七五一、プロイセン一般ラント法一部六章四一、ザクセン民法四七、一一九、イギリス Jennings v. Rundall. 8 T. R. 335.
穂積陳重君
本条以下は、不法行為の主体となりまするものに就いて幾らか変例がありまする場合、一般の規則に嵌まり悪くい場合を規定したものであります。でこの未成年者の不法行為に依る損害賠償の責任に就きましては、既成法典は「自治産ナルト否トヲ問ハズ未成年者ハ有意又ハ粗忽ニテ加ヘタル不正ノ損害ニ付テハ刑事上責任ヲ免カル可キトキト雖モ民事上責任アリト宣告セラルルコト有リ」斯うあるのであります。でこの意味は決して刑法とは関係はない、唯刑法と責任の程度が同じでないということと、それから合意などということと、この責任の程度が違うということを示したのでありましょうが、とにかく書き方は随分奇妙なものでありまして、有意又は粗忽ならば責任があるとも書いてない。有意又は粗忽であるならば民事上責任がありと宣告せらるることありということが、その中で宣告せらるることもあり宣告せられぬこともある。殆ど一定の標準が極めてないような書き方であります。もっとも裁判官に余程の斟酌を許すという主義でありましょう。未成年者が屡々不法行為の主格となることがあるのでありまして、それ故に諸国の法典にも必ず是に付いては特別の規定があるものが多いのであります。しかしながら之を大きく別ければ未成年者というものは不法行為に就いては総て責任があるという方を原則として居りまするのと、責任がないという方を原則として居りまするのと、この両極端があるのでございます。イギリスは御承知の通り未成年者というものはこの不法行為に就きましては関係がないことでありまして、契約に関聯した不法行為でありませぬ以上は未成年者でも責任がある。ポルトガルもやはり責任がある。但刑事上責任なき時はこの限に在らずという風に書いであります。他の国々に於きましては、全く無責任という主義を取って居る所は之は実際上不都合でありまするから、何処でもありませぬが、幾らか未成年者というものに就いては特別の規定を設けて置きまする。その特別の規定も大きく別ては年齢を以てその責任を定めるという主義と、智能を以て責任を定めるという主義と斯う二つに別れて居るようであります。年齢を以て責任を定めるという主義は蓋しローマ法から来たのでありましょうか。ドイツ諸国などではそれに依て居る。七歳以下は丸で無責任、七歳から十八歳或は七歳から成年まではその行為の責を知って居るや否やということに就いて責任を決するということになって居ります。他の国々では全く智能を規模と致して居りまして、いやしくもその行為の責任というものを知って居るのならば責を負わせるという方の主義になって居ります。で第一にこの責任があると斯ういう方の主義に規定致しまするのも一応は理屈のありまするものであって、権利というものは随分子供でも害されることがあるので、その権利を害された以上というものは、一般の規定は過失云云であるけれども、しかしながらこの場合はやはり権利を元の有様に回復させるということに付いては責任がある、という方にする方が当然であるという方の考えから来て居るのでありましょう。でイギリスなどは原則としては先刻も申しました通り、どうも詳しく調べて見ましたが、何時でも過失又は故意というものがなけらねばいかぬということの判決例に皆皈しまするが、幼者未成年者に至りましては之を特別の場合と致してありまして、責任があるという方に致してありまする。蓋し是は実際の便宜上から重に来て居るという理由がありまする。それは何故そうかと申しますると、次の箇条、心神喪失の場合は又一轍に出て居りませぬ。又年齢に依って限るというのは如何にも杓子定規でありまして、いわゆるその規定というものは誤謬たるを免れないと思います。なるべくしかしながら責任を負わせ得るだけの事だけを負わせる方が宜いのでありますが、とにかく契約や何かのように実際結果を予想して且つ世事に余程の経験がなければ出来ぬというものとは違って、人の物を害してはならぬとかいうような観念は人に於て早く発達するものでありますから、どうも裁判官でこの処の責任は宜いとか悪るいとかいうことを程度にしてやりませぬと、つまり公平を得ることは出来なかろうと思うのであります。必ず七歳を越えたならば責任があるのが原則である、その以下は責任がないのが原則である、とかいうような杓子定規のことを極めるのはどうも当らないと思うのであります。それ故に智能の方を本とするという主義を採って本条の如く規定致しました。序でに御参考に申しますが或二三の国に於きましては、例えばオーストリア、スイス、プロイセン、バイエルンなどに於ては智能を本として責任の有無を定めて居りまするが、しかし責任を負わせる智能を備えない時でも之に代って賠償する人が賠償は出来ない有様に居る、或はそういう人がない時には裁判官が総ての事情を斟酌して賠償せしむることが出来る、即ち加害の有様、それからその人の財産上の有様、それから被害者の財産上の有様総てを斟酌して、或場合には裁判官が相当と認めたならばなお賠償を命ずることが出来る。斯ういう工合に立つでありまする所もある。スイスは何時も裁判官に余程広い範囲を任せるが民法の主義のようであります。是を一般の規定としては責任はないという方に致して、智能を備えなくては責任がない、裁判官が之を相当と認めたならば賠償を命ずることが出来ると斯ういう風に規定しであります。その説明を読んて見ると、例えばこの処に大変に金持の子供があって貧乏人の家を焼いたとか貧乏人の馬を殺したとか、そういうような風の場合などに於ては裁判官が賠償を命ずる。やはり智能の有無に拘わらず賠償させることが出来るというような理由を説明に挙げであります。是までに行くのが適当なものでありますが、とにかく初めの原則の故意又は過失というものがその責任を生ずる原則、且つその行為の不法なる所以、丸で小供に害されたような風の場合は、之は自分の不仕合せ、斯う諦めさせる方が却って簡単て宜くはあるまいかと思いまして、それ故に第二の裁判官に斟酌を与えるという規定はこの処に置かなんだのであります。
穂積八束君
ちょっとこの文字のことでありますが、私は素人で能く分りませぬから伺うのでありますが、何だか之を読んで見ますると、この行為の責任ということが余り重過ることではあるまいかと思うのであります。行為の責任を弁識すると云えば私共の解釈する所では、例えば小供が人に傷けては行けないとか、財産を毀損してはいけないとかいうようなことは、大概知って居るだろうと思いますが、この責任というものは七百十五条の法律を弁えて置かなければ責はないというように見えて、大いにその普通の法律上の責任を弁識するに足るべき智能というように見えて不都合ではないかと思いますが。唯その行為の結果を識るに足るだけの智能があればというようなことにしては如何でございましょうか。私の解釈が違って居りましょうか。
穂積陳重君
なるほど少し文字が重過ぎる弊はあるのであります。しかしながらその行為が宜いとか悪るいとかいうことを識るというだけの意味でありますが、もう少し軽い字があればなお結搆なのであります。行為の善悪を識ると言ってもなおこの処では穏かではないようであります。之をしては悪るいことであるとか或は宜いことであるとかいう事だけを標準にする刑法上などでも、是に似寄った文章が出て来て、それをして宜いとか悪るいとかいうことが、証拠や何かを取る取らぬということに就いても嘘だとか嘘でないとか、随分偽りの善い悪るいということを弁識するに足るということが標準になって居りますが、もう少し軽い字になれば結搆なことであります。法律上この事をすれば斯ういう責任がある斯ういうようなことは、それは大人でも知らぬ人が多いのであります。決してそういう重い意味ではない積りであります。
横田国臣君
私はこの行為の責任を弁識するという点、之は善悪とかいうことで、之をして善いとか悪るいということだけではいけないと思うのです。若し刑法の識別という字と同じ意味の字であるのならば、やはり人の物を取ってはいかぬ、人の物を傷けてはいかぬというようなことは小さい小供の時分から教えられる。それでこの弁識といういうのは私の考える所ではどうしても民法上に於て之を斯ういう風にすると、向うに斯ういう害を与えるという、その理屈だけは知って居らねばいかぬ。唯その事が善いとか悪るいとかいうことは、親から言うて聞かせれば宜いのである。そういうことでは元よりいかないと私は解釈する。それで唯善悪ばかりでなくそれだけの意味は籠めて欲しい。
重岡薫五郎君
本条に於きましては、この責任を弁識するに足るべき智能を備えたか否やということは起草とするのは、どっちかというと、即ち既成法典が不法行為のあった時には何処までも責任があるということを原則にしたものと見る。若しその責任を免かれんとするには、自ら挙証人になる未成年者は挙証の任に当らなければならぬと思う。若しそういうことであるならば、随分この責任を弁識すると言うても、斯ういうことの挙証の責というものは中々困難であろうと思う。或は十六歳以上とか十七歳以上とかいうものに向っては是だけの責任を負わせても宜しうございましょうが、六歳とか七歳とか十歳とかいうような者に向って挙証の責を負わせなければならぬというようなことに為っては随分困難なことであって、たとい弁識する能力のあるにもしろ、挙証の責が尽されぬというとミス々々不法行為の責任を負わなければならぬというような結果を生ずるだろうと思う。この点に就いて起草者は何か御考えがありますかどうでありますか。
穂積陳重君
元より未成年者の訴えられました場合に於て、本案の如くでありますれば、未成年者の方から己は責任を弁識するに足るべき智能を備えて居らなかったということの挙証をしなければいかぬのであります。是は刑法などの場合も同じことでありましょう。唯弁識するだけの考えがその行為に就いてあったか否やということは、その行為の事情その他の事の証拠に依って一方が主張するのでありまして、それで裁判官がその証拠に依って認定をするのでありますからして、それで挙証の責がありまするのは、未成年者の方が損でありまするが、一体第一に人に損害を加えた或は石を投げたとか人を打ったとか種々様々のことに就いては、まずその方が順序でありましょうかと思うのであります。「未成年者ハ不法行為ニ付テハ賠償ノ責ニ任セス但其行為ノ責任ヲ弁識スルニ足ルベキ智能ヲ備エタル時ハコノ限ニ在ラス」。斯ういう具合に御修正になりますれば、行為の責任が反対になるだろうと思います。未成年者が他人に損害を加えるということは随分あることであります。未成年者が他人に損害を加えることはいかない、それはしてはならぬ、悪るいことであるということは知って居る話だと思いまするから、それで斯の如く書いたのであります。若し重岡君の御考えのように反対にする方が宜ければ断然たる無責任主義を原則にすれば、その目的は違し得られると思います。
富井政章君
重岡君の御説は一応はもっともと思いますけれども、行為の責任を弁識するに足るべき智能ということは年齢ででも区別しなければならぬと思う。例えば十歳以下或は十二歳以下は智能のないものと推定す、それから以上はあったものと推定すということにしなければならぬ。如何となれば未成年の場合は誰が見ても智能が無いものと言える代りに、又十八歳や十九歳の場合は智能がないと見るのは如何にも不都合であろうと思う。年齢を以て分配を立てるということは一応はもっとものようにはありますけれども、今穂積君の言われた通りにそうすると、どうしても杓子定規の規定になる。そうして余程その規定か密にならんならぬと思います。それで之を唯引つ繰り返えして、智能のなかったものと推定するということは極めて不都合であろうと考える。小さい小供に就いては宜いけれども、少し年のいった者に就いては不都合であろうと思う。
重岡薫五郎君
私の考えでは、つまり斯うしてはどうかと思う。起草者の如くに年齢を以て之を極めるということは杓子定規で、その当を得ないということは、一応御もっとものことである。御もっとものことであるけれども、成年という斯ういうことも元と年齢で極めたのである。二十歳或は二十一歳としてもその男が智能が発達しないで精神錯乱ということにならぬでも、識別する能力がないかも知れぬ。つまり二十歳前後と云ってもその場合は何時でも都合が宜いということは出来ませぬからして、むしろそういうのならば、不法行為に就いての能力は、普通民法上の細かしい考えを有せなくても、兎も角も不法のことは出来ぬという、凡そ年齢はどの位の年齢であるかということを考えまして、或は十六歳とか或は十七歳とかにすれば、まず不法行為に就いての能力はあるものであるということを極めて行って、そうして十六歳以上とか十七歳以上とかに就いては、総て能力がある。しかしその者でも智識を有せないという証拠を挙げたなら責任を免ずるというような但書に本条のような規定でも置いても宜いが、十六歳以下の者に就いては責任がないということにして若し責任を負わせんという考えがあるならば、被害者の方からして行為の精神を弁識する智能力あるという証拠を挙げて初めて責任があるということにしたならば宜かろうと思う。とにかく普通の民法上の年齢よりは少なくして十六歳とか十七歳とか、幾らか之を早めるのは不都合はなかろうという考えを持って居るのであります。
議長(箕作麟祥君)
修正説を御出しになってはどうでありますか。
横田国臣君
私はこの処に一つ起草者に御尋ねをしたいことがあるのは、この七百二十条で見ると故意と過失とを別ずしてこの様に言うてある。刑法上で見るとこの処の場合に総てこの識別の有無を何するのであります。それを故意も過失も交ぜて直ちに識別で行くのが相当であるかどうかということを御尋ねをしたい。それで故意の場合には、それは私はたとい十二、三歳と雖も責任がある。無論十二、三歳の者の過失ということになって来ると余程又軽くなって、殆ど常人では過失でない時は同じものではないかと思うのです。それを故意も過失も唯一様なる標準に致すはどうであろうかと思うのです。
穂積陳重君
なるほど未成年は故意のある場合に責任があるのは重な場合でありましょう。しかしながら未成年もやはり過失に依って十四、五歳の者が非常な乱暴を働く。それが為めに近辺の硝子を壊わそうとは思はなかったけれども、遊ぶべからざる所に遊んで乱暴をして硝子を壊わしたとか何とかいうような工合で、過失も大変にあり得る。裁判官が過失と見るや否やということに就いては自ら年とかいうものに就いて、大人ならば之は責があるし、小供ならば過失とは言えないというような裁判官の胸には物指しが自ら違うて来るということがあろうと思います。過失を除くというと本条の要が余程少なくなるであろうと思います。故意でやった場合は多くは知って居る場合が多かろうと思うのであります。それでどうしても双方共この処へ、なるほど刑法では大いに区別する理由がありますが、この権利侵害損害賠償に就いては区別するとその要が余程減ずるであろうと思いまして別に考えもしませなんだが、特別に区別するということには考えが及ばなかったのであります。
横田国臣君
前にこの過失というのは常人の注意する所のことを言うたのである。そうすると今の若し未成年者に就いては斯ういう場合は過失とはせぬとか何とかいうことに裁判官が見るならば、この前の過失というものはやはり人の注意すべきことをしなかった、斯う見て往くようになりますが、その解釈であればこの処にも今の未成年者の過失というものは通常人の過失よりも一層低い所の度合いに置きたい。斯ういうことにずっとなって行くと極く小さいものには過失のないことになろうと思うのです。
穂積陳重君
それは前の過失という事柄は人の気風性質等に依るということではないのであります。通常の十人並の人がその事柄の性質それからその時その場所に於て通常与うべき注意を欠くということであります。それ故に小供の場合に於きましても大人程に小供というものが十人並に注意すべきものであるや否やということは甚だ難しい問題でありますが、とにかく裁判官が実際判断する時に裁判官の物指し、裁判官の斟酌が違うであろうということを申したのであって、その物指しそれ自身に於ては今の常人がその事柄の性質に依って、その時その場所に於てなすべきということをやはり外れない積りであります。
土方寧君
私はこの七百二十条は原案賛成であります。唯英米法では本案の原則と反対になって居ると仰っしゃりましたが、私はつまり英米法にいわゆる故意・過失がなくても不法行為になるということは極く例外の場合であろうと思う。その場合に未成年者が成年者と同じように責任があるということになって居ると考えます。外の故意・過失の場合には本案と同じようになると解して居る。つまりこの処に言う過失があったとは言えぬという点で、私犯の行為の種類に依ってその種類に必要なる所の人の意思、その意思が充分に発達しなかったというような所で、つまり結果は斯ういう風なことになるであろうと思って居る。それは唯御参考の為めに申して置きます。それからちょっとこの文字のことでありますが「其行為ノ責任ヲ弁識スル」と言うよりかは「行為ノ是非ヲ弁別スル」というようなことにでも改まったならばどうであろうかと思いまするが、如何でありましょうか。
穂積陳重君
その方が宜ければ、私だけはそれでも宜い。
梅謙次郎君
それだというと余り軽く聞える恐れがあるようですな。
長谷川喬君
起草委員に整理の時までに御考えを願ってはどうですか。
尾崎三良君
私はこの原案の通りで宜かろうと思う。今のように「是非ヲ弁別スル」ということになると余程軽いことになる。人の物を取っては悪るい、いけないということを弁別する。それは五つか六つの子供でも知って居る。どうも私は甚だ不同意であります。どうか原案のまま存せられんことを希望致します。
穂積八束君
そうするとちょっと尾崎君に御問い致しますが、責任というのはどれだけの幅のものを民法で仰っしゃるのでありますか。
尾崎三良君
私のいわゆる、責任というのは読んで字の如しで、斯ういう悪るいことをすれば是だけの責任がある・・・・・。
穂積八束君
その是だけの責任というのは、どれだけでありますか。
尾崎三良君
是だけという程度は、知らないでも悪るいことをすれば人に対して済まぬということだけを知って居、「是非」ということは余程違うと思う。余程責任というものが重いと思います。「是非」ということは唯人の物を取ってはならぬということを知ったならば宜いのであります。私はどうしても原案のままが宜かろうと考えます。
議長(箕作麟祥君)
起草委員はどうですか。考えるということにしては・・・・・。
梅謙次郎君
考えても是より善い案も出ないようであります。
議長(箕作麟祥君)
とにかく土方君のは修正案として賛成者があるのですか、どうですか。
土方寧君
私は修正案としては出しませぬ。
長谷川喬君
是は随分大事なことでありますから、整理までに御考えを願って置きましょう。
梅謙次郎君
それではそうしましょう。
議長(箕作麟祥君)
それならばそういうことにして、先きに行きます。
〔書記朗讀〕
第七百二十一条 心神喪失ノ間ニ他人ニ損害ヲ加ヘタル者ハ賠償ノ責ニ任セス但過失ニ依リテ一時心神喪失ノ状況ニ陥リタルトキハコノ限ニ在ラス
(参照)オーストリア民法一三〇七、一三〇八、ポルトガル民法二三七七、スイス債務法五七、五八、同能力法四、モンテネグロ財産法五七五、五七六、ドイツ民法第一草案七〇八、同第二草案七五〇、プロイセン一般ラント法一部六章三九乃至四一、ザクセン民法八一、一二〇、バイエルン民法草案二編五六、イギリス Weaver v. Ward. Hob.134. Cross v. Andrews. Cro Eliz. 622
穂積陳重君
心神喪失の者が不法行為に就いてその責に任ぜずして、却て之を監督する人が責に任ずるというのが、略々諸国その規定を同じく致して居りますけれども、是に就きましては別して、イギリスに於きましては昔から全く責任があるものだということに言い伝へ論じ伝へて居るのであります。しかしながら何故にイギリスで斯ういう工合になって来たかということをなお能く穿鑿して見まするというと、どうもエライ事実の根拠がないようであります。皆通常人が教科書などにはそう書いて居りまするが、あのチボツトなどがことに就いて疑いを超して論じて居る所を見ますると、実際是に就いて判決例がない。唯判決の時に裁判官がそういうことを言うのであるます。且つかのベーコン氏は自分の著書の中に心神喪失、瘋癲、白痴の如き者は人を害するの意なしと雖も、有意の所為に就てはその責に任せざるべからずということを書いて置いた。有意ということがあればもちろん責に任ずる人を害するということは要らない、斯ういう工合に書いてある。べーコン氏の如き名高い哲学者で法律家でありまするから、独りこの事ばかりに拘はりませぬ。このままの場合に於ても、あの人の言うた説が自然にイギリスでは判決例ででもあるかの如くに人が解して居る場合が幾らもある。例の名高い難船して己が一枚の板を押へて泳いで居った所が甲が己を突倒して自分の生命を全うした。それでも罪とならない。之は人が何だか判決例ででもあったように思うて居るがそうでない。どうも心神喪失で他人に損害を加えたというのが、いやしくも有意、心があってやったのであるというならば責任がある。しかし多くは心も何もない機械か或は石コロか土が動くようなものであるということで、無責任になって居ったのであります。しかし是はどうなって居っても格別吾々の参考になることではありませぬが、とにかく心神喪失の者に斯の如き責任を負わせるということは一番初めに論しましたが如く、少しもその責任の根拠というものがない。心の働きというものがなくして、言わば一人の人であるけれどもその人は大変不具の者であった。自分の行為に於てその責任に任ずるという有様にならない。刑法でありましても他の法律でありましても同じことでありますが、とにかくこの如き行為は社会に浮雲ないこともありますから、是を看護し之を監督致しまする者の方に責任を負わせるということを本則にして置く方がどうも穏かなものであろうと考えます。イギリスに反対のありまするのみで、他の国は何れも斯の如くなって居りまするのが、至極条理に当って居ろうと思います。それから但書に就いては別して諸国の例が同じであります。自分が例えば酒を飲みまする。それで酔うた勢いに暴れ廻って戸障子を破りまするとか或はなお悪るいことをするとかいうような場合、それは殆どこの但書がありませぬでも七百十条の本則に這入りまする。唯本文がありまする以上は之を断わって置きませぬと常には心神喪失して居ないでも時として心神喪失の場合がある。縦し酩酊などして居ないでも一時心神喪失したと断わる位の人がありまして、それで是が要るのであります。酒を飲んで暴れたとか或は博覧会の審査委員になって酒を飲んで酔って暴れて何か出品物を壊わしたというようなものは、それは過失ではない。そういうものはこの心神喪失の中に這入って宜かろうと思うのであります。
重岡薫五郎君
この但書は過失に因りて一時心神喪失の状況に陥った場合斯ういうのであるが、悪意に依れる心神喪失の場合、悪るいことをするとか或は誰かを害する為めに酒を飲んで元気を出したというような悪意の場合、斯ういうのはこの処に明文はありませぬが過失に依って一時心神を喪失した場合ですらも責任があると云えば、悪意の場合に就いては况んやというような訳で必ず責任があるということになって来ましょうが、若し悪意に依って一時の心神喪失でなくして永久に心神喪失をしたとかいうような場合に於てはどうなりますか。この点に付いて起草者の御意見を伺いたい。
穂積陳重君
悪意でありましても、永久の心神喪失になってそれから後にやりましたならば仕方があるまいと思います。今の御質問の過失ということだけで足るか足らぬかということは尚お考えて見ます。過失であっても悪意であってもそれが為めに丸で気違いになったとかいうようなものはやはり本則の方に這入るだろうと思います。
富井政章君
過失という字が二つの意味を違う本案に於ては、一つは故意という字に対する意味、又一つは不可抗力という字に対する意味、七百十九条の所は故意に対する狭まい方の意味である。この処ではそうでない。自分の責に帰すべき事由に依りてというようなことになる。
梅謙次郎君
何処この処で故意という字を止めたかというと、斯ういう訳であります。「故意ニ因リテ一時心神喪失ノ状況」初めから心神喪失の状況に陥らないのである。初めから酒を飲んで元気を付けて一杯機嫌でやりましょうと思うて飲んだのが即ち過失である。
長谷川喬君
刑法では聾唖者という者が這入って居りますが、この案では聾唖者、盲者は入れてないのでありますか。
穂積陳重君
聾唖者、盲者は他の国に於きましては入れてある所もあるようでありますが、本案ではそれが悪るいことをするということであって、他の社会上の売買とか或は所有権の譲り渡しとか、そういうこととは大いに性質が違うものでありますから、それで未成年者でもまず責任があるという主義を採りました位で、どうもこの処に聾唖者、殊に盲者などを入れるのは少し幅が広過ぎて危険であろうと思うて、心神喪失と致したのであります。多くはそうなって居ります。二三の国に於ては聾唖者、盲者も這入って居るのもあります。
富井政章君
禁治産者に関する規定を廃したのと同じことで、刑法でも悪るいことを規定をするということを予期して居る。現行刑法に於て聾唖者を全く無責任にしたということは私なとは大反対であります。
土方寧君
この但書でありますが、どうも私は但書はない方が宜さそうに思うのです。過失に因って一時心神喪失をしたのでも大底今の過失では過失の中に自然這入って居ると思います。むしろ人に害を加えた時に心神喪失者であると判した時分には無責任にするのが至当であろうと思う。一体酒でも飲み過ぎて気違いになった、そうして他人に損害を加えても気違いであったということであって見れば殆ど心が人の行為と見ることは出来ぬものでありますから、それは仕方があるまいと思う。この処には一時という字が違ってありますが実は是は難しい。何れ酒でも飲み過ぎて前後も分らぬで居ったというような場合でありましょうが、そんな場合はこの但書がなくても充分に分ると思います。私はこの但書がなくても但書で言わんとする所のことは本条の解釈で充分であろうと思う。フダン身持が悪るい、衛生法を知らぬ為めに病気に罹ったけれども医者にでも診せると癒る、そういう時には責任がある。害を加えた時には心神喪失の有様に居る、それからそのまま引続いで居れば責任がない。又幾らか経って精神を回復すれば責任がある。どうも区別は立たない。一体過失に依って心神喪失の有様に居ったということは酒でも飲み過ぎたとかいう場合でもありましょうが、この過失というものと天性というものの区別は難しいように思う。酒でも飲んで一時心神を喪失したというような時はそれは本文の適用で充分と思いますから、私はこの但書はなくても宜かろうと思います。
尾崎三良君
この過失に因って一時心神を喪失したということは、今の御説明に依ると酒を飲んで乱暴をするとかいうような御説明のように承知しましたが、どうもこの御説明が分らなかったのであります。この「過失ニ因リテ一時心神喪失」ということは酒を飲み過ぎたのであるということは解る人は恐らく千万中余計あるまいと思う。どうも斯ういうものがあるというと却って議論の種になって宜くあるまいと思う。今日物好きで酒に酔って物を壊わしたとかいうようなものはなかろうと思う。必ず後で済まぬと云ってあやまる。それから又酷いことをすれば言わぬでもそれだけの償いをするということは覚悟して居る。是を書くというと何だか訳が分らぬものになって仕舞う。それで私は土方君の説を賛成して置きます。
梅謙次郎君
之は丸で明文がないものならばそういうことは総てコンセンスで行きますから、誠に諸君の御説の通りであります。しかし明文が出来て「心神喪失ノ間ニ他人ニ損害ヲ加ヘタル者ハ賠償ノ責ニ任セス」とあると、現に契約などでも酔うて居る間に結んだ契約は効はない。それは学者の間に多少議論はありましょうけれども、本案に於ては契約は成立せぬという方になって居る。又そうでないというと私共は自分の為めでなく世の中の為めに困る。それでありますから若しこの但書がないと丸でこの箇条がなければ宜いかも知れませぬが、この箇条があるとどうしても酒に酔うて前後を全く忘却して居る、そういう場合には無責任であるという方が相当の解釈であろうと考えます。但書がなければ私はそういうように解釈する。どうも酒類とか又は薬品の作用に依りとかいうようなことにも書いて見ましたけれども、どうも斯ういう風に書くのは余り美事でもなし、且つは酒類と薬品に限るかということも疑ったのであります。何か電気などの作用で以て一時心神を喪失することもあるかも知れぬ。何か催眠術でも施してその間に悪るいことをする。それでも責任がないということになっては困ろうと考えます。それから日本では是まで余り拡がりませぬが、阿片を用いるというとそれが為めに一時精神を錯乱する。そんな場合に随分人を殺したり何かすることがあるそうです。そんな時に責任がないということになっては甚だ困る。若しこの但書がなければそんな場合でも責任がないという解釈になろうと考えます。
富井政章君
ちょっと一言附加えて置きます。唯不注意に因って自分が平生酒を飲めば人を打つとか或は損害を加えるということを知りながら飲むということではなく、極端の例ではありますが勇気を酒に藉て損害を人に加える。全く酩酊に手段を藉って飲んだという場合ですらフランスに於ては弁別心なき者が罪を犯したのは責任がないという明文があるが為めに、多くの学者はその場合にも責任がないと解釈して居る。それでは困るから或学者は色々苦心してそういう場合には責任があるということを説いて居る。大変難しい問題になって居る。そこで近頃は明かにそういう場合には責任があるということを刑法に書くに至った。私などはそういう場合などは規定がなくて責任があるということになるであろうと思うのですけれども、もう一つの場合ですな、単純なる不注意即ち自分が酒を飲めば精神が錯乱して仕舞う、錯乱すれば是までは何時でも人の物を壊わすとかいうことになる、そういうことは自分で知って居る、その場合に飲んで損害を生じた時にはこの但書がなければ私は責任がないという方になるであろうと考える。それでは誠に困る。それでこの規定があればそういう人間はです、精神の確かな時には酒を飲まぬようになる。酒を飲んだら斯ういう法律の規定がある、飲めばこの適用を受けるということを知って居るから飲まぬで慎んで居る。けれども若しこの但書がなければやる時は飲むです。
長谷川喬君
私も但書に付いて疑いがあるのであります。今富井君が弁じられましたが、それに就いて私の考えではなるほど平生酒を飲むと暴行をすることを自分て知って居る者が酒を飲んで、そうしてそれが為めに一時心神喪失の情況に陥った場合は責を負わせた方が宜かろうと思う。しかしながら丸で酒癖のない人又酒でなくても宜しい、水と酒と間違ったとか或は阿片を間違うて飲んだとかいうことで、それが為めに心神を喪失したものが私はあろうと思う。その者にまでも責任を負わせるというのは無理ではないかと思います。平生自分が酒を飲めば心神喪失するということを知りつつ飲んだのならばそれは責任を負わせても宜かろうが、どうも何も知らない真に過失で心神を喪失するに至った者がその者にまでもやはり責任を負わせるというのは少し不権衡ではあるまいかと思う。
穂積陳重君
長谷川君の御考えと吾々には同じ考えを持って斯の如く書いたのであります。過失なしに酒を飲むというような時にはもちろん「過失ニ因リテ」ということが当るまいと思います。
土方寧君
この但書は或はあっても宜いかも知れませぬが、之があるとどうも疑いが生ずる。今契約を結んだという例が出ましたが是は宜いと思う。それは相手方も知って居るべきものである。一方が心神喪失になった場合ならば相手方に不注意があるからそれで宜い。他の場合心神喪失になった者が暴行をしたら注意深い人なら逃げれば宜い。若し逃げ損って殺されて仕舞ったというような場合はどうも仕方がないと思う。この但書がありまするというと今富井君の言われた通り故意に酒を飲んでそうして人を殺したとかいう場合、酒飲みの悪るいことを知って居ってそうして飲んて酩酊したというような場合も這入る。私は故意の場合などはもちろん但書がなくても宜かろうと思う。全体この七百二十一条の本文の場合は七百十九条にある故意、過失の場合を定めたのでありますから、故意で態と酒を飲んで人を傷けたとかいうような場合は原則で支配することか充分に出来る。唯故意でない場合に就てどうかというと或は疑いを生ずるかも知れませぬが、しかしながら但書を書いて置いてもやはり疑いて生ずると思う。疑いを生じない場合は但書を書いて置かぬでも本文の通りで行けると思います。今の酒の上が悪るいということを知って居る、そうして飲んで酩酊中になした行為がこの過失の中に這入るという御話でありましたが、それは知って居るけれども制し切れぬということがある。是は一種の病気である。酒を飲んだ時に過失があるのではない。それはもう一種の病気である。そういうのは長い間に生じて来た一つの結果である。酒を飲ませぬでもフダン不養生である。遂に気違いになった、けれども医者に掛って癒ったというような場合には、やはりこの中に這入るのですな。ずーつと気違いになり切りならば本文で以て責任はないということになる。けれども医者に掛って癒ったホンの一時であったというような場合は、この中に這入るどうもこの区別が余程難しい。之がなかった所でこの本文と七百十九条と照らし合わせて見れば、適用上困ることはないと思いますから削った方が宜かろうと思う。
長谷川喬君
ちょっとこの但書に就いて御相談を致します。「過失ニ因リテ」ということでは御答弁の如く解釈することは難しいと思います。水だと思って酒を飲んだ、それは籠らない。平生酒を飲むと暴行するということを知りつつ飲んだのは過失であると言われますけれども、それはむしろ故意という方が宜くはないかと思う。前の方には「故意又ハ過失」ということがあるにも拘わらずこの処は過失とあって、故意というものを殊更に取退けたかの如くに解せられるから尚お分り憎い。それでその御趣意であるならば、もう少し御考えになることを希望致します。
梅謙次郎君
ただ今の長谷川君の御論は御もっともであります。実はこの文字は吾々の間でも工風して色々に書き直して見てこの方が一番分り易く、且つ疑いが少なかろうということでこの様に書くことに確定致しましたが、又諸君の御論で承って見ると完全の書き方とも思われませぬから、文字を考えるということは元より吾々が考えて見ても宜しうございますが、なお諸君も御考えを願います。それから之を削るということは余程危険であろうと考えますから、どうか充分に御注意を願いたい。如何となれば土方君などの御議論もありますがどうしても正当に解釈しますると「心神喪失ノ間ニ他人ニ損害ヲ加エタル者ハ賠償ノ責ニ任セス」という明文がある以上は、その心神喪失の原因はどんな原因であろうとも、やはり同じことにしなければならぬ。初めはどうあろうとも心神喪失という事実が発して後に悪るいことをしたのでありますれば、やはりこの箇条が当嵌まるようになって来る。しかのみならず私の考えでは初めから勇気を酒に藉るとか或は平生酒癖のあるということを知りつつ飲んで暴行したというような場合はもちろんのことである。一体酒というものは魔酔剤でありますから余計飲めは精神が錯乱するということは普通の人間なら知らなければならぬ。酒を飲んで精神が錯乱しない人はその人特別に都合の宜い身体を持って居る人である。酒というものはそういう性質を持って居るということは知らなければならぬ。然るに自分の平生の量も知らぬでガブ々々と飲んたというのは、それは大いなる過失であろうと考えます。私共自身は現にそういうことがあったのですが私共は自ら過失と認めて居る。飲んだが為めに泥酔して他人に損害を加えた、そういう場合に気の毒であるけれどもどうか天災と諦めて呉れというのは随分酷い話である。明文がなければそういう場合に責任があると解釈する人は少なかろうと考えます。若しこの但書を削ると仰せになるならば、むしろ七百二十一条全文を削る方が宜い。しかしながら是に就いては穂積君の御説明になった通り外国の例に於ても責任を負わせるということもあるし、それから但書の事項に就いては富井君から言われた通り外国に於ては盛んに議論があるのでありますから、何か一つ明文を定めて置かぬと疑が起るかも知れぬと考えます。殊に私が先刻契約の例を申しました所が、契約の場合は酔っぱらいということを知って居らなければならぬのであるから、つまりそんな者と契約する人が悪るいのであるということでありましたが、なるほど向い合ってする時には分るけれども、それが離れて居るような時には分らない。その場合に責任者がないというならばこの場合にも責任がないということは無理ではないか。明文がなければそういう論が出ようと思います。
都筑馨六君
私もこの「過失ニ因リテ」ということは少し広過ぎるという疑いを持て居ります。過失に因って熱病になるということは言えぬだろうと考えます。もう一つは睡眠術であります。多くの場合に於ては睡眠術に掛かる必要はないけれども、時としてはその必要に追って掛かるで。それは覚悟をして掛かるのであります。その場合に於ても責任を持たせるということも随分酷いことと思います。それで是は一時のこと、やはりドイツ民法草案の如くに「酒若クハ其他之ニ類似スル手段ニ因リ」というようにしてこの処を狭ばめられたならば如何なものでございましょうか。
穂積陳重君
ドイツは広くなって居る。酒その他の方法と書いてあって・・・・・・
都筑馨六君
「類似の」とある。
穂積陳重君
しかし睡眠術でも何んでも這入るのであろうと思いますが如何でございましょうか。初め酒と薬品だけに書いて見ましたがそれもどうも不安心で書き直おしたのであります。それはなお考えて見ましょう。
尾崎三良君
ダン々々御説もございましたが、何分この過失に因りて一時心神喪失するということは、必ず酒を飲んだとか薬を飲んだとかいうようなことには聞えない。是非そういうことにしなければならぬということであればそう書かなければ是では難しかろうと考える。それから酒を飲んでグデン々々々になって居る者と契約をしたのはそれは無効だということを学者は言って居る。それはそういうものは無効にして宜かろうと思う。それは随分あることであります。華族の若殿を青桜に引張って往って印をつかせるというようなことが随分ある。そんなことが証明せられたならば無効としても宜かろうと思う。それと同じようなことであって、万一そういうような我知らずに酒でも飲ませられたとかいうような場合に、何か麁相でもした場合はその状況に依って処しても宜かろうと思う。又今のように自分が酒癖が悪るいということを知りつつ飲んで、自分が悪るいことをしたというようなことは過失とは言えぬと思う。それ等のことは色々百端の事情があると思いますから、果して責任を負わせるか負わせぬかということはその時の事情に依って賢明なる裁判官が極めるということにして、この処に掲げて置かぬでも宜かろうと思います。掲げて置くと色々な疑いが生じて却って宜くなかろうと考える。
穂積陳重君
文字は尚お考えて見ます。
議長(箕作麟祥君)
文字は考えて見ようということでありますが、とにかく土方君の但書を削るという説に就いて決を採りましょう。
土方寧君
文字を考えて見るということでありますれば、別に決を御採りにならぬでも宜しうございます。
議長(箕作麟祥君)
しかし文字を考えるということと貴方の但書を削るという説とは大変に違いますから、まず貴方の説に就いて決を採って見ようと思うのであります。
土方寧君
今晩は御預りに願います。
議長(箕作麟祥君)
それでは発議者がそういうことで宜いということでありますれば、別に決を採りませぬ。今晩は是で散会致します。